南九州を支配した島津氏は分家・庶家が多い。これらは宗家を支える存在であったり、あるいは敵に回って混乱をもたらす存在であったりもした。14世紀から15世紀に成立した島津氏の一門家について、それぞれまとめてみた。
江戸時代の分家についてはこちらの記事にて。
所領にちなんだ名乗りの支族
13世紀~14世紀に成立した島津氏庶家は、当初は島津姓を名乗っていたようである。それが、地名を名乗りとするようになっていく。以下は、『島津国史』を参考に作成した系図である。
これら支族については関連記事にて。
鎌倉時代に成立した島津支族には、山田(やまだ)氏・阿蘇谷(あそたに)氏・給黎(きいれ)氏・町田(まちだ)氏・伊集院(いじゅういん)氏・伊作(いざく)氏などがある。また、島津忠久(しまづただひさ)が越前国(現在の福井県)守護に補任された際に次男の島津忠綱(ただつな)を守護代とした。こちらを越前家と呼んだりする。越前家からは知覧(ちらん)氏・宇宿(うすき)氏を名乗る庶家も出ている。
南北朝争乱期に入ると、4代当主の島津忠宗(ただむね)の息子たちが活躍する。和泉(いずみ)氏・佐多(さた)氏・新納(にいろ)氏・樺山(かばやま)氏・北郷(ほんごう)氏がそれである。宗家の島津貞久(さだひさ、5代当主)とともに戦い、南九州における島津氏支配を確立する立役者となった。これら5氏はその後も島津家中で重きをなしていく。
島津久泰にはじまる石坂氏についてはよくわからない。『島津国史』には、後嗣がなかったと記されている。また、島津貞久の子に島津氏忠なる人物があり、こちらも石坂氏の祖としている。
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宗家の分裂、そして増える分家
5代当主の島津貞久は、家督を分割して相続させた。薩摩国守護を三男の島津師久(もろひさ)に、大隅国守護を四男の島津氏久(うじひさ)に任せた。受領名からとってそれぞれを総州家(そうしゅうけ)、奥州家(おうしゅうけ)という。
南北朝争乱期の末期は、奥州家と総州家は協力しながら敵対勢力に当たった。しかし、共通の敵がいなくなると両家は対立。覇権を争うようになる。その結果、奥州家が主導権を握る。総州家は力を失い、ついには滅ぼされてしまう。
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8代当主の島津久豊(ひさとよ)の子から薩州家(さっしゅうけ)・豊州家(ほうしゅうけ)・羽洲家(うしゅうけ)・伯州家(はくしゅうけ)、9代の島津忠国(ただくに)の子から相州家(そうしゅうけ)と島津姓を名乗る分家が出てくる。桂(かつら)氏・迫水(さこみず)氏・喜入(きいれ)氏も当初は島津姓を名乗っていた。
15世紀の南九州は国衆の反乱に島津氏の内訌も絡んで、大いに乱れる。そんな中で、分家が宗家を脅かす存在になっていくのだ。島津忠国の三男の島津久逸(ひさやす)は伊作氏の養子に入り、こちらも乱世をかき回した。
奥州家
島津氏の宗家。父より大隅国守護を譲られた島津氏久を祖とする。島津氏久が陸奥守を称したことから「奥州家」と呼ばれる。奥州家2代(宗家7代)の島津元久(もとひさ)の時代に南九州の覇権を握り、大隅国のほか、薩摩国・日向国の守護にもなる。拠点ははじめ薩摩国鹿児島の東福寺城(とうふくじじょう、場所は鹿児島市清水町)、その後は大隅国大姶良(おおあいら)の大姶良城(おおあいらじょう、鹿児島県鹿屋市大姶良)、日向国救仁院(くにいん)の志布志城(しぶしじょう、鹿児島県志布志市志布志)と移す。再び鹿児島に戻り、新たに清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)を築いた。
元久の死後、伊集院氏がからんだ家督相続問題が勃発し、この抗争は島津久豊(ひさとよ、元久の弟、8代当主)が制する。伊集院氏や総州家といった領内の反抗勢力を抑え込むも、島津久豊の死後に再び乱れる。不安定な時代が続いていくことになる。そして、宗家11代当主の島津忠昌(ただまさ)以降は領内を抑えきることができなくなり、宗家としての力は弱くなっていく。
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総州家
こちらも本家筋。父から薩摩国守護を継承した島津師久が上総介を称したことから「総州家」と呼ばれる。薩摩郡の碇山城(いかりやまじょう、鹿児島県薩摩川内市天辰町)、山門院(やまといん)の木牟礼城(きのむれじょう、鹿児島県出水市高尾野)、河邊郡の平山城(ひらやまじょう、河邊城とも、鹿児島県南九州市川辺)などを拠点とした。
島津伊久(これひさ、総州家2代)と島津守久(もりひさ、伊久の子)が不和となって武力衝突したことをきっかけに、薩摩の主の地位を失う。親子喧嘩に介入した奥州家の島津元久に覇権を渡してしまうのである。
15世紀に入ると、奥州家と総州家が激しく対立する。奥州家に攻められて河邊郡を失い、薩摩郡を失い、そして応永29年(1422年)には木牟礼城も放棄して国外へ逃亡した。
永享2年(1430年)には日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)に潜伏していた島津久林(ひさもり、総州家5代)が島津忠国(ただくに、宗家9代)に攻められ、自害する。総州家の嫡流は途絶えた。庶流に碇山(いかりやま)氏や相馬(そうま)氏もある。
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川上氏
川上(かわかみ)氏初代の島津頼久(よりひさ)は島津貞久の庶長子。南北朝争乱期の初期に活躍し、貞久の名代として戦いに出向いたりもしている。川上氏は国老として島津宗家を支えた。また、戦国時代には川上久隅(かわかみひさずみ)・川上忠克(ただかつ)・川上久朗(ひさあき)・川上忠智(ただとも)・川上忠兄(ただえ)などが活躍した。
薩州家
島津久豊の次男の島津用久(もちひさ、当初の名は好久、持久とも名乗る)を祖とする。薩摩守を称したことから「薩州家」と呼ばれる。享徳2年(1453年)に薩摩国和泉郡に亀ヶ城(かめがじょう。出水城とも、場所は鹿児島県出水市麓町)を築いて拠点とした。薩州家はのちに薩摩南部の加世田(かせだ、南さつま市加世田)・川辺(かわなべ、南九州市川辺)・鹿籠(かご、枕崎市)なども領有する。
永享4年(1432年)に宗家9代の島津忠国が国内の反乱を抑えられず、島津用久が守護職を代行することになる。「守護代になった」と伝わるが、このときに守護を継承した可能性もある。島津忠国は実権をとりもどそうとし、領内は忠国派と用久派が二分して対立が続いた。しばらくのちに実権は島津忠国に戻り、兄弟は和解する。
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薩州家2代の島津国久(くにひさ)は、宗家の後継者に指名されていた。宗家10代当主の島津立久(たつひさ)にはなかなか子ができなかった。立久の妻は用久の娘で、その縁から国久を養子とした。その後、立久に男子が生まれたため、国久は宗家の相続を辞退した。
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15世紀末は島津氏分家の力がますます強くなり、宗家に対する反乱や分家どうしの争いが相次いだ。薩州家も独自に動くようになる。そして、16世紀に入って薩州家5代の島津実久(さねひさ)は宗家の家督を手にしようとする。その座を巡って、相州家の島津貴久と抗争を繰り広げた。一時は優勢で、守護についたとも考えられている。最終的には島津義虎(よしとら、実久の子)が和睦。薩州家は島津貴久の傘下となる。
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豊臣秀吉の軍に攻められ、天正15年(1587年)に薩州家は降伏。本領を安堵される。しかし、文禄2年(1593年)に改易されてしまう。朝鮮出兵の際に、島津忠辰(ただとき、義虎の子、薩州家7代)が豊臣秀吉の怒り買ったことが原因である。島津忠辰もしばらくのちに病死した。
豊州家
島津久豊の三男の島津季久(すえひさ)を祖とする。季久が豊後守を称したことから「豊州家」と呼ばれるようになる。大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)に所領を得て、瓜生野城(うりうのじょう、建昌城ともいう)を築いて居城とした。のちに日向国飫肥(宮崎県日南市飫肥)や志布志(鹿児島県志布志市志布志町)の領主でもあった。豊州家も有力分家のひとつとなる。
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島津季久は島津忠国・島津立久に従い、宗家を支えた。しかし若い島津忠昌が当主となると、島津氏は分家の統制がとれなくなる。豊州家も独自に動くようになり、本家に反乱を起こすようになった。
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16世紀前半の宗家の覇権をめぐる争いの中でも独自の行動を見せるが、最終的には島津貴久に従うようになる。
豊州家は日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)と長年にわたって抗争を続ける。しかし、戦況はどんどん悪くなり、飫肥をはじめとするすべての所領を失った。その後、一族は島津義弘(しまづよしひろ)などに仕え、のちに領主に復帰する。ちなみに、島津義弘は若い頃に豊州家に養子入りしていた時期もあったりする。
豊州家は江戸時代末期まで続き、薩摩藩の家老も多く出している。
羽州家
島津久豊の四男の島津有久(ありひさ)を祖とする。日向国庄内梅北(宮崎県都城市梅北町)に所領を得た。出羽守を称したことから「羽州家」と呼ばれる。のちに、島津忠明(ただあき、有久の孫)には薩摩国牛山(うしやま、鹿児島県伊佐市大口)が与えられている。羽州家は当主の戦死が続き、4代で断絶。16世紀後半に再興され、こちらはのちに大島(おおしま)氏を名乗る。
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伯州家
島津久豊の五男の島津豊久(とよひさ)を祖とする。伯耆守を称したことから、豊久の系統を「伯州家」という。日向国庄内志和池(しわち、宮崎県都城市志和池)を与えられたのち、薩摩国平和泉(ひらいずみ、伊佐市大口平出水)の領主となる。のちに義岡(よしおか)氏を名乗る。庶流に志和地(しわち、志和池とも)氏もある。
摂州家/喜入氏
島津忠国の七男の島津忠弘が薩摩国喜入(給黎、きいれ、現在の鹿児島市喜入)に所領を得たのが始まり。揖宿(いぶすき、鹿児島県指宿市、喜入に隣接する)を与えられていた島津頼久(忠国の八男)は子がなかったために忠弘に揖宿を譲渡しようと持ちかけた。一方、島津忠弘は子(島津忠誉)が幼少であったため、頼久を養子とし、さらに自分の子を頼久の後嗣とした。これにより喜入と揖宿をあわせて領するようになった。
島津姓を称し、「摂州家」とも呼ばれる。5代の喜入季久(きいれすえひさ)より「喜入」を名乗る。
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伊作氏
宗家3代当主の島津久経(ひさつね)の次男である島津久長(ひさなが)を祖とする。伊作氏は長い歴史を持つ庶家で、島津氏からは半独立的な立場をとったりもした。薩摩国伊作(いざく、現在の鹿児島県日置市吹上)を拠点とする。
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伊作氏は中世に存在感を放つも、争乱の中で勢いは下降気味に。 長禄2年12月(1459年1月)に7代当主の島津犬安丸が幼くして亡くなったため、島津忠国の三男が家督を継承した。8代当主の伊作久逸(いざくひさやす、島津久逸とも)である。
伊作久逸は宗家10代当主の島津立久の弟でもある。立久は日向方面の伊東(いとう)氏への備えとして、日向国櫛間院(くしまいん、宮崎県串間市)を伊作久逸に守らせた。しかし、島津忠昌の代になると、伊作久逸は反旗をひるがえした。これに呼応して南九州のあちこちで反乱が起こり、乱れに乱れる。
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伊作久逸は文明16年(1484年)に降伏し、本領の伊作に戻された。それからしばらくして久逸の孫が誕生する。名を菊三郎という。のちの島津忠良(しまづただよし、島津日新斎)である。
菊三郎のまわりでは不幸が続く。父の伊作善久(よしひさ)が馬丁に殺害され(暗殺か)、祖父の伊作久逸も明応9年(1500年)に戦死する。そのため、幼い菊三郎にかわって母の常盤(ときわ)が当主を代行し、相州家の支援を受けながらなんとか家名を保った。
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相州家
島津忠国の長男の島津友久(ともひさ)を祖とする。相模守を称したことから「相州家」と呼ばれる。薩摩国田布施・高橋・阿多(たぶせ・たかはし・あた、鹿児島県南さつま市金峰)を所領とし、亀ヶ城(かめがじょう、田布施城ともいう)を拠点とした。
島津友久は長男ながら宗家の当主にはならなかった。忠国のあとをついだのは、弟の立久だった。島津友久の母は伊作氏の出身。一方、島津立久の母は新納氏の出身である。島津忠国と島津用久が対立した際、新納氏は忠国派につき、伊作氏は用久派であった。友久が宗家をつがなかったのには、母方の実家の動きが影響していると思われる。
相州家2代の島津運久(ゆきひさ)は、伊作氏の常盤・菊三郎を支援した。伊作が攻められていた際には、救援の兵も出した。島津運久は未亡人の常盤に求婚。常盤は菊三郎に相州家の家督を相続させることを条件に、運久の妻となった。前述のとおり、相州家はもともと伊作氏と縁が深い。島津友久と伊作久逸は兄弟でもあり、島津運久にとって菊三郎は従兄弟の子なのだ。菊三郎の相州家相続も、そんなに無理な話でもない感じがする。
菊三郎は元服して忠良と名乗る。伊作氏の当主となり、さらに運久より相州家当主の座も譲り受けた。
戦乱の中で島津忠良はやがて頭角をあらわし、島津氏の覇権をうかがう存在となっていく。大永6年(1526年)、忠良は自身の子を宗家の後継者に送り込んだ。15代当主の島津貴久である。
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しかし、薩州家の島津実久も覇権を狙っていて、島津忠良・貴久親子と対立。また、「やっぱり家督を返して」と前当主の島津勝久も態度を変えた。この抗争は天文19年(1550年)頃まで続いた。そして、島津貴久が勝者となり、島津氏は戦国大名として拡大していくことになる。
島津貴久が宗家を相続したため、相州家4代には島津忠将(ただまさ、島津忠良の次男)がついた。のちに忠将の子の島津以久(もちひさ)は、日向国の佐土原藩(薩摩藩の支藩)の初代藩主となった。その後、島津忠興(ただおき、以久の三男)が佐土原藩主をついで佐土原島津家となる。
また、島津彰久(あきひさ、以久の長男)は垂水島津家の祖となる。垂水島津家は大隅国垂水(たるみず、鹿児島県垂水市)を領する。御一門(島津氏分家の中で最上位の家格)4家のひとつで、当主を出せる家柄でもあった。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『出水郷土誌』
編/出水市郷土誌編纂委員会 発行/出水市 2004年
『室町期島津氏領国の政治構造』
著/新名一仁 出版/戎光祥出版 2015年
『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
ほか