ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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祇園之洲砲台跡、大英帝国の艦隊と激しく撃ち合った!

文久3年(1863年)、薩摩藩(鹿児島藩)はイギリス艦隊と戦った。薩英戦争である。薩摩藩は領内に砲台場を整備していた。そのひとつが祇園之洲(ぎおんのす)の砲台場である。鹿児島市清水町にある。ここは激戦地となった。

現在、祇園之洲砲台跡は祇園之洲公園として整備されている。砲台場の雰囲気もけっこう残っている。

 

祇園之洲公園には石橋記念公園も隣接。こちらについては別記事にて。

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薩英戦争

発端となったのは文久2年(1862年)の生麦事件である。武蔵国生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)で、島津家の行列に馬に乗ったイギリス人のチャールス・リチャードソンら4人が乱入。薩摩藩士はこれを無礼討ちにする。リチャードソンは死亡し、ほか3人も重傷を負う。

イギリスは薩摩藩に対して賠償金と犯人の処罰を要求する。薩摩藩は応じない。文久3年(1863年)、イギリスは7隻の艦隊を鹿児島湾に送り込む。要求をのませるために、脅しをかけてきたのである。交渉は進展せず。イギリス艦隊が薩摩の軍船を拿捕したことをきっかけに開戦となった。

薩摩藩は祇園之洲・新波止(しんはと、鹿児島港の一角)・天保山(てんぽざん、鹿児島市天保山町)などの砲台場から攻撃する。大砲の性能差は大きく、イギリス艦隊は薩摩藩の射程外から撃ち込んでくる。鹿児島城下は火の海となった。砲台場も破壊される。一方で、イギリス側の被害も大きかった。旗艦のユーライアラス号が被弾し、旗艦艦長が戦死するなど多くの死傷者を出す。イギリス艦隊は撤退した。

 

その後、薩摩藩はイギリスと和睦する。賠償金は幕府から借りて支払った(その後、返していない)。犯人処罰の要求についても、「逃亡してわからない」とうやむやにした。

薩摩藩はイギリスと戦って西欧の実力を実感する。そして、一転してイギリスと親交を深める道を選択した。薩摩藩はイギリスから軍船や武器を購入するようになる。留学生をイギリスに派遣したりもした。

 

薩英戦争には西郷従道(さいごうじゅうどう)・大山巌(おおやまいわお)・東郷平八郎(とうごうへいはちろう)・黒田清隆(くろだきよたか)らが従軍。また、山本権兵衛(やまもとごんべえ)は子供ながらに砲弾運びなどをしている。若い頃にイギリスとの戦いを経験した者たちが、のちに明治政府で海軍大将・陸軍大将・内閣総理大臣などを務めることになるのだ。

 

 

 

 

薩摩藩の海辺の砦

祇園之洲は稲荷川河口にあたる。また、多賀山(たがやま)の麓に位置する。地名は祇園神社(八坂神社)があったことに由来する。『三国名勝図会』には祇園之洲の様子がわかる絵図もある。こちらを見ると、いくらか整備が進んでいる様子がうかがえる。

海辺にある祇園神社と多賀山

『三国名勝図会』巻之三より(国立国会図書館デジタルコレクション)


『三国名勝図会』は薩摩藩が編纂した地誌で、天保14年12月(1844年1月)に発行。

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多賀山は中世山城の東福寺城(とうふくじじょう)の跡地で、かつては島津氏の本拠地であった。東福寺城は海に突き出た要塞という雰囲気もある。このあたりは、古くから軍事的に重要な場所だった。

 

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稲荷川右岸(現在の石橋記念公園)の埋め立て整備は元禄14年(1701年)から始まったという。享保13年(1728年)に祇園神社(八坂神社)も現在地に移る。

さらに、天保8年(1837年)頃に稲荷側左岸の整備も始まった。10代藩主の島津斉興(しまづなりおき)は家老の調所広郷に命じて、祇園之洲を造成。兵士の駐屯所とした。


嘉永3年(1853年)に11代藩主の島津斉彬(なりあきら)がこの地に砲台場を築く。さらに、嘉永8年(1858年)に12代藩主の島津忠義(ただよし)によって改修された。

薩英戦争では6門の大砲を配備。祇園之洲にはイギリス艦隊が接近し、砲撃戦が展開された。敵の砲撃により砲台は破壊されるが、戦後に修築されている。

 

 

台場跡を散策

駐車場は石橋記念公園側にある。こちらから祇園之洲公園を目指す。橋を渡って稲荷川の対岸が砲台場の跡である。石橋記念公園のあたりも江戸時代に造成されたもので、川沿いには古そうな石積みが確認できる。

河口と桜島

稲荷川、左岸が祇園之洲

石造りの古そうなもの

八坂神社近くの護岸石積み

 

砲台場の海側には土塁があり、内側には石垣で高さ1m前後の胸壁が築かれている。ここに兵士たちが身をひそめ、海上の英国艦隊と対峙したのだ。

「祇園之洲砲台跡」標柱と胸壁

土塁の内側の胸壁

砲台跡、段差に石垣がある

胸壁が続く

胸壁と標柱と説明版

別の場所に標柱と説明版もあった

段差の石垣と石碑

胸壁を別の角度から

 

土塁の上には「舊薩藩砲台跡」の石碑がある。大正11年(1922年)に建てられたものとのこと。

立派な石造りの記念碑

砲台跡の石碑

 

多賀山(東福寺城跡)を背にして海にのぞむ。山城も砦の一部という感じである。

木漏れ日さす砲台場跡

土塁側から見る、写真右奥に多賀山

 

砲台場の対岸に渡れるようになっている。水路を挟んで見ると、砲台場の様子がよくわかる。

水路をはさんで要塞を見る

海側から見た祇園之洲砲台場

 

公園の一角には「薩英戦争記念碑」もある。大正6年(1917年)に有志により建てられた。当初は参陳列所(現在は鹿児島県立博物館がある)の敷地内にあったが、昭和6年(1931年)に祇園之洲に移された。記念碑の文字は松方正義(まつかたまさよし)の揮毫による。碑の上には島津家の馬標(うまじるし)である「一本杉」のモニュメントもついている。

馬標がついた記念碑

薩英戦争記念碑

 

 

西南戦争の官軍墓地

明治10年(1877年)の西南戦争では鹿児島が最後の決戦地となった。戦後、祇園之洲に官軍の戦没者1270余人が葬られた。かつてはここに墓石が並んでいたが、昭和30年(1955年)に地下納骨堂に合葬された。納骨堂の上には慰霊塔も建てられている。

彫刻のある慰霊塔

西南戦争戦没者慰霊塔

 

写真手前に「官修墳墓」の石柱。やや大きめの石碑は「宣力殉難報國諸士之碑」。明治11年に西南戦争で亡くなった青森県出身者のために、青森県の人たちが建てたものとのこと。

石碑が並ぶ

官軍墓地であった頃の名残

 

 

 


<参考資料>
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書172
:鹿児島紡績所跡・祇園之洲砲台跡・天保山砲台跡』
発行/鹿児島県立埋蔵文化財センター 2012年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『一外交官の見た明治維新(上)』
著/アーネスト・サトウ 訳/坂田精一 発行/岩波書店 1960年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年

ほか