ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

鹿児島五社、島津家の拠点を守護する神々

薩摩国鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市稲荷町)は、中世に島津氏が拠点とした。その城下に島津氏が篤く崇敬した5つの神社がある。これらはまとめて「鹿児島五社」と呼ばれている。清水城下のあたりは「上町(かんまち)」ともいい、「上町五社」と呼ばれていたりもする。

 

五社の序列はつぎのとおり。

第一位 諏方神社(すわ、現在は南方神社)
第二位 祇園神社(ぎおん、現在は八坂神社)
第三位 稲荷神社(いなり)
第四位 春日神社(かすが)
第五位 若宮八幡宮(わかみや、若宮八幡神社)


「鹿児島五社」についてまとめてみた。『三国名勝図会』(19世紀に鹿児島藩が編纂した地誌)には絵図も掲載されている。こちらもあわせて紹介する。

 

 

『三国名勝図会』についてはこちら。

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第一位 諏方神社(諏訪神社、南方神社)

国道10号沿いに鎮座。道路から鳥居も見える。境内には公民館もある。よく手入れされていて、地域で大事にされている印象だ。現在は南方神社(みなかたじんじゃ)と称する。

神社の参道口

南方神社、前の道路はすごい交通量

 

信濃国の諏訪社(諏訪大社、長野県諏訪市)から勧請したものである。上社に建御名方命(タケミナカタノミコト)、下社に事代主命(コトシロヌシノミコト)を祀る。諏訪大社では下社の主祭神を八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)としているが、これとは違っている。

鹿児島県内には諏訪神社・南方神社がかなり多い。たぶん、100社以上ある。このことは、「鹿児島五社」第一位の当社の影響も大きいと思われる。なお、諏訪神社は明治初めの神仏分離により、南方神社と改称したところも少なくない。「南方(みなかた)」というのは、「タケミナカタ」からの呼称である。

 

『三国名勝図会』にはかつての様子が描かれている。社殿はかなり立派な様子である。

諏訪神社の絵図

『三国名勝図会』巻之三より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

鳥居の奥に社殿が見える

奥の社殿は2010年に新築されたもの

 

上社と下社をあわせて祀る。現在は鳥居はひとつだが、絵図によればもともと2本並んでいたようだ。「並立鳥居」と言ったりもする。上社のもの、下社のものがそれぞれ設置されいるというわけだ。でも、本殿はひとつ。ちなみに鹿児島県内のいくつかの諏訪神社(南方神社)では並立鳥居が見られる。

 

かつては、信濃国諏訪の本社にならって「五月祭」(5月5日)や「大祭」(7月28日)なども盛大に催されていたとのこと。

『旧記雑録拾遺 地誌備考一』収録の「鹿児島諏訪稲荷神事調」によると、これらの祭礼はともに御狩(みかり)神事であったとのこと。大祭について諏訪の「御佐山祭」の様式をとったと記される。これは「御射山神事(みさやましんじ)」のことであろう。

 

諏訪神社と島津氏の関わりは、12世紀末からとされる。

島津氏は惟宗忠久(これむねのただひさ)を祖とする。源頼朝に仕え、薩摩国・大隅国・日向国(現在の鹿児島県と宮崎県)の守護職に任じられた。3国にまたがる島津荘(しまづのしょう)の惣地頭にも任じられ、このことに由来して「島津」を名乗りとした。

鎌倉の幕府から、島津氏は南九州のほかにも所領を与えられている。越前国・若狭国・下総国・信濃国・伊勢国・伊賀国・讃岐国・豊前国など。

文治元年(1185年)、惟宗忠久(島津忠久)は信濃国塩田荘(しおだのしょう、長野県上田市のあたり)の地頭職に補任された。また、承久3年(1221年)には信濃国太田荘(おおたのしょう、長野市のあたり)の地頭職にも任じられている。

島津忠久は文治5年(1189年)の奥州合戦に従軍。この際に諏訪神社に祈願し、軍功を挙げたという。

時代は下り、島津貞久は信濃国の塩田荘・太田荘を伝領していた。島津氏は鎌倉で活動していたが、元寇に対する防衛任務をきっかけとして13世紀末頃から薩摩国山門院(やまといん)の木牟礼城(きのむれじょう、鹿児島県出水市高尾野)に拠点を移している。島津貞久は諏訪神を勧請し、木牟礼城内に祀って守護神にしたという。

また、島津忠久の時代に木牟礼城に勧請したとも伝わる。


14世紀半ばまで、鹿児島は長谷場(はせば)一族が支配していた。暦応4年・興国2年に島津貞久は東福寺城(とうふくじじょう、鹿児島市清水町)を攻め落とす。長谷場一族から奪ったこの城を鹿児島の拠点とする。

東福寺城には島津氏久(うじひさ、貞久の四男、のちに6代当主)が入った。そして、木牟礼城の諏方神社を鹿児島の東福寺城下へと遷座。鹿児島の宗廟とした。遷座したのは延文元年・正平11年(1356年)のことと伝わる。

ちなみに現在の南方神社の本殿からは道路越しに山が見える。この山が東福寺城跡である。

 

嘉慶元年(1387年)に島津氏久は清水城を築き、こちらへ拠点を移す。清水城は諏方神社(南方神社)の背後に位置する。

 

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第二位 祇園神社(八坂神社)

八坂神社は鹿児島市清水町に鎮座。多賀山(東福寺城跡)麓にあり、境内は祇園之洲公園に隣接する。もともとは祇園神社と号していたが、明治初めの神仏分離にともなって、八坂神社に改称された。

八坂神社の境内

八坂神社、右側の山は多賀山(東福寺城跡)

 

山城国愛宕郡八坂郷の祇園社(現在の八坂神社、京都市東山区祇園町)より勧請したのがはじまり。時期は不明だが、永暦元年(1160年)以前のこととされる。

『三国名勝図会』によると、御祭神は素盞鳴尊(スサノオノミコト)・奇稲田姫命(クシナダヒメノミコト)・田心姫命(タキリヒメノミコト)・湍津姫命(タキツヒメノミコト) 市杵島姫命(イチキシマヒメノモコト)・天忍穂耳尊(アメノオシホミノミコト)・天穂日命(アメノホヒノミコト)・天津彦根命(アマツヒコネノミコト)・活津彦根命(イクツヒノネノミコト)・熊野櫲樟日命(クマノクスビノミコト)。

祇園神社のあたりは「戸柱(とばしら)」とも呼ばれた。これは十柱の神を祀ることに由来するという。

 

祇園之洲の絵図

『三国名勝図会』巻之三より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

境内は稲荷川河口に位置するが、もともとはやや上流に鎮座していたという。享保13年(1728年)に現在地に遷座している。

祇園神社にちなんで海沿いは「祇園之洲」と呼ばれるようになった。ここでは天保8年(1837年)より埋立整備が行われる。島津斉興(しまづなりおき)は家老の調所広郷に命じて造成された。その後、嘉永3年(1853年)に島津斉彬(なりあきら)がこの地に砲台場を築いた。そして文久3年(1863年)の薩英戦争で砲台場が使用される。英国艦隊を撃ち合った。

 

八坂神社は昭和20年(1945年)に空襲で焼失。仮宮が造営されたあと、昭和48年(1973年)に鹿児島市平之町に遷座。昭和63年(1988)に新築造営により元の場所に遷されて、現在にいたる。

 

祇園祭(祗園御霊会)が毎年6月15日(旧暦)に行われる。いつ頃からあるのかはわからないが、古くから行われているようだ。神輿が繰り出し、祗園傘や大鉾の妙技が披露され、祇園囃子あり、歌舞あり、と盛大なものであったという。また、城下の上町と下町が毎年交互位に社をつくりが、神輿が行き来していたとも伝わる。


現在、「おぎおんさぁ(鹿児島祇園祭り)」が毎年7月に開催。この伝統を引き継いでいる。

 

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第三位 稲荷神社

清水城跡の麓に鎮座する。すぐ前を流れる川は「稲荷川」である。

朱の鳥居がある

稲荷神社、背後の山は清水城跡

 

『三国名勝図会』によると御祭神は倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)・伊弉諾尊(イザナギノミコト)の三座。さらに、十禅師(じゅうぜんじ)・住吉神(スミノエノカミ)・四大神(シノオオカミ)・大田神(オオタノカミ)を加えて七座とした。正祭には流鏑馬も施行されたという。

 

稲荷神社の絵図、流鏑馬の様子も

『三国名勝図会』巻之三より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

島津氏はもともと惟宗氏を称する。惟宗氏は、元慶7年(883年)に秦宿禰・秦公・秦忌寸が「惟宗朝臣」を賜ったのがはじまりだという。つまり秦氏なのである。稲荷神は秦氏の氏神だ。

島津忠久(惟宗忠久)は摂津国の住吉社(住吉大社、大阪市住吉区)で末社の稲荷神の狐火に守られて誕生した、という伝説もある。これにちなんで、住吉社より稲荷神を勧請したとも。

当初は日向国の島津(宮崎県都城市郡元町)に勧請。こちらは島津稲荷神社と呼ばれ、建久8年(1197年)の創建と伝わる。その後、承久3年(1221年)に薩摩国市来院湯田(鹿児島県日置市東市来町湯田)に稲荷神社を祀った。さらに15世紀半ばに、島津忠国(ただくに、9代当主)が市来院の稲荷神を鹿児島に迎え入れた。当初は稲荷尾に鎮座していたが、天文年間(1532年~1555年)に島津貴久(たかひさ、15代当主)が現在地の清水城下に遷座したとのこと。

 

市来院の稲荷神社についてはこちらの記事にて。

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第四位 春日神社

現在はひっそりと鎮座している感じだ。境内も広くはない。ただ、『三国名勝図会』の絵図と見比べると、それなりに雰囲気を残しているようだ。

鳥居と石段

春日神社

 

春日神社の絵図

『三国名勝図会』巻之三より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

御祭神は武甕槌命(タケミカヅチノミコト)・経津主命(フツヌシノミコト)・ 天児屋根命(アメノコヤネノミコト) ・姫大神(ヒメオオカミ)の四座。

鹿児島五社の中ではもっとも古い。安和2年(969年)に鹿児島郡司となった長谷場氏が創建したとされ、大和国の春日社(春日大社、奈良市春日町)より勧請したものである。

長谷場氏は藤原純友(ふじわらのすみとも)の後裔を称する。長谷場城(東福寺城)を築いて拠点としたことから長谷場氏を名乗る。春日神(カスガノカミ)は藤原氏の守護神である。そんなつながりから、長谷場城(東福寺城)下に祀ったのだろう。

鹿児島に入った島津氏が春日神社を再興し、守護神とした。

 

 

 

第五位 若宮八幡宮(若宮神社)

清水城からやや南に位置する。大龍小学校の近くに鳥居が見つかる。境内の奥には朱色が鮮やかな社殿がある。

朱色の社殿

若宮神社、拝殿前

 

御祭神は譽田別尊(ホムタワケノミコト、応神天皇)・息長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)・大鷦鷯(オオサザキノミコト、仁徳天皇)玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)。相殿として天照皇大神(アマテラススメオオカミ)・建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)・大國主大神(オオクニヌシノオオカミ)も祀る。

 

島津氏久が大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮、鹿児島県霧島市隼人町)の三の神輿を勧請遷座したのがはじまり。延文元年・正平11年(1356年)頃に諏方神社が山門院から遷されているが、若宮八幡宮も同じ頃に創建されたという。

永禄6年(1563年)には、島津貴久が相模国の鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)の神像三座を摸写させ、分霊を勧請して鹿児島の若宮八幡宮に合祀したとも。

 

大龍小学校の場所には、かつて内城(うちじょう、御内、みうち)があった。天文19年(1550年)に島津貴久が内城を築き、清水城からここに拠点を移した。若宮八幡宮(若宮神社)は内城を守護するような存在でもあったと思われる。

 

 

 

祭神と島津氏の関わりは?

鹿児島五社に列するのは、は諏訪神・祇園神(牛頭天王、ごずてんのう)・稲荷神・春日神・八幡神である。武神や豊穣神として人気のある神を集めた感じだが、島津氏の背景にあるものとの関わりも想像させられる。

 

前述のとおり、島津氏はもともと惟宗姓を称した。すなわち秦氏ということになる。秦氏は渡来系の氏族で、稲荷神は彼らが持ち込んだものというのも定説となっている。八幡神も秦氏と関わりがあるとされ、祇園神(牛頭天王)も渡来神の要素が感じられる。これらの神々を大事にしているのは、自然な感じがする。


八幡神に関しては、ほかの要素も絡みあう。

南九州においては大隅正八幡宮(鹿児島神宮)が大きな力を持っていた。巨大荘園(大隅正八幡宮領という)を有し、その勢力は島津荘(こちらも巨大荘園)に匹敵した。南九州は島津荘と大隅正八幡宮領とで二分されていた。島津家が若宮八幡を五社に列したのには、大隅正八幡宮を取り込む意図もあったのかもしれない。

ちなみに、大隅正八幡宮領は11世紀から12世紀にかけて急拡大した。この頃に執印(八幡宮の管理者)にあったのは行賢(ぎょうけん、か)という僧だった。この行賢は惟宗氏とされる。また、行賢の父は大隅国司であったとも。

源氏も八幡神を守護神とした。このことも日本中に八幡神が広がった要素のひとつだ。ちなみに、島津忠久には源頼朝の隠し子説もあったりする。

 

春日神は、藤原氏の守護神である。藤原氏の氏神である鹿島神(タケミカヅチノミコト)・香取神(フツヌシノミコト)、祖神であるアメノコヤネノミコトを大和国春日に祀ったのが春日社(春日大社)である。

島津氏は中世においては藤原姓を称している。『島津国史』によると、承久3年(1221年)に島津忠久は惟宗姓から藤原姓に改めたとのこと。

島津荘の持ち主は近衛家である。惟宗忠久は近衛家に仕えていた。幕府から島津荘の惣地頭に補任されたのも、そういったつながりからであろう。

 

 

 

諏訪神と島津氏のつながりが気になる

鹿児島五社の第一位は諏訪神である。これが不思議な感じがする。

前述のとおり、島津氏が信濃国に所領を持っていた縁もある。島津忠久が戦勝祈願した話も伝わる。鹿児島五社に列する理由としては納得がいくのだが、「第一位」に据える根拠とするには弱い感じなのだ。

ちなみに、五社の祭祀はすべて諏訪社宮司が執り行っていたとのこと。鹿児島五社の中で飛び抜けた存在であったことがうかがえる。


島津氏と諏訪のつながりについて、ちょっと考察してみる。あくまでも推測の域を出ないものではあるが……。

島津忠久は多くの所領を与えられ、幕府からかなり厚遇されたいた。ただ、武勲がものすごく多いのかというと、そんなに記録は出てこないのである。

一方で、源実朝の学問所番として名が出てきたり、幕府に命じられて祭祀や祈祷を仕切ったという記録もけっこうある。どぢらかというと「武」よりも「文」の面で重用されたっぽい。ちなみに惟宗氏は、明法博士を出すなど学者色の強い一族でもある。

祭祀・祈祷の任務にあたったことから、島津忠久はこっち方面に明るかったのだろう。惟宗氏の中には祭祀に関わる一族があったのかも。そして、惟宗忠久(島津忠久)はその一族の者であったのかも。

信濃国の諏訪社においても、島津氏が祭祀に関わったようである。ちなみに信濃国塩田荘・太田荘の地頭職を得た島津忠久は、一族の者を現地に入れている。そして土着した。「信濃島津氏」「長沼島津氏」と呼ばれる。


島津忠久が地頭職に任じられた地は、もともと惟宗氏と縁のある場所だという気もする。そこには近衛家の荘園とのつながりも見られるが、荘園管理者として惟宗氏が土着していた可能性もあると思う。そして、信濃国もそうであったのかもしれない。

また、惟宗氏は祭祀との関わりが深そうでもある。もしかしたら、古くから信濃の諏訪社の祭祀にも関与していたのかも。

ちなみに、諏訪上社の神長官(じんちょうかん)の守矢(もりや)氏の家紋は「丸に十字」だったりも。島津氏の家紋は十字(中世は丸がない)だ。これは偶然なのかな?

 

 

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 地誌備考一』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 2014年

ほか