戦国時代
島津氏は、元亀2年(1571年)に島津貴久(しまづたかひさ)が没して代替わりをする。跡を継いだのは長男の島津義久(よしひさ)。そして、次男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)、三男の島津歳久(としひさ)、四男の島津家久(いえひさ)らが兄を…
島津義久(しまづよしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)の四兄弟の進撃は、島津氏の最大版図を築く。九州の大部分を制圧しようとしていた。 そして天正14年(1586年)、島津と大友が全面抗争へ。島津氏は大友氏領内…
肥後国では、島津義久(しまづよしひさ)と龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)による勢力争いが続いていた。 天正9年(1581年)8月、島津義久は肥後国水俣(みなまた、熊本県水俣市)を攻めて、相良義陽(さがらよしひ)を降伏させた。 球磨・葦北・八代(…
天正6年(1578年)11月、島津と大友が激突した。合戦の地は日向国の高城川原(たかじょうがわら、宮崎県児湯郡木城町高城)。「高城川の戦い」または「耳川の戦い」と呼ばれるものである。 島津義久(しまづよしひさ)はこの戦いに勝利する。一方の大友軍は…
天正5年12月(1578年1月)、島津義久(しまづよしひさ)は伊東義祐(いとうよしすけ)との戦いを制し、日向国(現在の宮崎県)を支配下においた。島津義久は薩摩・大隅・日向の3ヶ国の守護である。名実ともに「三州の太守」となったのである。 一方で、島津…
天正2年(1574年)、島津義久(しまづよしひさ)は長年の宿敵であった肝付(きもつき)氏を従属させた。大隅国を平定し、日向国南部の志布志(しぶし、鹿児島県志布志市)まで島津氏の支配下となった。薩摩国とあわせてその範囲は、現在の鹿児島県全域(島嶼…
薩摩国の島津義久(しまづよしひさ)、大隅国の肝付兼亮(きもつきかねあき、かねすけ)、日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)と、南九州では3つの勢力が鼎立。このうち伊東氏と肝付氏は手を結び、島津氏に対抗していた。 元亀2年(1571年)より肝付氏は水軍…
元亀元年(1570年)、島津貴久(しまづたかひさ)は薩摩国(鹿児島県の西側)を平定する。このほか、大隅国の西部(現在の鹿児島県霧島市・姶良市・姶良郡湧水町・伊佐市菱刈のあたり)、日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)にも勢力を広げ…
南九州は14世紀より戦乱が続く。島津氏は薩摩国・大隅国・日向国の守護職にあるが、一族の抗争が絶えず。ずっと領内を統治しきれないのであった。 14世紀から15世紀にかけての混乱期についてはこちら。 rekishikomugae.net rekishikomugae.net 16世紀に入っ…
島津貴久(しまづたかひさ)は日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)にも進出する。一方で、伊東義祐(いとうよしすけ)も真幸院への勢力拡大をうかがう。島津氏と伊東氏の野望がぶつかり、そこに肥後国の相良義陽(さがらよしひ)も絡んでくる。抗争…
島津貴久(しまづたかひさ)は西大隅の帖佐・蒲生(ちょうさ・かもう、鹿児島県姶良市)を制圧し、さらなる勢力拡大をうかがう。ただ、反抗勢力を完全に押さえ込んだわけではなく、火種はあちこちにくすぶっている。 rekishikomugae.net そして、味方っだっ…
天文21年(1552年)、島津貴久(しまづたかひさ)は任官がなり、幕府からも正式に守護と認められた。だが、領内はまだまだ安定しない。一度は帰順した西大隅の国人たちが、再び叛旗をひるがえすのである。 rekishikomugae.net 島津実久の死 加治木の動乱、再…
島津貴久(しまづたかひさ)が本宗家の継承者となった。だが、もともとは分家である島津貴久の台頭に反発して、天文11年(1542年)に13人の一門衆・国衆が反乱を起こす。大隅国の生別府(おいのびゅう、鹿児島県霧島市隼人町小浜)や加治木(かじき、鹿児島…
島津氏の覇権をめぐる分家の争いは、相州家(そうしゅうけ)の島津忠良(しまづただよし)・島津貴久(たかひさ)父子が薩州家(さっしゅうけ)の島津実久(さねひさ)を圧倒した。天文8年(1539年)、島津貴久(相州家)が実質的に薩摩・大隅の太守となった…
島津氏の覇権を分家の薩州家(さっしゅうけ)と相州家(そうしゅうけ)が争う。天文4年(1535年)10月に守護の島津勝久は鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)を出奔し、薩州家の島津実久(しまづさねひさ)が実権を握った。島津実久はこのときに…
大永6年(1526年)の政変で、島津宗家(奥州家、おうしゅうけ)では政権移譲が成る。権力を手にしたのは、相州家(そうしゅうけ、分家のひとつ)の島津忠良(しまづただよし)だった。14代当主の島津忠兼(しまづただかね、島津勝久、かつひさ)は引退し、後…
領国経営に行き詰まった島津宗家(奥州家、おうしゅうけ)では、大永6年(1526年)に政権交代が実行された。14代当主の島津忠兼(しまづただかね、のちに島津勝久と改名)は引退し、新たに分家の相州家(そうしゅうけ)から島津貴久(たかひさ)が養子入りし…
14世紀の南北朝争乱期より、南九州はずっと戦乱が続く。守護の島津(しまづ)氏は領内統治に苦労する。反抗勢力に手を焼きつつ、一族内でも反乱が絶えず、収拾をつけられないままズルズルと時代は流れて、……激動の16世紀へ。 なお、記事内の日付は旧暦で記す…
15世紀の南九州は、ずっと戦乱つづきであった。守護家である島津氏に分裂があり、家督相続問題もあり、そこに対立が生まれた。さらには、旧来からこの地にある国人衆もたびたび反抗する。守護家は支配体制を確立していこうと戦いを重ねていった。 しかし、安…
伊作久逸(いざくひさやす、島津氏庶流)の乱に端を発して、文明16年(1484年)から翌年にかけて島津氏領内に戦火が広がった。島津宗家11代当主の島津忠昌(しまづただまさ)は苦労しながらも、なんとか混乱をおさえ込んだ。 rekishikomugae.net rekishikomu…
文明6年(1474年)、島津忠昌(しまづただまさ)が島津宗家の当主になった。しかしながら、忠昌はもともと後継者に指名されていなかった。寺に入っていたところ呼び戻され、還俗して家督をついだのである。しかも12歳とまだ若い。代替わりした島津宗家は、だ…
島津立久(しまづたつひさ)は、父である9代当主の島津忠国(ただくに)を追放して実権を握り、実質的な当主であった。島津立久は分家・一門衆・国衆の協力も得ながら、混乱を治めていく。攻め滅ぼしたり、あるいは懐柔したりと、敵対勢力への対応もうまくこ…
15世紀中頃、南九州は島津忠国(しまづただくに、宗家9代当主)の天下となった。反抗勢力をおさえ込み、国人衆への影響力を強めた。また、島津忠国は弟たちを分家に立てて要所に配置し、島津一族による支配体制を強化していく。 rekishikomugae.net rekishik…
島津久豊(しまづひさとよ、島津宗家8代当主)は領内経営の手腕に長けた人物であった。強引に当主の座につきつつも反抗勢力を従え、領内の平定をおし進めた。しかし、領内はまだまだ不安定。地固めはこれから、というところで逝去する。強い当主がいなくなっ…
南九州を支配した島津氏は分家・庶家が多い。これらは宗家を支える存在であったり、あるいは敵に回って混乱をもたらす存在であったりもした。14世紀から15世紀に成立した島津氏の一門家について、それぞれまとめてみた。 所領にちなんだ名乗りの支族 宗家の…
応永24年(1417年)、島津久豊(しまづひさとよ、宗家8代当主)は伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)を降伏させた。島津宗家(奥州家)の後継問題に端を発した争い(伊集院頼久の乱)は、ひとまず決着する。 rekishikomugae.net rekishikomugae.net 薩摩の…
島津元久(しまづもとひさ、7代当主)は薩摩・大隅・日向の守護職を手にした。奥州家(おうしゅうけ)と総州家(そうしゅうけ)の争いは、ひとまず決着する。……しかし、このあとに波乱の展開が待っているのだ! 入来院重頼が清色城を奪還 島津元久の急逝、後…
南九州では南北朝争乱が終焉して、そのまま戦国時代へと突入する。守護家である島津(しまづ)氏は、支配体制をかためつつあった。しかし、島津氏は一族どうしで対立が生まれ、さらに家督争いもからむ。国人衆の争いも絶えず。不安定な状況が続き、乱れに乱…