ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

戦国時代の南九州、激動の16世紀(3)島津忠良の逆襲

大永6年(1526年)の政変で、島津宗家(奥州家、おうしゅうけ)では政権移譲が成る。権力を手にしたのは、相州家(そうしゅうけ、分家のひとつ)の島津忠良(しまづただよし)だった。14代当主の島津忠兼(しまづただかね、島津勝久、かつひさ)は引退し、後継者には忠良の嫡男の島津貴久(たかひさ)が擁立された。

しかし、大永7年の薩州家(さっしゅうけ、分家のひとつ)のクーデターにより、相州家は政権の座より引きずり下ろされる。そして、島津忠兼(島津勝久)は守護に復帰するが、領内では反乱や領主どうしの抗争が多発。南九州は混沌とした状態が続いていた。

 

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記事内の日付は旧暦で記す。また、資料によって日付に違いがあるが、おおむね『島津国史』に沿ったものとする。

 

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主導権を握った薩州家、抵抗する相州家

鹿児島から追放された相州家が劣勢を強いられていたことは、容易に想像される。島津忠良(相州家)は伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上町中原)にあり、田布施・高橋・阿多(たぶせ・たかはし・あた、鹿児島県南さつま市金峰)・南郷(なんごう、日置市吹上町永吉)・日置(ひおき、日置市日吉町日置)に勢力を保っていた。

一方、薩州家の島津実久(さねひさ)は勢いづく。守護に復帰させた島津勝久を擁して主導権を握った。その勢力は薩摩国のかなりの範囲にわたる。出水・山門・阿久根(いずみ・やまと・あくね、鹿児島県出水市・阿久根市)、串木野・市来(くしきの・いちき、鹿児島県いちき串木野市・日置市東市来)、加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)、河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)、鹿籠(かご、鹿児島県枕崎市)などを領する。また、伊集院(いじゅういん、日置市伊集院)や谷山(たにやま、鹿児島市谷山)も相州家から奪って支配下に置く。島津宗家(奥州家)をもしのぐ力を持っていた。

状況からいくと薩州家方が圧倒的。だが、そのまま決着するかというと、そうはならないのだ。というのも、薩州家方になびかない者たちはまだいた。肝付(きもつき)氏・入来院(いりきいん)氏・樺山(かばやま)氏・佐多(さた)氏などは相州家を支持していたと思われる。

 

 

相州家が肝付氏と結ぶ

肝付氏は大隅国の名族である。南九州においては島津氏よりも古くから土着し、高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点に大きな勢力を持つ。この頃は肝付兼興(きもつきかねおき)が当主であった。島津忠良が一時的に実権を握った大永6年(1526年)前後に、相州家と肝付氏は姻戚関係になっている。島津貴久(たかひさ、忠良の嫡男)は肝付兼興の娘を正室にむかえ、肝付兼続(かねつぐ、兼興の嫡男)は島津忠良の長女(御南、おみなみ、貴久の姉)を正室としている。島津貴久と肝付兼続は義兄弟となった、しかも二重に。

天文2年(1533年)、肝付氏には内訌があった。肝付兼興が亡くなると、肝付兼親(かねちか、兼興の弟、兼続の叔父)が家督を奪おうと反乱をおこす。肝付兼親は相州家と手を切って薩州家方に転じようと考えていたのではないだろうか。結果的には、肝付兼続が肝付兼親を攻め滅ぼして家督を継承した。肝付氏と相州家の関係は続いたのである。

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敵の敵は味方、入来院氏

入来院氏は薩摩国入来院(いりきいん、鹿児島県薩摩川内市入来町・樋脇町)を拠点とする。13世紀中頃に薩摩国北部の高城郡・東郷別府・祁答院・入来院・鶴田(現在の薩摩川内市・薩摩郡さつま町の一帯)の地頭に補任された渋谷氏の一派で、所領の入来院を名乗りとした。

入来院氏は薩州家と長年にわたって勢力争いを展開していた。共通の敵と対峙している相州家とは利害が一致し、両家は手を組んだのである。島津貴久は肝付家から妻を迎えていたが、若くして亡くなった。そして、後室に迎えたのが入来院重聡(いりきいんしげさと)の娘であった。

入来院重聡の娘は「雪窓夫人」「雪窓院」などの名で知られる。    天文2年(1533年)には長男が誕生。のちの島津義久である。さらに、次男の島津義弘(よしひろ)、三男の島津歳久(としひさ)と続く。3人の息子たちは、のちに島津氏の全盛期を築くのである。

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樺山氏には島津貴久の姉が嫁ぐ

樺山氏は島津氏の支族。島津氏4代当主の島津忠宗(ただむね)の五男を祖とする。名乗りは日向国三俣院樺山(みまたいんかばやま、宮崎県北諸県郡三股町樺山)から。ここが当初の所領であった。

庄内(宮崎県都城市と三股町の一帯)に根を張っていた樺山氏だったが、大永元年(1521年)に領地替えで大隅国に移った。さらに、島津勝久の側近の本田親尚(ほんだちかひさ)に大隅の所領が横領される事件も起こる。樺山広久(かばやまひろひさ、名は信久とも)は小浜(おばま)の生別府城(おいのびゅうじょう、鹿児島県霧島市隼人町小浜)に入り、失地回復の機会をうかがう。島津宗家(奥州家)に対する反発は強かったと思われる。

島津忠良は樺山氏との結びつきを大事に考えていたようである。樺山広久の嫡男の樺山善久(よしひさ、初名は幸久)は島津忠良の加冠で元服した。さらに、島津忠良の次女(御隅、おすみ、貴久の姉)を正室にむかえた。

薩州家のクーデターで島津忠良・島津貴久が失脚したあとも相州家方にあり、島津勝久に対して反乱を起こしている。

 

 

佐多氏も相州家の味方か

佐多氏は島津氏支族で、4代当主の島津忠宗の三男より始まる。薩摩国知覧(ちらん、鹿児島県南九州市知覧)を領する。もともとは大隅半島南端の佐多(さた、鹿児島県肝属郡南大隅町佐多)の領主であり、名乗りはこちらの地名に由来する。

佐多忠成(さたただなり、か)は島津運久(ゆきひさ、相州家、忠良の養父)の娘を妻にむかえている。佐多忠成室は島津忠良の母(常盤、ときわ、新納是久の娘)が運久と再婚してからもうけた子で、島津忠良の異父妹にあたる。

そんな関係もあって、相州家を支持していたと思われる。のちに、佐多忠成は島津忠良・島津貴久のもとで数々の軍功をあげる。

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南郷城の戦い

薩摩国南郷の桑波田栄景(くわはたひでかげ、紀姓伊集院氏の一族)が島津忠良(相州家)に叛く。天文2年(1533年)3月29日、島津忠良は南郷城に兵を進めた。だが、城の守りは固く、攻めあぐねた。そこで、盲僧(座頭、琵琶法師)の了公を城に送り込んで探らせ、桑波田栄景が狩りに出るという情報を得る。その隙を狙って島津忠良はしかけた。部下に猟師のかっこうをさせて、桑波田栄景が帰城したのを装って入城させた。城を守っていた桑波田河内守・桑田式部少輔らが討ち取られ、南郷城は陥落した。また、兵を城外の桑波田栄景にも兵を差し向ける。桑波田栄景は逃亡した。

曲輪の上には杉木立が広がる、「南郷城本丸高城跡」の看板もある

南郷城の本丸跡

 

島津忠良は南郷を取ると、この地を「永吉」と改めた。また、了公の勲功を賞し、相州家領内(田布施・高橋・阿多・伊作)の盲僧の長とした。

この頃、島津勝久(宗家、奥州家)は配下の河田義秀を伊作につかわして、養子縁組したときに渡した家宝(宗家当主が代々継承するもの)の返還を命じる。島津忠良は怒ってこれをつっぱねた。島津勝久はなおもしつこく返還を求めてきた。

島津忠良は「既ニ侫奸ニ誤ラレ前約ヲ変シ信ヲ失フノミニアラズ、又寶ヲ貪テ義ヲ忘ル、君猶強テ求メハ、我止コトヲ得ス兵庫ヲ以テ平原広野ニ会シテ後コレヲ返サン(悪臣の口車にのせられて約束をたがえ、信用を失っただけでなく、宝物にまで欲を出し、義を忘れるとはなんたること! そんなに返せ返せと言うのなら、やむを得ない。一戦交えようじゃないか! そのあとに返してやろう!)」(『西藩野史』より)と返したという。

8月14日、島津勝久が永吉城(南郷城)を攻めようとしていることを、鹿児島からひそかに知らせる者があった。これを聞いた島津忠良は、永吉城に島津貴久と島津忠将(ただまさ、忠良の次男)を入れて守りを固めた。また、島津忠良は伊作から精兵を率いて野頸原(のくんばい、日置市日吉町吉利のあたり)に布陣した。そこへ、島津勝久方の軍(島津実久が率いたとも)が来襲。城に向かう敵軍に対して島津忠良は側面から攻撃し、一気に切り崩した。

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また、日置(日置市日吉)の山田有親(やまだありちか)は、もともとは島津忠良(相州家)にこの地を任されていた。しかし、相州家の失脚ののちに薩州家に寝返っていた。山田有親は永吉の勝利を聞いて、再び島津忠良に降ってきた。島津忠良はこれを許す。しかし、家臣の中に「山田有親に二心あり」と疑うものがあった。そして、山田有親は伊作に呼び出され、佛坂といところで誅殺された。のちに島津忠良は後悔し、遺児の山田有徳(ありのり)に日置山田村(山田氏の本貫地)を与えた。ちなみに山田有徳の子は山田有信(ありのぶ)、孫は山田有栄(ありなが)である。この3人は戦国島津氏の功臣として名を残すことになる。

 

 

島津勝久の追放、島津実久が実権を握る

「賢愚を分からず、賞罰を明らかにせず、故旧貞良の臣を遠ざけ、詭佞邪曲の人を親づく」

こちらは『島津世禄紀』より漢文の書き下し。守護に復帰したあとの島津勝久について書かれたものである。大意は「賢と愚の分別がなく、賞罰も基準が曖昧で、古くから仕える良臣を遠ざけ、口先だけの悪賢い者を身近に置く」といったところ。

島津勝久は末弘伯耆守・小倉武蔵守・竹内某・碇山某を側近とした。旧来の家老を遠ざけて、お気に入りの新参者ばかりを重用していた。抜擢した家臣がよく働いて領内がうまく治まればいいのだが、そうではなかった。反乱は頻発するし、兵を出しても負け戦ばかりだった。

そんな状況に危機感を持った国老たちが動く。川上昌久(かわかみまさひさ、島津氏庶流)ほか16人の国老は、島津実久(薩州家)とともに諫めることにした。だが、島津勝久は聞く耳を持たず。

天文3年12月25日(1535年1月)、川上昌久は谷山の皇徳寺(こうとくじ、鹿児島市山田町)で末弘伯耆守を誅殺する。島津勝久は恐れをなして大隅国禰寝(ねじめ、鹿児島県肝属郡南大隅町根占)に逃亡。妻の実家である禰寝(ねじめ)氏を頼った。

天文4年(1535年)4月、島津勝久は鹿児島に戻り、川上昌久を自害させた。さらに昌久の妻がこもる川上城(かわかみじょう)を囲むが、落とせなかった。

島津実久(薩州家)は島津勝久の行いに激昂し、国老たちとともに挙兵。鹿児島に進軍した。島津勝久は援軍を求め、祁答院重武(けどういんしげたけ、祁答院や帖佐の領主)・北原加賀介(真幸院の北原氏の一族)・肝付兼利(きもつきかねとし、加治木の肝付兼演の弟)らが馳せ参じた。

9月、祁答院重武らは島津実久方を攻めてこれを破り、谷山の神前城(場所は鹿児島市上福元町)に追い込んだ。しかし、鹿児島には島津実久方に内応する者があり、援兵は出てこず。谷山城(たにやまじょう、鹿児島市下福元)の兵はこの機を逃さず攻撃をしかけた。祁答院重武は敗走し、肝付兼利は戦死した。

曲輪の上に小さな城址碑と古びた祠がある

谷山城跡

 

島津実久(薩州家)は鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)に入る。10月10日、島津勝久は出奔。祁答院氏を頼って大隅国帖佐へ逃げ、大隅国菱刈(ひしかり、鹿児島県伊佐市)の菱刈氏、蒲生(かもう、鹿児島県姶良市蒲生)の蒲生氏にも支援を求めた。

国政は島津実久に委ねられた。島津氏の正史では島津実久を歴代当主として数えられていないが、このときに守護職についたと見られる。

この事件は、国老たちが島津実久を当主に擁立しようと企てたものであろう。当初は話し合いで(隠居を迫って)なんとかしようとした感じもする。その後、国老の川上昌久(計画の首謀者か?)が自殺に追い込まれたことで島津実久が軍事行動に踏み切った、というところだろう。

 

 

北郷氏と豊州家が薩州家方に

南日向では北郷忠相(ほんごうただすけ、島津氏支族)と島津忠朝(ただとも、豊州家、島津氏の分家)が気を吐く。

北郷忠相は庄内(しょうない、宮崎県都城市・北諸県郡三股町)の領主で、この地に勢力を伸ばしていた伊東氏や北原氏を押し返す。奪われていた土地を回復し、庄内を制圧しつつあった。

島津忠朝(豊州家)は飫肥・櫛間(おび・くしま、宮崎県日南市・串間市のあたり)を拠点とし、薩州家と相州家の対立に介入しつつ、分家のひとつとして存在感を放つ。

北郷氏と豊州家は多重に姻戚関係を結んでいる。北郷忠相の母は豊州家の出身であり、さらに正室は島津忠朝の妹。一方、島津忠朝の正室は北郷忠相の姉である。北郷忠相と島津忠朝は従兄弟の間柄であり、義理の兄弟でもあるのだ。両家の関係はすこぶる良好で、連携して周囲の敵と戦っていた。

志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)の新納忠勝(にいろただかつ、島津氏支族)も北郷氏・豊州家と姻戚関係にあったが、こちらは過去の対立などもあって両家とは不仲であった。

南日向では抗争が続く。天文4年(1535年)8月に北郷忠相・島津忠朝(豊州家)は新納氏領の末吉(すえよし、鹿児島県曽於市末吉)・松山(まつやま、鹿児島県志布志市松山)・梅北(うめきた、宮崎県都城市梅北町・中郷)を攻める。新納氏に援軍を出した伊東氏・北原氏とも戦う。天文5年(1536年)2月には北原氏が庄内の安永城(やすながじょう、宮崎県都城市庄内町)を攻め、北郷忠相はこれを撃退する。

鹿児島で実権を握った島津実久(薩州家)は日向・大隅の領主たちを味方につけようと動く。北郷忠相と島津忠朝はこれに応じる。北原氏が島津勝久を支援していることもあって、薩州家と結んだのであろう。また、肝付兼続・禰寝重就(ねじめしげなり)・樺山善久らも誘う。清水(きよみず、鹿児島県霧島市国分清水)領主の本田薫親(ほんだただちか)も応じた。そんな中で、新納忠茂(にいろただしげ、忠勝の子)は薩州家不支持の立場をとる。前当主の新納忠勝が北郷氏・豊州家との同調を拒んだのだという。新納氏は孤立した。

北郷氏・豊州家・肝付氏は連携して新納氏を攻撃。天文5年(1536年)8月に島津忠朝(豊州家)は志布志を攻め、閏10月に新納軍を破った。天文6年(1537年)3月には北郷忠相が新納方の岩川新城(いわがわしんじょう、曽於市中之内)を攻め落とした。

木立に陽光が差し込む、広大な本丸曲輪跡

志布志城跡

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島津忠良が伊集院に侵攻

島津実久(薩州家)は支持を集めきれなかった。島津勝久の与党であった祁答院氏や北原氏は島津実久(薩州家)を支持せず。本田薫親も不支持に転じたようである。そして、相州家と薩州家の対立も続いていた。反薩州家の領主たちは相州家に近づき、鹿児島を追われた島津勝久も島津忠良(相州家)と連携をとるようになる。

天文5年(1536年)3月、相州家の島津忠良・島津貴久は伊集院の一宇治城(いちうじじょう、鹿児島県日置市伊集院)を攻める。

島津実久(薩州家)は町田久用(まちだひさもち、島津氏庶流)に城を守らせていた。町田久用が鹿児島へ行って留守にしたところへ、島津忠良(相州家)は1000余騎を率いて攻め込んだ。3月7日に落城させ、一宇治城を奪回する。

城山公園の駐車場から山城跡を見上げる

一宇治城跡

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天文5年夏、帖佐に身を寄せていた島津勝久(奥州家)は北原氏を頼って真幸院に行き、北原氏領内の般若寺(はんにゃじ、場所は鹿児島県姶良郡湧水町般若寺)にあった。島津忠良(相州家)は鹿児島に復帰するよう説得を試みるも、島津勝久は動かなかった。

また、7月に島津勝久は入来院重朝(いりきいんしげとも、入来院重聡の子)に薩摩国薩摩郡の百次(ももつぎ、鹿児島県薩摩川内市百次町)を与えた。入来院氏は薩州家と抗争を続けていて、薩州家方を百次城を攻めていた。

島津忠良の伊集院攻略は続く。9月、伊集院忠朗(いじゅういんただあき、島津氏支族の伊集院氏の庶流、相州家の重臣)を大将として大田原塁(日置市東市来町美山)を攻めさせ、これを落とす。11月には長崎塁(日置市伊集院町土橋)も降伏させる。神殿塁(日置市伊集院町神殿)は内応する者が多く、こちらも制圧した。

伊集院の石谷城(いしたにじょう、鹿児島市石谷町)の石谷忠栄(いしたにただえい、町田忠栄とも、島津氏支族の町田氏、所領から石谷氏とも名乗る)は薩州家配下にあったが、島津忠良に内応していた。しかし、島津実久(薩州家)は石谷氏の離反を危惧し、石谷梅久(うめひさ、忠栄の父)・石谷忠梅(ただうめ、忠栄の子)を鹿児島に人質として置き、さらに配下の大寺壱岐守を石谷城に入れていた。

12月7日、石谷忠栄は兵を挙げる。相州家方の兵を城に引き入れ、大寺壱岐守を討った。また、石谷梅久・石谷忠梅は鹿児島を脱出して伊集院へ向かう。石谷城の動きを知った島津実久(薩州家)は竹山塁(日置市伊集院町竹之山)の肥後盛治、谷口塁(鹿児島市福山町)の肥後盛家(盛治の子)に石谷城を囲ませた。石谷忠栄は守りきれず、城を出て島津忠良のもとへ逃げる。

石谷梅久は忠梅を一宇治城へ逃がしたあと、兵を率いて石谷城の救援に向かっていた。しかし、犬迫(いぬさこ、鹿児島市犬迫町)の萩別府で肥後盛治の兵と遭遇。ここで戦闘となり、石谷梅久は戦死する。

天文6年(1537年)1月、島津忠良(相州家)は竹山塁を陥落させ、肥後盛治を討ち取った。これにより島津忠良(相州家)が伊集院一帯を制圧した。

 

 

島津忠良、鹿児島を奪取

天文6年(1537年)2月、島津忠良(相州家)は福山・犬迫の塁を落とす。ここから鹿児島へ進軍しようとかまえた。島津忠良は犬迫にとどまり、鹿児島から島津実久(薩州家)が兵を出してこれを迎え撃った。そこへ鹿児島小野(おの、鹿児島市小野)から園田実明(そのださねあき)が兵を出し、島津実久軍の背後をついた。薩州家方は総崩れとなり敗走する。

園田実明は島津忠良の支持者である。大永7年(1527年)の政変では島津貴久の鹿児島脱出を助けている。

本田薫親も島津忠良(相州家)に呼応し、配下の東條出羽守をつかわして鹿児島を襲う。福昌寺(ふくしょうじ、島津氏の菩提寺)など寺社を焼いた。

島津実久(薩州家)は谷山(鹿児島市谷山)へと落ちる。島津忠良(相州家)は鹿児島を制圧し、清水城に入った。

居館跡にが中学校があり、その背後に山城跡がある

鹿児島清水城跡、島津宗家の本拠地

 

島津勝久も島津忠良(相州家)の鹿児島入りを喜んでいたようだ。入来院重朝に相州家を助けた恩賞として郡山城(こおりやまじょう、鹿児島市郡山)を与えてる。また、本田薫親には、向島(桜島)地頭に任じるとともに荒田(あらた、鹿児島市上荒田・荒田・下荒田)などの所領を与えた。ただし、島津勝久は守護職をはく奪されているので、これらの恩賞に実効性はなかったかも。

天文6年(1537年)4月、島津実久(薩州家)は加世田城に入って抗戦の構えを見せる。5月、島津忠良(相州家)は加世田城を訪れ、和睦を申し入れた。鹿児島・谷山・伊集院・吉田を薩州家に差し出す代わりに加世田・河邊を相州家に譲ってほしい、という条件を出した。島津忠良としては薩摩半島南部の支配を強固にする狙いがあったと思われる。

島津実久(薩州家)はこの申し出を突っぱねる。戦いは終わらない……。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

鹿児島県史料集35『樺山玄佐自記並雑 樺山紹剣自記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1995年

『貴久記』
著/島津久通 国立公文書館デジタルアーカイブより

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『松元町郷土誌』
編/松元町郷土誌編さん委員会 発行/松元町長 九万田萬喜良 1986年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

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