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戦国時代の南九州、激動の16世紀(2)薩州家の急襲、島津勝久の心変わり

領国経営に行き詰まった島津宗家(奥州家、おうしゅうけ)では、大永6年(1526年)に政権交代が実行された。14代当主の島津忠兼(しまづただかね、のちに島津勝久と改名)は引退し、新たに分家の相州家(そうしゅうけ)から島津貴久(たかひさ)が養子入りして当主に擁立されたのだ。そして、若い15代当主の後見として島津忠良(ただよし)が実権を握る。

 

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この政権交代に猛烈に反発する分家がもうひとつ。薩州家(さっしゅうけ)はすぐに反撃に動く。

なお、記事内の日付は旧暦で記す。また、資料によって日付に違いがあるが、おおむね『島津国史』に沿ったものとする。

 

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帖佐の反乱と島津忠兼の隠居

大永6年12月(1527年1月)、島津貴久が当主となってすぐの頃である。大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市の中央部)地頭の邊川忠直(へがわただなお、島津氏庶流川上氏の支族)が謀反。帖佐本城(平山城、姶良市鍋倉)と新城(姶良市三拾町)にたてこもった。

鳥居と石段、曲輪の痕跡が見える帖佐八幡神社の入口

帖佐本城(平山城)跡

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これには薩州家もからんでいる。島津実久(さねひさ、薩州家5代当主)は配下の島津安久(しまづやすひさ、島津忠国の五男の孫)を援軍として送った。

薩州家は島津氏の分家の中でもっとも大きな勢力を持つ。薩摩国北部の出水・山門・阿久根(いずみ・やまと・あくね、鹿児島県出水市・阿久根市の一帯)を本拠地とし、ほかに薩摩国中部の串木野・市来(くしきの・いちき、いちき串木野市)、南部の加世田(かせだ、南さつま市加世田)・河邊(かわなべ、南九州市川辺)・鹿籠(かご、枕崎市)などにも所領を有する。

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島津忠良は鹿児島より出陣。12月7日に帖佐本城・新城を落とした。邊川忠直と島津安久は討ち取られる。この軍功を賞して、島津忠兼は伊集院(いじゅういん、鹿児島県日置市伊集院)・谷山(たにやま、鹿児島市谷山)を与えた。また、島津忠良は島津昌久(まさひさ、薩州家の一族、妻は島津忠良の姉)を帖佐地頭にしたいと願い出て、これも許された。

大永7年(1527年)4月には大隅国溝辺(みぞべ、鹿児島県霧島市溝辺)などを領する国老の肝付兼演(きもつきかねひろ)に邊川(へがわ、場所は姶良市加治木町辺川)・中之眇(加治木のどこか、場所の詳細わからず)が与えられた。

4月16日、島津忠兼は鹿児島を出て伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)に移った。島津忠良は伊作城を献上し、ここを島津忠兼の隠居所と定めたのである。当初、隠居地の候補として、市来(いちき、市来城の場所は鹿児島県日置市東市来)・伊集院・加治木・帖佐から選んでもらうよう島津忠良はうかがいをたてた。だが、島津忠兼はいずれも気に入らなかったようだ。そこで島津忠良は田布施・高橋・阿多(たぶせ・たかはし・あた、鹿児島県南さつま市金峰)、そして伊作の地をすすめた。いずれも島津忠良にとって先祖伝来の地であった。島津忠兼は伊作を選ぶ。

4月29日、島津忠兼は出家する。島津忠良も剃髪し、法号を「愚谷軒日新斎(ぐこくけんじっしんさい)」とした。

島津氏の歴史(『島津国史』や『島津世禄記』などに記される)では、島津忠兼がみずから望んで隠居した、という感じで書かれている。しかし、本当のところは追放だったのだろう。

5月、帖佐で再び戦火があがる。今度は島津昌久が謀反。薩州家方に寝返った。加治木地頭の伊地知重貞(いじちしげさだ)も反乱に加わった。島津忠良は帖佐に軍を進め、6月5日に加治木城・帖佐本城を落とす。島津昌久・伊地知重貞は討ち取られた。

石段の登り口に「加治木旧城址」」とある

加治木城跡の石段

 

