ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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「正宮山植杉記」碑、鹿児島神宮の杉林の由緒を伝える、日秀上人の伝説も

「正宮山植杉記」碑というのが、鹿児島神宮の境内の杉林にある。

鹿児島神宮は鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座。旧称は「鹿児島神社」。八幡信仰も重ねられて「大隅正八幡宮」とも称した。

鹿児島神宮の社殿の裏には、末社の稲荷神社へと続く参道がある。こちらを登っていくと、途中に大多羅知女神社(おおたらちめじんじゃ)と山神神社(やまのかみじんじゃ)が並ぶ。

 

大多羅知女神社と山神神社

 

鹿児島神宮についてはこちらの記事にて。

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鹿児島神宮末社の稲荷神社についてはこちら。

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その山神神社の近くに記念碑はある。銘によると宝暦7年(1757年)に建てられたものとのこと。

 

古い記念碑

「正宮山植杉記」碑

 

碑文はつぎのとおり。麓にある隼人歴史民俗資料館の展示にも解説があり、欠けているところなどはそちらも参考にした。

 

正宮山植杉記

大隅州桑原郡正八幡宮即 日域聞神也玆以措不論其寶殿拜殿四脚向拜者慶長六年有造理也営而至辛未一百五十有餘年而諸殿盡隳壊可爲長大而巳故奉 公命来而爲造替之営矣六踰年而成継而丁丑秋有 石體宮造替亦持舊符来而爲之初有日秀上人者泛槎於南海求杉及栢於屋久嶋為正宮社殿之柱梁且拾杉子而播種之於社山許多其意謂豫備將来霊社修造今也去其世一百八十有餘年而其樹頗及連抱故癸酉春杲伐之以為拝殿一宇信上人之勤勞也可敬自思惟恍惟惚神如在其左右因欲傳其功績其徳顕於不朽則興社寺衆徒戮力切叢棘夷蔓草新植十萬餘杉矣冀據山神之威徳歳々盛茂長爲正宮社殿之用材者也因記其事以刋石

 

だいたいこんなことが書かれている。以下は意訳。

大隅国桑原郡の正八幡宮は日本全国に知られる神である。その宝殿・拝殿・四脚・向拝は慶長6年(1601年)に造営されたものだが、それから150余年たって辛未の年(宝暦元年/1751年)には長い年月を経て壊れてしまった。そこで、公(島津重年か)が造営を命じ、6年ほどで完工した。また、石體宮も造営された。
その昔、日秀上人は正八幡宮造営の木材として、杉と栢を屋久島に求めた。屋久島で木材を筏にして海に流すと、正八幡宮近くに流れ着いたとも。その木材で社殿を造立するととも、杉の種を拾って境内に播いた。のちの社殿修造に備えてのことだった。それから180余年が過ぎ、そのときが来た。癸酉(宝暦3年/1753年)の春に杉の木を伐り出し、拝殿の修築に用いた。
この日秀上人の事績をずっと伝えていかなければならない。社寺衆徒の手で山を整備し、新たに10万株の杉を植栽した。山神の威徳で、杉が立派に育つことを願う。そして、将来の社殿の用材とならん。そのことを石に刻む。

 

記念碑

碑文が刻まれる

 

永禄3年(1560年)、島津貴久は大隅正八幡宮の再建を行う。その事業を命じられたのが日秀だった。

日秀は屋久島に渡り、山中で良材を伐り出し、「隅州正八幡宮材木」と記して川へ投げ込む。海へと流れ出した材木は大隅国浜之市(はまのいち、隼人港のあるところ)まで流れてきたという。そんな伝説もある。

日秀は大隅正八幡宮近くの山に金峯山神照寺三光院を開山し、ここに住むようになった。三光院は廃寺となったあとは、日秀神社となっている。

日秀および日秀神社(三光院跡)の詳細は、こちらの記事にて。

 

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「正宮山植杉記」は、鹿児島神宮の杉林の由来を今に伝える。その顛末は、なかなかに興味深い。

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

「旧三光院(隼人町)と日秀上人について」
著/藤波三千尋

ほか