ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

室町時代

島津貴久の戦い、分家から薩摩の覇者へ ~戦国時代の南九州、激動の16世紀【まとめ】~

南九州は14世紀より戦乱が続く。島津氏は薩摩国・大隅国・日向国の守護職にあるが、一族の抗争が絶えず。ずっと領内を統治しきれないのであった。 14世紀から15世紀にかけての混乱期についてはこちら。 rekishikomugae.net rekishikomugae.net 16世紀に入っ…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(9)菱刈・大口の戦い、薩摩を制圧

島津貴久(しまづたかひさ)は日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)にも進出する。一方で、伊東義祐(いとうよしすけ)も真幸院への勢力拡大をうかがう。島津氏と伊東氏の野望がぶつかり、そこに肥後国の相良義陽(さがらよしひ)も絡んでくる。抗争…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(8)廻城の戦い、飫肥の役、真幸院の争乱

島津貴久(しまづたかひさ)は西大隅の帖佐・蒲生(ちょうさ・かもう、鹿児島県姶良市)を制圧し、さらなる勢力拡大をうかがう。ただ、反抗勢力を完全に押さえ込んだわけではなく、火種はあちこちにくすぶっている。 rekishikomugae.net そして、味方っだっ…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(7)大隅合戦、島津義久と島津義弘と島津歳久の初陣

天文21年(1552年)、島津貴久(しまづたかひさ)は任官がなり、幕府からも正式に守護と認められた。だが、領内はまだまだ安定しない。一度は帰順した西大隅の国人たちが、再び叛旗をひるがえすのである。 rekishikomugae.net 島津実久の死、薩州家との和睦 …

戦国時代の南九州、激動の16世紀(6)清水・加治木の動乱、ザビエルの来訪

島津貴久(しまづたかひさ)が本宗家の継承者となった。だが、もともとは分家である島津貴久の台頭に反発して、天文11年(1542年)に13人の一門衆・国衆が反乱を起こす。大隅国の生別府(おいのびゅう、鹿児島県霧島市隼人町小浜)や加治木(かじき、鹿児島…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(5)島津貴久を認めたくない13人、そして鉄砲伝来

島津氏の覇権をめぐる分家の争いは、相州家(そうしゅうけ)の島津忠良(しまづただよし)・島津貴久(たかひさ)父子が薩州家(さっしゅうけ)の島津実久(さねひさ)を圧倒した。天文8年(1539年)、島津貴久(相州家)が実質的に薩摩・大隅の太守となった…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(4)相州家の復権、島津忠良・島津貴久は南薩摩を平定

島津氏の覇権を分家の薩州家(さっしゅうけ)と相州家(そうしゅうけ)が争う。天文4年(1535年)10月に守護の島津勝久は鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)を出奔し、薩州家の島津実久(しまづさねひさ)が実権を握った。島津実久はこのときに…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(3)島津忠良の逆襲

大永6年(1526年)の政変で、島津宗家(奥州家、おうしゅうけ)では政権移譲が成る。権力を手にしたのは、相州家(そうしゅうけ、分家のひとつ)の島津忠良(しまづただよし)だった。14代当主の島津忠兼(しまづただかね、島津勝久、かつひさ)は引退し、後…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(2)薩州家の急襲、島津勝久の心変わり

領国経営に行き詰まった島津宗家(奥州家、おうしゅうけ)では、大永6年(1526年)に政権交代が実行された。14代当主の島津忠兼(しまづただかね、のちに島津勝久と改名)は引退し、新たに分家の相州家(そうしゅうけ)から島津貴久(たかひさ)が養子入りし…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(1)島津忠良が実権をつかむ、宗家を乗っ取る!?

14世紀の南北朝争乱期より、南九州はずっと戦乱が続く。守護の島津(しまづ)氏は領内統治に苦労する。反抗勢力に手を焼きつつ、一族内でも反乱が絶えず、収拾をつけられないままズルズルと時代は流れて、……激動の16世紀へ。 なお、記事内の日付は旧暦で記す…

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀【まとめ】

15世紀の南九州は、ずっと戦乱つづきであった。守護家である島津氏に分裂があり、家督相続問題もあり、そこに対立が生まれた。さらには、旧来からこの地にある国人衆もたびたび反抗する。守護家は支配体制を確立していこうと戦いを重ねていった。 しかし、安…

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(8)守護支配の崩壊、乱世に島津忠良が誕生

伊作久逸(いざくひさやす、島津氏庶流)の乱に端を発して、文明16年(1484年)から翌年にかけて島津氏領内に戦火が広がった。島津宗家11代当主の島津忠昌(しまづただまさ)は苦労しながらも、なんとか混乱をおさえ込んだ。 rekishikomugae.net rekishikomu…

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(7)伊作久逸の乱、祁答院の戦い

文明6年(1474年)、島津忠昌(しまづただまさ)が島津宗家の当主になった。しかしながら、忠昌はもともと後継者に指名されていなかった。寺に入っていたところ呼び戻され、還俗して家督をついだのである。しかも12歳とまだ若い。代替わりした島津宗家は、だ…

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(6)分家の台頭、三州大乱へ

島津立久(しまづたつひさ)は、父である9代当主の島津忠国(ただくに)を追放して実権を握り、実質的な当主であった。島津立久は分家・一門衆・国衆の協力も得ながら、混乱を治めていく。攻め滅ぼしたり、あるいは懐柔したりと、敵対勢力への対応もうまくこ…

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(5)島津忠国の失脚、島津立久の治世

15世紀中頃、南九州は島津忠国(しまづただくに、宗家9代当主)の天下となった。反抗勢力をおさえ込み、国人衆への影響力を強めた。また、島津忠国は弟たちを分家に立てて要所に配置し、島津一族による支配体制を強化していく。 rekishikomugae.net rekishik…

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(4)島津忠国と島津用久の対立

島津久豊(しまづひさとよ、島津宗家8代当主)は領内経営の手腕に長けた人物であった。強引に当主の座につきつつも反抗勢力を従え、領内の平定をおし進めた。しかし、領内はまだまだ不安定。地固めはこれから、というところで逝去する。強い当主がいなくなっ…

中世における島津氏の分家について、まとめてみた

南九州を支配した島津氏は分家・庶家が多い。これらは宗家を支える存在であったり、あるいは敵に回って混乱をもたらす存在であったりもした。 所領にちなんだ名乗りの支族 宗家の分裂、そして増える分家 奥州家 総州家 川上氏 薩州家 豊州家 羽州家 伯州家 …

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(3)島津久豊の薩摩平定

応永24年(1417年)、島津久豊(しまづひさとよ、宗家8代当主)は伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)を降伏させた。島津宗家(奥州家)の後継問題に端を発した争い(伊集院頼久の乱)は、ひとまず決着する。 rekishikomugae.net rekishikomugae.net 薩摩の…

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(2)伊集院頼久の乱

島津元久(しまづもとひさ、7代当主)は薩摩・大隅・日向の守護職を手にした。奥州家(おうしゅうけ)と総州家(そうしゅうけ)の争いは、ひとまず決着する。……しかし、このあとに波乱の展開が待っているのだ! 入来院重頼が清色城を奪還 島津元久の急逝、後…

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(1)奥州家と総州家、島津氏の分裂

南九州では南北朝争乱が終焉して、そのまま戦国時代へと突入する。守護家である島津(しまづ)氏は、支配体制をかためつつあった。しかし、島津氏は一族どうしで対立が生まれ、さらに家督争いもからむ。国人衆の争いも絶えず。不安定な状況が続き、乱れに乱…

南九州の南北朝争乱【まとめ】 1331年~1397年を一気にたどる

14世紀の日本は、まさに乱世である。京では足利尊氏(あしかがたかうじ)が樹立した武家政権(室町幕府、北朝)と、吉野に逃れた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の政府(南朝)が並び立つ。北朝と南朝の争いはなかなか決着がつかず、日本中が振り回される。 …

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(7) 南北朝合一へ、されど戦いは続く

九州探題の今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊)は九州平定を進めていく。九州の南朝方は勢いを失いつつあった。その一方で、永和元年・天授元年(1375年)7月の水島の変(前回記事を参照)により、島津氏は今川氏に反発。島津と今川の戦いも続いていた。 …

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(6)今川了俊がやってきた

足利尊氏(あしかがたかうじ)と足利直義(ただよし)が争った「観応の擾乱」(1350年~1352年)が収束したあと、全国的には北朝方(幕府方)が南朝方を圧倒しつつあった。しかし、九州では事情が違っていた。 rekishikomugae.net 守護家である少弐(しょう…

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(5) 島津と畠山の抗争

南北朝の争いは引き続き混沌とした状況に。貞和3年・正平2年(1347年)の吉野陥落をもって北朝方が圧倒するかと思いきや、幕府では足利尊氏(あしかがたかうじ)と足利直義(ただよし)の兄弟喧嘩(観応の擾乱)が勃発。幕府が分裂し、直義が南朝にくだった…

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(4) 観応の擾乱の波紋

足利尊氏(あしかがたかうじ)が擁立する京の持明院統(じみょういんとう、北朝)と、吉野山(現在の奈良県吉野町)に朝廷を構えた大覚寺統(だいかくじとう、南朝)との対立を軸に、内乱は続いていく。 九州では勢力が拮抗していた。康永元年・興国3年(134…

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(3) 懐良親王が薩摩へ

鎌倉幕府滅亡後の権力構造は二転三転し、南北朝の争乱はまったく収集がつかない状態が続く。 引き続き「南九州の南北朝争乱」を進める。今回も『島津国史』(19世紀初め頃に鹿児島藩(薩摩藩)が編纂した正史)に沿って南九州の動き見ていく。元号については…

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(2) 後醍醐天皇は諦めない

大混乱の南九州の南北朝争乱の2回目! 「南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(1)」では、足利(あしかが)氏の政権樹立まで頃の南九州の状況を取り上げた。鎌倉幕府滅亡、建武政権樹立と崩壊、足利尊氏(あしかがたかうじ)の挙兵と挫折と復活劇と政権樹…

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(1) 倒幕と建武政権崩壊

鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代へと移り変わっていく14世紀。ふたつの朝廷の対立を軸に、状況は二転三転する。その大まかな流れについては「鎌倉幕府滅亡から南北朝争乱へ」という記事を見てほしい。 戦乱は全国に広がり、九州もかなりの乱れっぷりであった。…

鎌倉幕府滅亡から南北朝争乱へ

14世紀の日本は混乱の時代である。鎌倉幕府が滅び、天皇家は分裂し、足利(あしかが)家の中でも内部抗争が起こる。めまぐるしく状況が変わる中で、地方の有力者たちも振り回される。複雑な要素がからみあい、決着はなかなかつかず。ややこしくてグダグダな…