 

 

薩州家が鹿児島を奪う、島津忠兼の守護復帰

島津忠良(相州家)が帖佐・加治木に遠征している隙をついて、薩州家が動く。島津実久(薩州家)は家臣の川上忠克(かわかみただかつ、島津氏庶流川上氏の支族)を伊作の島津忠兼のもとに送る。そして、守護職復帰を説いた。

大永7年(1527年)6月11日、薩州家は出水・串木野・市来より兵を出して伊集院城(いじゅういんじょう、一宇治城、いちうじじょう)を落とす。また、加世田・河邉・鹿籠・山田の兵が谷山城を陥落させた。

島津忠良は帖佐・加治木の反乱を鎮定して鹿児島に戻る。帰路の船中で島津忠良は「島津忠兼に帖佐・加治木に移ってもらったほうがいいだろう」と考えたとも。伊作まで相談に行くつもりであったが、事態はそれどころではなかった。船が鹿児島の戸柱(とばしら、鹿児島市春日町のあたり)に差しかかったとき、島津忠良は異変を知る。予定を変えて谷山に上陸し、山を越えて田布施に戻った。

城跡の一角に神社が鎮座、鳥居の向こうに社殿や記念碑も見える

田布施城(亀ヶ城)跡

 

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島津実久(薩州家)は鹿児島をうかがい、島津貴久に守護職の返還をせまった。島津貴久はこれを拒絶し、清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)の守りを固める。しかし、鹿児島に内応者ありとの噂がたち、これを聞きつけた小野(おの、鹿児島市小野)領主の園田実明(そのださねあき)が城を脱出するべきと進言。島津貴久は6月15日夜に城を抜け出した。山田伊予守・木脇祐兄・眞玉重実・長井善左衛門尉・鎌田政心・井尻祐宗ら家臣も従った。園田実明は島津貴久を小野に匿い、薩州家の追撃を防いだ。その間に、島津貴久主従は小野から逃れて、山を越えて田布施まで逃げ延びた。

 

余談だが、園田実明の娘はのちに島津義弘(しまづよしひろ、島津貴久の次男)の後室となる。「実窓夫人(じっそうふじん)」「広瀬夫人(ひろせふじん)」「宰相殿(さいしょうどの)」と呼ばれ、鹿児島藩(薩摩藩)初代藩主の島津家久(いえひさ、島津忠恒、ただつね)を産む。

 

6月21日、島津忠兼は島津実久の誘いに応じて鹿児島の清水城に戻り、守護職に復帰した。翌年、島津忠兼は名を勝久(かつひさ)と改める。

 

 

薩州家の采配をとったのは誰?

島津実久(薩州家)は主導権を奪い返した。じつに鮮やかに作戦を成功させたのである。

ここで、ひとつ疑問がある。この作戦を指揮したのは島津実久であったのだろうか? というのも島津実久はこのとき15歳くらい。これほどの采配ができるものだろうか。しかも、出し抜いた相手は島津忠良なのである。混沌とした南九州を統べる基礎を作り上げた名将だ。もし、島津実久が采配をとっていたとしたら、とんでもない若者ということになる。

 

薩州家を動かしていたのは祖父の島津成久(しげひさ)だったのでは? という気がする。まだ若い実久を後見していたと考えるのが自然だろう。島津成久は薩州家3代当主で、当時は60歳くらいか。15世紀末から16世紀初めにかけての大混乱期を渡ってきただけに、経験は豊富だ。

 

『島津国史』をはじめとする江戸時代に島津氏(島津貴久の子孫たち)が編纂させた歴史では、薩州家の動きはすべて島津実久がやったことになっている。「悪いのはすべて実久だ!」ということにしたいようだ。島津成久はまったく出てこない。たぶん、出てくると不都合なのであろう。

じつは、島津成久の娘(名を御東という)は島津忠良(相州家)に嫁いでいて、島津貴久の母である。つまり、島津成久は島津貴久の祖父でもあるのだ。儒教的価値観から「島津貴久が祖父と戦った」とするのは印象が悪い。だから、抹消したかったのかも。そんな推測をしてみたが、どうだろうか?

 

ちなみに、島津成久の没年は天文5年(1536年)とされる。薩州家と相州家の抗争は、当初は薩州家が優勢だった。だが、天文5年(1536年)頃から相州家方が盛り返しはじめる。島津成久の死は、流れが変わる時期と重なっていたりもする。

 

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領内で戦火絶えず

島津宗家の政変により、領内の混乱はさらに激化していく。

島津忠兼(島津勝久)は大永7年(1527年)6月25日に大隅国蒲生(かもう、鹿児島県姶良市蒲生)を攻める。蒲生氏は島津氏の混乱に乗じて反乱を起こした。蒲生茂清(かもうしげきよ)は蒲生城から撃って出る。守護方は大敗する。

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7月7日には大隅国小浜(おばま、鹿児島県霧島市隼人町小浜)の生別府城(おいのびゅうじょう)に島津忠兼(島津勝久)が兵を送る。城主の樺山信久(かばやまのぶひさ、樺山広久、ひろひさ、島津氏庶流)は相州家を支持していた。信久の嫡男の樺山善久(よしひさ、この頃の名は幸久)は島津忠良の加冠で元服し、島津忠良の娘(御隅、おすみ、貴久の姉)を妻に迎えている。樺山信久はよく守り、7月16日に総攻撃をかけられるも城は落ちなかった。

一方、南薩摩でも戦いが……。島津忠兼(島津勝久)は配下の伊地知重貞(いじちしげさだ、帖佐で反乱を起こした伊地知重貞とは同名の別人)に伊作城守らせていた。島津実久(薩州家)は伊作の領有を求めたと聞いた島津忠良(相州家)は、7月23日に伊作城に夜襲をかける。伊地知重貞を討ち取り、城を奪い返した。これ以降、島津忠良はここを居城とする。

亀丸城の様子、曲輪の上は広くて記念碑も並ぶ

伊作城跡、写真は本丸の亀丸城

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8月3日、島津忠兼(島津勝久)は生別府城を再び攻めさせた。城は落ちず。島津忠兼は加治木に入り、使いを生別府城に送った。樺山信久か樺山善久のいずれかが鹿児島に出頭するよう命じた。そこで、樺山善久を鹿児島に送ることに。ちなみに『樺山玄佐自記』(樺山善久の自記)によると、鹿児島に行ったのは老中の村田越前守が扮した偽物であったという。樺山善久(偽物か)はしばらく滞在したのち、9月29日夜に鹿児島を脱出して生別府城に戻った。その後、再び召喚がかかるも、樺山氏側は応じなかった。

大永8年5月、日向国庄内の梅北(うめきた、宮崎県都城市梅北)で伊東祐充(いとうすけみつ)と新納忠勝(にいろただかつ)が戦う。伊東氏は日向国の広範囲を支配し、南方へ勢力を広げようとうかがっていた。新納氏は島津氏庶流で、日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志)を拠点とする。庄内の梅北(うめきた、都城市梅北)も領有している。

伊東軍は小鷹原(こだかばる)に、新納軍は冷水(ひやみず)にそれぞれ軍を進めた。伊東軍が冷水に攻めかかるが、新納軍はよく守り敵を押し返す。その頃、都之城(みやこのじょう、都城市都島のあたり)領主の北郷忠相(ほんごうただすけ、島津氏庶流)も800騎あまりを率いて梅北近くの城ヶ尾まで出てきていた。北郷忠相は双方から加勢を頼まれるが、伊東氏に味方する。伊東軍・北郷軍は新納軍を破る。新納忠武は梅北城に撤退した。

6月20日、島津勝久(このちょっと前くらいに改名したか)は北郷忠相の軍功を評して感状を出し、財部院(たからべいん、鹿児島県曽於市財部)を与えた。

享禄2年(1529年)1月、混乱に乗じて祁答院重武(けどういんしげたけ)が帖佐に進出。祁答院氏は渋谷(しぶや)氏の一族で、薩摩国祁答院(鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町)を拠点としている。祁答院重武は帖佐本城・新城・山田城(やまだじょう、姶良市山田)を奪う。また、同じ頃に肝付兼演が加治木城を奪った。

なお、樺山氏・北郷氏・新納氏については関連記事にて。

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和議をはかるために、豊州家の島津忠朝が奔走

日向国飫肥・櫛間(おび・くしま、宮崎県日南市・串間市)の領主である豊州家(ほうしゅうけ)の島津忠朝(ただとも)は、享禄2年(1529年)に領内の和平をはかろうと画策する。

豊州家もまた、薩州家・相州家とならぶ有力分家のひとつである。家中での影響力は大きい。島津忠朝は守護家に反発する者たちを説得し、和を結ぶよう取り計らった。そして、島津一門衆・国人衆がそろって守護に復帰した島津勝久に謁見して、和平会議を開く運びとなる。これには、守護家を中心とした領内統制体制を回復しようという狙いもあった。

島津忠朝(豊州家)・新納忠勝・禰寝清年(ねじめきよとし、大隅国南部の領主)・肝付兼演・本田薫親(ほんだただちか、大隅国清水の領主)・樺山善久・島津運久(相州家前当主、島津忠良の養父)・島津忠将(薩州家配下、島津実久の従兄弟)・阿多忠雄(薩州家配下)らが鹿児島の清水城に集まった。

相州家も島津忠朝の説得を受け入れ、この時点では島津貴久の守護相続を諦めていたものと思われる。『樺山玄佐自記』によると相州家からは島津運久とともに「又六郎殿」が和平会議に参加しているという。又六郎殿は島津貴久のことである可能性が高い。

だが、和平会議は決裂した。島津勝久が態度をはっきりさせなかったとも。集まった領主たちはみな帰っていく。島津勝久はあわてて島津忠朝を船で追いかけ、下大隅(しもおおすみ、鹿児島県垂水市)まで行くも会えなかったという。

 

 

曽於郡の戦い、大口の戦い

『島津国史』では和平会議の失敗ののち、戦いの記録が続く。

享禄2年(1529年)11月、曽於郡(そのこおり、霧島市国分重久のあたり)の春山原(はるやまばる)で北郷忠相と本田親尚(ほんだちかひさ、本田氏庶流)が戦った。北郷忠相が勝つ。

享禄3年(1530年)、薩摩国牛屎院(うしくそいん)の大口城(おおくちじょう、場所は鹿児島県伊佐市大口)が攻められる。この地は肥後国との国境に近く、羽州家(うしゅうけ、島津氏分家)の島津忠明(しまづただあき)が守っていた。攻め込んできたのは大隅国菱刈(ひしかり、伊佐市菱刈)の菱刈重州(ひしかりしげくに)、肥後国求磨(くま、熊本県人吉市のあたり)の相良(さがら)氏であった。7月27日に城は落ち、島津忠明は戦死。大口城は菱刈氏が取る。

眼下には田園風景が広がる

大口城跡から見る大口盆地

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また享禄3年には、大隅国囎唹(そお)の曽於郡城(そのこおりじょう、橘木城、霧島市国分重久)でも戦いがあった。もともと曽於郡城は本田兼親(ほんだかねちか、本田氏嫡流)のものであったが、大永5年(1525年)に本田親尚(ちかひさ、本田氏庶流)がかすめとり、さらにその翌年に北郷忠相が攻めて奪っていた。

本田兼親は曽於郡城を攻撃。祁答院氏も本田氏に援軍を出した。城を守る北郷久利(北郷氏の一族)は守り切れずに日向国都之城へ逃げる。北郷忠相も兵を出すが、救援できずに撤退した。本田兼親は旧領を取り戻した。

 

 

三俣院の戦い、伊東氏が揺らぐ

日向国南部の三俣院(みまたいん、宮崎県都城市・北諸県郡三股町)では伊東氏と北郷氏の抗争が続いていた。

三俣院のうち梶山城・勝岡城・野之美谷城・下ノ城・小山城・松尾城・山之口城・高城の8城を伊東氏がおさええていた。北郷氏は庄内の都之城・安永城を拠点にこれらと対峙していた。

この頃の伊東氏当主は伊東祐充(いとうすけみつ)。ちなみに父の伊東尹祐(ただすけ)が大永3年(1523年)に北郷氏との戦いの中で陣没している。伊東祐充は若くして家督をついだが、先代に劣らぬ勢いで領土を広げていた。ただ、家中では外戚の福永祐炳(ふくながすけあき、祐充の祖父)が台頭して政権を握り、旧来の家臣団との間で対立もおこっていた。

一方、北郷氏は伊東氏のたびたびの侵攻に対してなんとか踏ん張っていた。さらには日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市・小林市)の北原氏(きたはら、肝付氏庶流)、志布志の新納氏など周囲の領主たちも庄内を狙っていた。そんな中で8代当主となったのが北郷忠相(ほんごうただすけ)である。大永3年(1523年)の戦いでは寡兵で伊東氏・北原氏の大軍を撤退させる。その後は、伊東氏と和議を結び、娘を伊東祐充に嫁がせている。伊東祐充が新納忠勝を攻めた際には、同族の新納氏ではなく伊東氏についたりもしている。

天文元年(1532年)11月、北郷忠相は島津忠朝(豊州家、忠相とは従兄弟の間柄)・北原久兼(きたはらひさかね)と手を組んで伊東氏を攻める。

北郷軍4000余、豊州家6000余、北原軍8000余が三方より三俣院高城(みまたいんたかじょう、宮崎県都城市高城)を急襲。伊東氏方の兵力は三俣院の8城で13000を有し、敵の攻撃を迎え撃つも大敗。城は落ちなかったが、伊東軍は壊滅的な被害を出した。天文2年(1533年)3月にも再び攻め、伊東軍を大敗させた。

城跡から三俣院を見渡す、遠くに霧島連山も見える

三俣院高城(月山日和城)跡

 

天文2年8月には伊東祐充が病死。まだ23歳だった。若き当主が急死すると、伊東氏家中では内訌が勃発。伊東祐武(すけたけ、祐充の叔父)が反乱を起こし、政権の中枢にあった福永氏を自害に追い込んだ。伊東祐武が家督を継承しようとするが、祐充の弟を擁立する家臣がこれを打倒する。伊東氏は家中のゴタゴタもあって三俣院の維持も難しくなった。

天文3年(1534年)閏1月、北郷忠相はまたも三俣院高城を攻撃。城主の落合兼佳が内応し、城は落ちる。さらに、梶山城・勝岡城・山之口城の兵も城を棄てて逃亡する。三俣院の4つの城は北郷忠相のものとなった。

 

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相州家に動きなし?

「大永7年(1527年)7月に島津忠良が伊作城を奪回した」というところから、しばらく相州家に動きがない。つぎに登場するのは天文2年(1533年)2月の南郷城の戦いだ。『島津国史』『島津世家』『島津世禄記』『西藩野史』『明赫記』『貴久記』など江戸時代に作られた歴史書では、どれもそうなっているのである。

相州家だけでなく薩州家に関する記録もあまり出てこない。この両家は、当時の争乱の主役どころであるはずなのに。

空白期間は5年半ほどになる。この間に、何もなかったわけではないはず。記録が欠落していると考えるのが自然だ。もちろん、抹消されたという可能性も大いにあり。たぶん、この間の記録は島津忠良・島津貴久にとって都合の悪いものなのだろう。

状況から考えると、薩州家が激しく攻め立てていたと考えられる。鹿児島からも大軍が送られたりしたかもしれない。薩州家は薩摩国の北と南に勢力を持つ。それに加えて、相州家方だった伊集院や谷山もおさえている。相州家は北から、東から、南から攻められる。かなり厳しい状況だったと想像される。

そして、享禄2年(1529年)には島津忠朝(豊州家)の仲介により和議が成立しかける。鹿児島の和平会議にも参加。このときに、島津勝久を守護としてあおぐことを受け入れたことになる。しかし、この和平はならず。相州家の苦境は続く。


島津勝久が守護に返り咲き、領内は乱れに乱れた。一度は政権を手にしながら失脚した島津忠良・島津貴久は、このあとどうやって盛り返すのか? ……つづく!

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

鹿児島県史料集35『樺山玄佐自記並雑 樺山紹剣自記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1995年

『貴久記』
著/島津久通 国立公文書館デジタルアーカイブより

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

宮崎県史叢書『日向記』
編・発行/宮崎県 1999年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか