ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

帖佐の高尾城跡と元稲荷、激戦地の平山城(帖佐本城)の支城

鹿児島県姶良市鍋倉は、かつての大隅国始羅郡(しらのこおり)の帖佐(ちょうさ)のうち。この地には平山城(ひらやまじょう)という山城があった。別名に帖佐本城(ちょうさほんじょう)ともいう。

 

この平山城跡に向かう山道の途中に、高尾城(たかおじょう)跡を示す白い標柱がある。

城跡の標柱

「高尾城跡」

 

高尾城は平山城(帖佐本城)の支城である。位置関係から想像すると、平山城(帖佐本城)へ侵入してきた敵を、道の途中で叩く防衛拠点のような感じだろうか。

また、高尾城跡にはかつて稲荷神社が鎮座していた。「元稲荷」とも呼ばれている。

 

ちょっと登ってみた。

日付については旧暦にて記す。

 

 

 

 

 

平山城について

平山城(帖佐本城)は、平山了清により築城されたという。平山氏は紀姓で、もともとは山城国の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう、京都府八幡市)の社家の一族。帖佐の平山(ひらやま)に所領を相伝していたことから、平山氏を名乗っていた。そして、弘安5年(1282年)に帖佐へ下向した。

城内には八幡神社もある。古くは「新正八幡宮」と呼ばれていた。こちらも平山了清が石清水八幡宮より勧請して創建したとされる。現在は「帖佐八幡神社」「鍋倉八幡神社」とも呼ばれる。

 

平山城は広大な山城である。支城の高尾城は、この西側にくっついているような感じだ。平山城が中世城郭として整備されていくなかで、高尾城も築かれたのだろう。

帖佐は中世の激戦地であった。戦いの記録は南北朝争乱期より確認でき、その数も多い。

 

rekishikomugae.net

 

 

 

高尾城での戦い

高尾城についての記録は明応4年(1495年)に出てくる。この頃は島津氏(守護家)の直轄地だったと考えられる。

明応4年6月に加治木(かじき、姶良市加治木町)領主の加治木久平が叛乱を起こす。帖佐本城(平山城)を攻めて、城郭群の一角の南城を奪った。このときに邊川忠直(へがわただなお)が高尾城に入り、南城の加治木氏と対峙した。

 

邊川忠直は島津一族の川上(かわかみ)氏の庶流である。明応4年に川上忠直は、島津忠昌(しまづただまさ、島津氏11代当主)より大隅国の邊川(へがわ、姶良市加治木町辺川)を拝領。これにより邊川(辺川)氏を称した。

 

邊川忠直(川上忠直)は高尾城を堅く守り、加治木氏の猛攻をしのぐ。7月になって島津忠昌が率いる大軍が到着。南城の加治木氏を駆逐した。この戦いで邊川忠直は軍功を賞され、帖佐地頭に任命された。

 

時代は下って大永6年12月(1527年1月)、今度は帖佐地頭の邊川忠直が叛乱を起こす。守護の島津忠兼(ただかね、14代当主、島津忠昌の三男)は、鎮圧のために島津忠良(ただよし)を派遣する。

島津忠良は分家の相州家(そうしゅうけ)の当主であるが、覇権を握っていた。帖佐出兵のちょっと前に、クーデターを実行。嫡男の島津貴久(たかひさ)を島津忠兼の後継者に擁立し、実質的に本家を乗っ取った。

 

分家の中でもっとも力を持っていたのは薩州家(さっしゅうけ)だった。それまで政権を主導していたが、政変により排除された。

島津忠良の覇権奪取には反発する者も多かったと思われる。邊川忠直もそうだったのだろう。薩州家も黙っていない。島津忠良を支持しない者たちと結託して反撃をうかがう。邊川忠直の叛乱には薩州家も関与している。島津実久(さねひさ、薩州家当主)配下の島津安久(やすひさ)を帖佐本城に援軍として送り込んでいる。

島津忠良は鹿児島より出陣。帖佐本城を攻める。高尾城のあたりでも激戦となった。邊川忠直と島津安久は討ち取られ、12月7日に帖佐本城を落とした。

 

その後、帖佐地頭には島津昌久(まさひさ)が入った。島津昌久は薩州家の一族だが、島津忠良に協力。島津忠良の姉を妻としていた人物でもある。

大永7年(1527年)5月、今度は島津昌久が叛乱を起こす。薩州家方に寝返った。加治木地頭の伊地知重貞(いじちしげさだ)も挙兵する。島津忠良は帖佐に出兵。6月5日に帖佐本城を落とし、島津昌久・伊地知重貞も討ち取った。

 

しかし、島津忠良が出征中の隙を衝いて、鹿児島に薩州家が侵攻。島津貴久も鹿児島から逃げ落ちる。島津忠良は1年ほどで覇権を失う。本領の薩摩国田布施(たぶせ、鹿児島県南さつま市金峰町)に戻った。

薩州家が主導権を再び手にする。隠居させられていた島津忠兼も守護職に復帰し、名も島津勝久(かつひさ)と改めた。一方で、島津忠良・島津貴久も反撃の機会をうかがう。

ここから薩州家と相州家の抗争が、長年にわたって続いていくことになった。

 

rekishikomugae.net

 

 

 

一方、帖佐は祁答院(けどういん)氏が領有することに。島津一族の抗争の混乱に乗じて掠取した。

後年の大隅合戦では、天文24年(1555年)に島津貴久が帖佐本城(平山城)を落とす。祁答院良重(けどういんよししげ)から帖佐を奪った。

 

rekishikomugae.net

 

 

 

高尾城跡へ

白い標柱のあるところから、山に入っていける。入口付近に車を置けるくらいのスペースもあった。

山城跡、標柱もある

城跡への入口

 

山城っぽい雰囲気。道は思っていたよりも悪くない。けっこう歩きやすい。

山城跡

山道を行く

 

ちょっと入ると石段と石垣があった。おそらく、稲荷神社を置いた際に整備されたものだろう。

古い石造物が見える

石段と石垣

 

山道を進む。写真の右側が曲輪跡か?

山城跡の風景

人工的に削ったような地形

 

道を折れるとこんな風景。虎口だと思われる。

虎口か

さらに登って

 

虎口と思われるところを上に。主郭だろうか。ここには石造物がある。稲荷神社の跡だろう。

神社の跡地

曲輪の上に

 

 

 

曲輪跡に元稲荷

高尾城内にあった神社は「正一位高麗稲荷大明神社」といった。

慶長3年(1598年)、島津義弘は朝鮮の泗川(サチョン)で明軍・朝鮮軍と戦った。大軍勢に攻め込まれ、兵力差は10倍以上とも。圧倒的に不利な状況から、島津義弘は勝利した。

泗川の戦いでは、白狐と赤狐が勝利に導いたと伝わる。2匹の狐が敵軍に駆け込むと火薬庫が爆発。敵が混乱したところに攻めかかって勝利につながった、と。

狐は矢にあたって死んでしまった。遺骨を壺に納め、陣僧の頼雄法印と修験者の佐竹光明坊に守護させて国許に持ち帰った。その年の12月に高尾城内に祀ったという。

ちなみに、稲荷神社は島津氏の守護神でもある。

 

元稲荷の狐

こちらの像は狐か

 

文政6年(1823年)に「正一位稲荷大明神」の神号を受ける。石灯籠などには「文政六」の紀年銘があり、このときに奉納されたものだろう。

石灯籠など

石灯籠に「文政六」とある



文政10年(1827年)、高麗稲荷は麓の帖佐館跡に遷座した。帖佐館は、文禄4年12月(1596年1月か)から慶長11年(1606年)にかけて島津義弘が居館とした場所でもある。

 

rekishikomugae.net

 

 

 

 


<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 発行/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 発行/鹿児島県地方史学会 1972年

『旧記雑録拾遺 諸氏系譜二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1990年

『旧記雑録 前編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1980年

『西藩野史』
著/得能通昭 発行/鹿児島私立教育會 1896年

ほか