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戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(5)島津忠国の失脚、島津立久の治世

15世紀中頃、南九州は島津忠国(しまづただくに、宗家9代当主)の天下となった。反抗勢力をおさえ込み、国人衆への影響力を強めた。また、島津忠国は弟たちを分家に立てて要所に配置し、島津一族による支配体制を強化していく。

 

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北薩摩は島津用久の所領に、薩州家のはじまり

文安5年(1448年)10月、島津忠国と島津用久(もちひさ、忠国の弟)が和睦。ともに領内の反島津勢力にあたるようになった。そして、北薩摩の国一揆も宝徳年間(1449年~1452年)に抑え込まれた。これにより、和泉・山門院・莫禰院(いずみ・やまといん・あくねいん、現在の鹿児島県出水市・阿久根市の一帯)は島津宗家のものとなり、島津用久に与えられた。

これにより分家が出現することに。島津用久が薩摩守を称したことから薩州家(さっしゅうけ)と呼ばれる。

 

『薩州家御墓所由緒』(『出水郷土誌』に収録、原本は残っていない)によると、島津用久は享徳2年(1453年)に和泉の亀ヶ城(かめがじょう、出水城ともいう、場所は出水市麓町)に入ったという。

ちなみに、山門院はもともとは島津氏総州家(そうしゅうけ)の拠点であったが、応永29年(1422年)に総州家が滅亡したあとは相良(さがら)氏に割譲された。相良氏は肥後国球磨郡(熊本県人吉市のあたり)を拠点としていて、総州家攻めでは島津忠国に協力している。相良氏は北薩摩の国一揆を支援していた。山門院は相良氏の手から、再び島津氏のもとに戻った。

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また、莫禰院を平安時代から治めていた莫禰(あくね)氏も所領を失った。その後、阿久根氏(莫禰から阿久根と字を改める、読みは同じ)は島津氏薩州家の配下となり、同家の家老も出している。

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島津忠国は、弟の島津用久と良好な関係を築こうとしていた。所領を与えて優遇するとともに、国境沿いの要衝の地を任せた。島津用久はその後は本家をよく支え、薩州家は島津家中ナンバー2の存在となっていくのである。

 

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大隅国帖佐を制圧、豊州家のはじまり

大隅国帖佐郷(ちょうさ、現在の鹿児島県姶良市)は平山(ひらやま)氏が治めていた。15世紀中頃に平山武豊(平山氏9代)は島津氏に反抗する。享徳年間(1452年~1455年)に、島津忠国は島津季久(すえひさ、忠国の弟)に命じて平山城(ひらやまじょう、平山氏の拠点、姶良市鍋倉)を攻めさせた。帖佐は制圧され、島津季久に与えられた。ここに島津季久を初代とする分家が成立。豊後守を称したことから豊州家(ほうしゅうけ)という。

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「平山城跡」標柱は帖佐八幡神社(別名に鍋倉八幡神社、新正八幡宮)の境内にある。13世紀にこの地に下向した平山了清(平山氏初代)が神社を創建し、その尾根づたいに築城したのが平山城である。

苔むした神社に白い標柱と大銀杏がある

帖佐八幡神社の「平山城跡」標柱

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帖佐に入った島津季久は、新たに瓜生野城(うりうのじょう、場所は姶良市西餅田)を築いてこちらを本拠地とした。この城は、平山城よりやや南に位置する。のちに島津義弘(よしひろ)により建昌城(けんしょうじょう)と名を改められている。

曲輪跡に標柱「建昌城跡」

建昌城(瓜生野城)跡

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島津季久は嫡男の島津忠廉(ただかど、豊州家2代)とともに瓜生野城を居城とし、平山城は次男の島津忠康に守らせた。また、三男の満久は加治木城(かじきじょう、姶良市加治木)に入った。加治木郷は帖佐郷の東に隣接し、領主は加治木氏であった。島津季久は満久を加治木実平の養子に送り込み、加治木も支配下におさめたのである。

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平山城を奪われたあとも、平山氏は帖佐にあったようである。長禄3年(1459年)にも反乱を起こし、このときは島津立久(たつひさ、忠国の嫡男)が比志島(ひしじま)氏に命じて撃たせている。

しばらくして平山氏は降伏。島津氏より薩摩国鹿児島の武(たけ、鹿児島市武)や薩摩国揖宿郡(鹿児島県指宿市)に知行を得て移り住んだ。領主としての地位を失ったものの、島津氏の家臣として家名を保った。

 

 

日向方面の国替え

日向国に大きな勢力を持つ伊東祐堯(いとうすけたか、伊東氏11代)は、島津氏の領内での混乱に乗じて日向国南部への勢力拡大をうかがう。島津側は伊東氏への備えとして、日向南部で国替えを行っている。

長禄2年(1458年)、島津忠国は新納忠続(にいろただつぐ、島津氏庶流)を日向国救仁院志布志(くにいんしぶし、鹿児島県志布志市志布志)から日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)に移す。志布志は新納氏領のままで、こちらは新納是久(これひさ、忠続の弟)が守る。

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長禄3年(1459年)、島津忠国は島津有久(ありひさ、忠国の弟)を日向国庄内の梅北城(うめきたじょう、宮崎県都城市梅北)に入れる。ここにも島津氏の分家ができる。島津有久は出羽守を称したことから、羽州家(うしゅうけ)という。同年7月に島津有久は伊東氏との戦いで討ち死にした。

正確な時期はわからないが(享徳年間か)、日向国庄内志和池(しわち、宮崎県都城市志和池)には島津豊久(とよひさ、忠国の弟)が入った。こちらも分家に。伯耆守を称したことから、伯州家(はくしゅうけ)という。

 

 

忠国の三男が伊作氏に入る

薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)を拠点とする伊作(いざく)氏は、島津氏の庶流である。鎌倉時代より薩摩国の有力者として存在感を放ってきた。15世紀に入って島津宗家と対立したり、あるいは従属したりしまがら、争乱の中をわたっていく。しかし、当主の座をめぐる内訌があって、一時は所領を失った。

その後、島津用久のはからいで伊作教久(いざくのりひさ、伊作氏6代)が伊作領主に復帰。しかし、伊作教久が若くして亡くなり、1歳の犬安丸(伊作氏7代)が家督をついだ。その犬安丸も長禄2年12月(1459年1月)に死去し、後嗣がとだえたのである。

伊作氏の家老の鎌田政年は、鹿児島の島津宗家に島津忠国の三男の亀房丸を養子に迎えたいと願い出た。亀房丸は犬安丸の妹を娶って伊作氏8代当主に立てられ、伊作久逸(いざくひさやす)と名乗った。

下の写真は伊作城(いざくじょう)跡。本丸は亀丸城(かめまるじょう)という。

木々が空を覆う広場に、石碑「亀丸城址之碑」が立つ

伊作城跡

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蒲生氏が蒲生院を失う

長禄3年(1459年)、島津忠国は大隅国蒲生院(姶良市蒲生)の蒲生宣清(かもうのぶきよ、蒲生氏15代)に国替えを命じた。薩摩国給黎(きいれ、鹿児島市喜入)に移らせた。蒲生院は島津季久(豊州家)の所領となる。

蒲生氏は鎌倉時代以前から蒲生院の領主であった。ちなみに、蒲生清寛(きよひろ、蒲生氏12代)は島津元久(もとひさ、宗家8代)・島津久豊(ひさとよ、9代)を国老として支え、島津氏配下として数々の戦いを転戦している。

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15世紀中頃は、若い蒲生宣清が当主であった。そこへ、帖佐領主の島津季久(豊州家)が攻撃をしかけてきた。帖佐を拠点に勢力を広げつつあった豊州家が、蒲生氏とも衝突したのである。蒲生氏は島津季久の攻勢に耐えられず。その後、国替えに応じることになった。

島津季久は帖佐・加治木に加えて、蒲生も手中におさめた。現在の姶良市一帯は豊州家の支配下となった。

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島津忠国の追放、島津立久が実権を握る

島津忠国は支配体制の強化を目指す。そのために強引な国替えもあり、国人の中には所領を失う者もあった。また、新たに所領を得た者も、地縁のある本領から引きはがされた。このようなやり方は反発を招いたのである。

島津忠国は和泉入道光珍(薩摩国和泉の国人か)・野辺盛仁(日向国櫛間院の領主)の所領を奪って、お気に入りの家臣に与えた。島津立久(忠国の嫡男)と島津用久(忠国の弟)が諫めるが、忠国は聞かない。このことをきっかけに、忠国と立久は不和になったという。長禄3年(1459年)、島津立久は群臣の支持を得てクーデターを起こし、島津忠国を鹿児島から追放する。島津宗家の実権を握った。

島津忠国はまたも隠居させられる。薩摩国加世田別府(かせだべっぷ、南さつま市加世田)に移った。

この政変では、島津用久の再擁立が計画されたとも。しかし、実行されることなく長禄3年(1459年)2月に島津用久は亡くなっている。

 

 

相州家の成立もこの頃か

島津立久は次男である。兄は島津友久(しまづともひさ)という。島津友久は長男でありながら家督をつがなかった。薩摩国田布施・阿多・高橋(たぶせ・あた・たかはし、鹿児島県南さつま市金峰)の所領に入る。ここにも分家が立てられ、相模守を称したことから相州家(そうしゅうけ)という。

 

 

渋谷一族を懐柔か

島津立久は寛正3年(1462年)に入来院重豊(いりきいんしげとよ)に島津荘薩摩方の火同(鹿児島県薩摩川内市内か、場所の詳細わからず)と山田の永利城(ながとしじょう、薩摩川内永利)を与える。

入来院氏は薩摩国入来院(いりきいん、薩摩川内市入来)を本拠地とし、渋谷一族の有力者である。南北朝争乱期より島津氏と対立することが多く、文安年間・宝徳年間(15世紀中頃)にも島津氏に対して反乱を起こしていた。

島津忠国・島津用久の領内制圧においては、所領を失い、没落した一族が多い。そんな中で、入来院氏は所領を安堵されたようだ。さらに、新たな所領も与えられたのである。渋谷一族の力は依然として強かったと思われる。島津氏は徹底的に戦うよりも、懐柔策を選んだのだろう。

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市来氏の没落

寛正3年(1462年)、薩摩国市来院(いちきいん、鹿児島県いちき串木野市市来・日置市東市来)の市来久家(いちきひさいえ)が反乱を起こす。島津立久はこれを討伐。市来氏は本拠地である鶴丸城(つるまるじょう、市来城とも、場所は日置市東市来)を棄てて逃亡した。島津氏は市来院を支配下におさめた。

市来氏は宝亀年間(770年~781年)にこの地に入ったとされる。この年代の真偽についてはなんとも言えないが、かなり古くから市来院を支配していたことは確かである。この敗戦により、市来氏は市来院郡司としての地位を失った。

山中の平坦な空間に、「鶴丸城跡」の碑

鶴丸城(市来城)跡本丸

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伊東氏と和睦

日向国南部で島津氏と伊東氏との勢力争いが続いていたが、両氏は和睦する。寛正5年(1464年)4月、島津立久は日向国の鵜戸(うど、宮崎県日南市宮浦、鵜戸神宮のあたり)に出向いて伊東祐国(いとうすけくに、祐堯の嫡男)と面会、つづけて伊東祐堯にも会う。

島津立久は伊東氏による山東河南(宮崎平野、宮崎市のあたり)の支配を認め、融和策をとった。

文正元年(1466年)には、島津立久と伊東祐国が日向国櫛間院で犬追物を行ったという記録もある。

 

 

応仁の乱、島津は傍観す

応仁元年から文明9年にかけて(1467年~1477年)、国内を二分しての大乱となる。「応仁の乱」である。幕府の中枢にある有力守護の対立、将軍職の後継問題などがからんで戦いは全国に波及。幕府管領の細川勝元(ほそかわかつもと)を総大将とする東軍と、幕府侍所頭人の山名持豊(やまなもちとよ、山名宗全、そうぜん)を総大将とする西軍が争った。

一般的に「応仁の乱より戦国時代に突入した」と言われるが、南九州においてはあまり関係がなかった。というのも、島津氏がこれに関わろうとしなかったのである。

応仁2年(1468年)、幕府は島津季久(薩州家)に教書を出し、西軍の主力である大内政弘(おおうちまさひろ)を撃つよう命じた。大内政弘は周防守護・長門守護・豊前守護・筑前守護を兼ね、その勢力は現在の山口県・福岡県・大分県にまたがる。

島津季久は動かず。細川勝元はさらに書を送り、出兵を催促した。大内氏の領国を攻めれば所領も与えると誘う。それでも島津季久は応じなかった。

文明元年(1469年)、細川勝元は島津立久に書を送って大内氏領の周防国・長門国を攻めるよう要請する。「大友親繁(おおともちかしげ、大友氏15代、豊後守護・筑後守護)と協力して功を立てよ、もし菊池重朝(きくちしげとも、菊池氏20代、肥後守護)が進軍を阻むならこっちを先に撃て」と言ってきた。島津立久は消極的だった。文明2年5月に本田兼親(ほんだかねちか)に命じて兵を豊前国の大友氏のもとに送っものの、戦いには参加させなかった。

また、幕府は島津氏に対して国役(段銭、臨時の租税)を課してきたようである。薩摩はもともと国役が課されない国であった。島津立久は家臣の五代友平を京に派遣し、侍所所司代の浦上則宗(うらがみのりむね)を頼って国役の免除を願い出ている。また、伊東氏が日向国を得ようと幕府に働きかけており、これを阻む目的もあった。五代友平は使命を果たしたようである。

 

 

島津忠国が逝く

文明2年(1470年)1月、加世田別府にあった島津忠国は病に倒れる。島津立久は1月14日に加世田別府におもむき、忠国を見舞った。島津忠国は守護職と家督を島津立久に譲った。1月20日、島津忠国は逝去する。68歳だった。

芝生が広がる公園に城址碑がある

加世田別府の別府城跡

しばらく当主を代行していた島津立久だったが、ようやく家督をつぐ。島津立久の領国運営能力は高かったようで、領内は安定しつつあった。だが、静かな時代は長くは続かないのである。

つづく……。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『室町期島津氏領国の政治構造』
著/新名一仁 出版/戎光祥出版 2015年

『日向国山東河南の攻防』
著/新名一仁 発行/鉱脈社 2014年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『出水郷土誌』
編/出水市郷土誌編纂委員会 発行/出水市 2004年

『姶良町郷土誌』
編/姶良町郷土誌編纂委員会 発行/姶良町長 池田盛孝 1968年

『蒲生郷土誌』
編/蒲生郷土誌編さん委員会 発行/蒲生町 1991年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか