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おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

戦国時代の南九州、激動の16世紀(5)島津貴久を認めたくない13人、そして鉄砲伝来

島津氏の覇権をめぐる分家の争いは、相州家(そうしゅうけ)の島津忠良(しまづただよし)・島津貴久(たかひさ)父子が薩州家(さっしゅうけ)の島津実久(さねひさ)を圧倒した。天文8年(1539年)、島津貴久(相州家)が実質的に薩摩・大隅の太守となった。

 

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だが、島津貴久が平定したのは薩摩国の中南部のみ。薩摩国北部や大隅国の領主たちは素直に従わないのである。激闘は続く!

 

なお、記事中の日付は旧暦で記す。

 

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その実態は下剋上

島津貴久(相州家)が当主の座につくまでの経緯は、だいたい次のような感じである。

本宗家14代当主の島津勝久(かつひさ、この時点では島津忠兼と名乗る)は領内を治める力がなく、薩州家の島津実久に当主の座を譲るよう迫られた。そこで、島津勝久は相州家の島津忠良を頼った。島津忠良に政治を任せ、さらに島津貴久(忠良の嫡男)を養子として守護職を譲ることにした。島津勝久は隠居の身となった。しかし、この動きに反発した島津実久(薩州家)がクーデターをはかる。相州家を権力の座から引きずりおろす。また、島津勝久は薩州家にそそのかれて、守護に復帰した。その後、薩州家と相州家が抗争を展開する。そんな中で、島津勝久は家老らの支持を失って鹿児島を追われる。島津実久(薩州家)が守護を代行することになった。相州家の島津忠良・島津貴久は、島津勝久と連携して薩州家と戦う。相州家が勝利し、島津貴久が覇権を握った。

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これは勝者である島津貴久の子孫によって書かれた歴史である。分家の島津貴久が本家の当主になった。その正当性を示そうとしている意図が見える。

「薩州家の島津実久が悪い奴だから倒した」とし、「島津貴久は島津勝久から正式に指名された後継者である」という要素も盛り込んでいる。分家の相州家が本宗家を乗っ取った、という感じを何とか出さないように……と。

だが、その実態は下剋上である。

そして、島津実久(薩州家)は実際に守護職についたという説も有力だという。事実だとすれば、その後の島津家当主(相州家の後裔)にとって都合が悪い。なかったことにされている可能性は高い。

また、相州家と薩州家が争っているとき、島津勝久は大隅国筒羽野(鹿児島県姶良郡湧水町吉松)の北原(きたはら)氏のもとに身を寄せていた。島津勝久(本宗家)は島津貴久(相州家)が鹿児島を制圧したことを喜んでいて、両者は手を組んでいたと考えられる。相州家に薩州家を倒してもらって、そのあと鹿児島に帰るつもりだったのではなかろうか。だが、島津貴久(相州家)がそのまま権力の座についてしまうのである。

島津忠良が島津勝久に復帰をうながしたけど応じなかった、とも伝わる。これも、実際はどうだったのか疑わしいところである。

その後、島津貴久(相州家)の権力掌握はすんなりとはいかない。一門衆や国人衆の支持を得るのに難儀したようだ。それは、正統な家督継承ではなかったからなのだろう。

 

 

相州家を支持しない13人、生別府城を囲む

天文10年(1541年)12月、島津貴久に対して反乱が起こる。13人の有力領主が結託して、大隅国小浜(おばま)の生別府城(おいのびゅうじょう、場所は鹿児島県霧島市隼人町小浜)を包囲した。生別府城は樺山善久(かばやまよしひさ、島津貴久の姉が嫁いでいる)の居城である。

遠浅の海から桜島を望む

小浜海岸、写真左奥の山が生別府城跡

 

反抗した13人の顔ぶれはつぎのとおり。

島津忠広(しまづただひろ)/日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)・櫛間(くしま、宮崎県串間市)・志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)の領主、分家の豊州家(ほうしゅうけ)の当主

北郷忠相(ほんごうただすけ)/日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市のあたり)の領主、島津支族

禰寝清年(ねじめきよとし)/大隅国禰寝院(ねじめいん、鹿児島県肝属郡南大隅町根占のあたり)の領主

伊地知重武(いじちしげたけ)/大隅国下大隅(しもおおすみ、鹿児島県垂水市のあたり)の領主

廻久元(めぐりひさもと)/大隅国廻(めぐり、鹿児島県霧島市福山町)の領主

敷根頼賀(しきね、名の読みわからず)/大隅国敷根(しきね、霧島市国分敷根)の領主

上井為秋(うわいためあき)/大隅国上井(うわい、霧島市国分上井)の領主

本田薫親(ほんだただちか)/大隅国清水(きよみず、霧島市国分清水)の領主

肝付兼演(きもつきかねひろ)/大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)の領主、肝付氏庶流

祁答院良重(けどういんよししげ)/大隅国帖佐(ちょうさ、姶良市の中部)・薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町のあたり)の領主、渋谷一族

蒲生茂清(かもうしげきよ)/大隅国蒲生院(かもういん、姶良市蒲生)の領主

入来院重朝(いりきいんしげとも)/薩摩国入来院(いりきいん、薩摩川内市入来・樋脇)・薩摩国薩摩郡(薩摩川内市の川内地区)の領主、渋谷一族

東郷重治(とうごうしげはる)/薩摩国東郷(とうごう、薩摩川内市東郷)の領主、渋谷一族

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島津貴久の妻の実家である入来院氏までもが敵にまわっている。相州家に対する領内の反発はかなりのものだった。

この反乱は、島津忠広(豊州家)と北郷氏が正当な守護であるはずの島津勝久を担いで主導権を奪おうとしたものだと思われる。島津勝久は北原氏のもとを離れたあと、北郷氏を頼った。また、禰寝氏は島津勝久の妻の実家である。勝久の夫人と子の益房丸は禰寝氏のもとに庇護されていた。

ちなみに本田薫親・伊地知重武・肝付兼演は島津勝久の家老であり、廻久元・敷根頼賀・上井為秋は本田氏に従っていた。

 

一方、相州家の支持者はつぎの面々。ちなみに、樺山氏・肝付氏・佐多氏は相州家とは姻戚関係にある。

樺山善久/大隅国小浜領主、島津支族

肝付兼続(きもつきかねつぐ)/大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点に広範囲を領する、肝付氏嫡流

北原祐兼(きたはらすけかね)/日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)・大隅国栗野院(くりのいん、鹿児島県姶良郡湧水町)などの領主、肝付氏庶流

島津忠俊(しまづただとし)/薩摩国喜入(きいれ、鹿児島市喜入)の領主、島津支族、のちに喜入氏を名乗る

佐多忠成(さたただなり)/薩摩国知覧(ちらん、鹿児島県南九州市知覧)の領主、島津支族

北原氏は島津勝久を支援していた(庇護もしていた)が、この時点では島津貴久の支持者にまわっている。相州家方に転じた理由についてはよくわからない。ただ、日向国で北郷氏と勢力争いを展開していて、敵の敵は味方という感じだろうか。

肝付兼続は島津貴久の姉を妻としていて、こちらは相州家とは親密な関係にあった。この頃は、大隅半島で豊州家・北郷氏・禰寝氏・伊地知氏を牽制する存在でもあった。天文11年5月には肝付氏領の日向国蓬原(ふつはら、志布志市有明町蓬原)を豊州家・北郷氏連合軍が攻め、肝付氏はこれを迎え撃った。

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生別府城を放棄、本田薫親と和睦

島津貴久は、家老の伊集院忠朗(いじゅういんただあき、島津支族伊集院氏庶流)を生別府城の救援に向かわせた。さらに、年が明けて天文11年(1542年)には、北原祐兼が本田氏領の溝辺玉利塁(場所は現在の霧島市溝辺町麓)を攻撃した。本田薫親は溝辺を守るために救援の兵を出したが、北原氏の軍がこれを破った。北原氏は溝辺を略取して高松城(霧島市溝辺町有川)に入った。

天文11年3月、島津忠良・島津貴久は船を出して生別府に出陣する。まずは北原祐兼と協力して加治木城(かじきじょう、肝付兼演の居城)を攻めた。しかし、城中から兵が撃って出て、祁答院良重・蒲生茂清の軍も攻めかかった。相州家方は大敗し、島津忠良・島津貴久も兵を退く。

田園風景の向こうに山城跡

加治木城跡

 

生別府城は敵の猛攻にさらされ、援軍の望みもなく孤立する。そこで、島津忠良・島津貴久は外交策で切り崩しを謀った。本田薫親に単独講和を持ち掛け、樺山氏領の割譲が和睦の条件となった。生別府に島津忠俊(喜入領主)を使者として遣わし、樺山善久に退去するよう説得した。樺山善久はこれを聞き入れた。

樺山氏には薩摩国谷山福元(鹿児島市上福元町・下福元町)に新たに所領が与えられ、こちらへ移った。

樺山氏が退去したあと、天文11年12月に小浜などの旧樺山氏領が本田薫親に与えられた。

本田氏は、もともと島津氏の被官として南九州に下向した一族である。12世紀末頃に本田親恒(ほんだちかつね)は惟宗忠久(これむねのただひさ、島津忠久、島津氏初代)に仕えた。惟宗忠久(島津忠久)が薩摩国・大隅国・日向国の守護職に補任されると、本田親恒が代官として南九州に入った。その後、本田氏は大隅国守護代を代々務め、国老の筆頭格として島津氏を支えた。

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本田薫親は大隅国清水を拠点に勢力を広げていた。島津氏本宗家の衰退とともに、島津氏から独立して戦国大名化しつつあった。島津貴久(相州家)は本田氏を味方に引き入れ、反抗勢力の勢いを止めた。

 

鉄砲伝来

天文11年(1542年)、種子島(たねがしま)氏に内紛が起こる。島主の種子島恵時(しげとき、さととき)とその嫡男の種子島時堯(ときたか、この頃は「直時」と名乗る)との間で不和があり、家臣団がふたつに分かれて争った。禰寝氏も介入し、天文11年3月に兵を送り込んできた。

種子島恵時は屋久島に逃れ、島津貴久に援助を求めた。そこで島津貴久は家老の新納康久(にいろやすひさ)を大将に出兵。種子島父子の争いを調停して和解させた。種子島恵時は子に家督を譲り、種子島時堯が当主となった。

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種子島といえば天文12年(1543年)の「鉄砲伝来」である。それまでの戦いのあり方を変えてしまう出来事は、父子喧嘩がおさまった直後のことであった(鉄砲伝来の年については諸説ある)。

天文12年8月25日、種子島南端の門倉岬(かどくらみさき、鹿児島県熊毛郡南種子町西之)にポルトガル船が漂着した。その後、船は島主のいる赤尾木(あかおぎ、鹿児島県西之表市西之表)に移される。船には火器を持つ者があり、種子島恵時・種子島時堯はこれを目の当たりにするのである。

其制以鉄為管 以架承之 管長二三尺 中為竅 外為薬池 與竅相通 而微火縄及薬池 雷動雷激 鉛弾迸出 所中皆穿 乃鉄砲也 (『島津国史』より)

意訳するとつぎのような感じだ。

鉄の管を組み合わたもので、管の長さは2尺から3尺くらい。火薬を溜める場所が外側にあり、管の中の穴に通じている。種火のついた縄が火薬に触れると、雷動雷撃! 鉛弾が発射され、何にでも穴をあける。これが鉄砲なのだ!

 

「戦に用いたらすごいことになるぞ!」と感じた種子島時堯は鉄砲を2丁購入した。この時、種子島時堯は15歳くらいである。好奇心旺盛な若い当主は、鉄砲に魅了されたのである。

種子島時堯は刀鍛冶の金兵衛清定(八板金兵衛)に鉄砲の製造を命じる。また、家臣の篠川小四郎に火薬の製造法を研究させた。

「これ欲しい! うちでもつくろう!」という発想がすごい。そして、半年から1年くらいで作ってしまうのだ。銃身は火薬の爆発に耐えられる丈夫な素材が必要だが、この島には鋼の鍛造技術が根付いていた。種子島は砂鉄がとれる。だから、優秀な刀鍛冶がいた。現在も種子鋏(たねばさみ)という特産品があったりもする。

鉄砲の情報を聞きつけて、紀伊国根来寺(ねごろじ、和歌山県岩出市根来にある)の杉坊(津田妙算か)が種子島にやってきた。鉄砲を買い求められ、種子島時堯は1丁を譲った。根来に鉄砲を持ち帰り、畿内でも鉄砲づくりがはじまった。また、和泉国堺(さかい、大阪府堺市)の商人の橘屋又三郎が種子島を訪れ、鉄砲製造を学んで堺に帰る。橘屋又三郎が製造法を伝えたことで、堺でも鉄砲がつくられるようになったという。

岬から海岸線を見下ろす

門倉岬の海岸

石造りの記念碑

門倉岬の鉄砲伝来記念碑

 

伊東義祐の台頭

伊東(いとう)氏は日向国都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市)を拠点に大きな勢力を持つ。日向南部の覇権をめぐって島津氏ともたびたび衝突している。

16世紀に入ると薩摩で島津氏に内訌が続くが、伊東氏にも内紛が勃発していた。天文2年(1533年)に伊東氏は日向国三俣院(みまたいん、宮崎県都城市高城・北諸県郡三股町)で北郷忠相に大敗し、同年に当主の伊東祐充(いとうすけみつ)が若くして病死する。その後、伊東家中では家督をめぐって争いが続いた。重臣らは反乱を治め、伊東祐吉(いとうすけよし、祐充の弟)を擁立して内訌はひとまず決着した。

しかし、天文5年(1536年)に伊東祐吉も20歳で病没。そこで、出家していた伊東祐清(すけきよ、祐充の弟、祐吉の兄)が還俗し、家督を継いだ。伊東祐清は天文6年(1537年)に足利義晴(あしかがよしはる、12代将軍)の偏諱を受けて「伊東義祐(いとうよしすけ)」と名乗るようになった。

伊東義祐が当主になると、伊東氏は盛り返す。ここから伊東氏の全盛期へと突入していくのである。伊東義祐は勢力を拡大し、日向国の南部にも侵攻。豊州家・北郷氏は伊東氏と衝突するようになるのだ。

天文11年(1542年)6月、伊東氏は北原氏と連携して日向国庄内(しょうない、都城市・北諸県郡三股町の一帯)に侵攻。この年から翌年にかけて北郷忠相と交戦する。北郷忠相は敵を撃退し、志和池城(しわちじょう)・山田城(やまだじょう)を北原氏から奪い取った。

盆地に広がる街並み

都城盆地、三俣院高城より見る

 

また、伊東氏は飫肥にも勢力を広げようと進出。島津忠広(豊州家)は伊東氏との戦いで手一杯である。島津貴久や肝付兼続と争う余裕はない。

 

豊州家と北郷氏が、島津貴久を認める

天文14年(1545年)、島津貴久は薩摩国伊集院の一宇治城(いちうじじょう、鹿児島県日置市伊集院)に居城を移した。それまでは、伊作(いざく、日置市吹上)や田布施(たぶせ、鹿児島県南さつま市金峰)を拠点としていた。

城址碑、石段を上がって城跡へ

一宇治城跡

【関連記事】一宇治城(伊集院城)跡にのぼってきた、島津貴久の薩摩平定の拠点

 

同年3月18日、反相州家派だった島津忠広(豊州家)と北郷忠相は一宇治城に見参する。帰順するとともに、島津貴久を太守(守護)と認めた。豊州家・北郷氏にとっては南下してくる伊東氏が脅威であり、島津貴久の傘下に入って支援を得ようという狙いもあったと思われる。

この頃、北郷氏のもとに身を寄せていたいた島津勝久は出奔したようだ(北郷氏により追放されたか?)。母方の実家である豊後国の大友氏のもとに亡命した。

また、同じ年に京の前関白(さきのかんぱく)の近衛稙家(このえたねいえ)は日野左大弁宰相(参議の町資将、まちすけまさ)を薩摩に遣わした。

島津氏の名乗りは、日向国・大隅国・薩摩国にまたがる「島津荘(しまづのしょう)」に由来する。島津荘の領主は近衛家であり、惟宗忠久(これむねのただひさ、島津忠久)が下司職(げすしき、荘園管理者)に任じられたことから島津氏の南九州統治は始まったのだ。つまり、近衛家は島津氏にとっては主君にあたる。

島津貴久は近衛家より束帯衣服を贈られ、近衛家から島津氏の当主であることが認められた。

……つづく。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

鹿児島県史料集35『樺山玄佐自記並雑 樺山紹剣自記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1995年

『貴久記』
著/島津久通 国立公文書館デジタルアーカイブより

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか