ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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川内の泰平寺、豊臣秀吉と島津義久が顔をあわせたところ

医王山正智院泰平寺(たいへいじ)は鹿児島県薩摩川内市大小路町にある。かつての薩摩国の高城郡(たきのこおり)の水引郷(みずひきごう)のうち。

 

天正15年(1587年)、豊臣秀吉は島津氏を攻める。大軍勢を率いて薩摩国に入り、陣を置いた場所は泰平寺であった。豊臣軍は圧倒的な兵力で島津方を敗走させる。島津義久(しまづよしひさ)は降伏。そして、剃髪して泰平寺におもむいた。豊臣秀吉に面会し、降伏が正式に認められた。

豊臣秀吉が引き連れていた兵は10万以上とも。これほどの大軍勢が駐屯できる場所はそうそうない。泰平寺は大寺院だったことがうかがえる。

 

明治初めの廃仏毀釈で泰平寺は徹底的に壊され、伽藍跡などは残っていない。なお、大正12年(1923年)に泰平寺が再興。また、跡地の一部は「泰平寺公園」としても整備されている。

 

『三国名勝図会』(薩摩藩が編纂した地誌)には泰平寺の絵図がある。往時の様子を知ることができる。

泰平寺の絵図

『三国名勝図会』巻之十三より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

『三国名勝図会』についてはこちの記事にて。

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豊臣秀吉が本陣を置く

泰平寺は川内(せんだい)の中心市街地にある。川内川(せんだいがわ)の北岸に位置し、北に500mほどのところが薩摩国分寺跡・薩摩国府跡。「大小路」という地名は、国府・国分寺と関わりがある。このあたりは薩摩国の政治の中心地であった。

 

泰平寺

本堂は、大正時代に復興したあとのもの

 

「泰平寺公園」は都市公園という雰囲気。広場では子供たちが走り回っていた。

 

公園

泰平寺公園の入口

 

公園の入口付近には「秀吉・義久の和睦」と題した銅像がある。

 

銅像

豊臣秀吉と島津義久

 

島津義久は僧形。この地に向かう道中で出家して「龍伯(りゅうはく)」と号した。

 

僧形の像

島津義久(島津龍伯)

 

豊臣秀吉は九州の西側の肥後国(現在の熊本県)のほうから薩摩国へ進軍した。島津義久をはじめとする島津方の主力は、九州の東側の日向国(現在の宮崎県)にあった。日向方面は豊臣秀長が率いる軍勢が攻める。

天正15年(1587年)4月17日(旧暦)、日向国の根白坂(ねじろざか、宮崎県児湯郡木城町)の戦いで島津方は大敗。4月22日に島津方は豊臣秀長に降伏を申し出た。そして、日向国に出陣していた島津義久は鹿児島に戻った。

 

一方、肥後方面の豊臣軍は4月25日に小西行長(こにしゆきなが)・脇坂安治(わきさかやすはる)・加藤嘉明(かとうよしあきら)・九鬼嘉隆(くきよしたか)らが川内川を遡上。川内に入って平佐城(ひらさじょう、鹿児島県薩摩川内市平佐)を包囲した。豊臣秀吉の本隊はゆっくりと行軍し、4月27日頃に薩摩国の出水に入る。茶会を催しながらのんびりと勝報を待っていた。

平佐城には桂忠昉(かつらただあきら、桂忠詮)が数百の兵で籠城し、降伏勧告を聞き入れず。この報を聞いた豊臣秀吉はみずからも川内に入ることとした。

桂忠昉はたくみに籠城戦を展開。城は落ちない。しかし、4月29日に島津義久の使いがあり、降伏するよう伝えられた。これに桂忠昉は従って開城した。

 

豊臣秀吉は5月3日に川内に入り、泰平寺に本陣を置いた。すでに平佐城は開城している。桂忠昉も泰平寺におもむいて豊臣秀吉に謁見する。奮戦ぶりを賞されて、脇差を拝領している。

そして5月8日、島津義久が泰平寺を訪れる。豊臣秀吉と顔をあわせた。

 

「和睦石」と呼ばれるものもある。豊臣秀吉が和睦の記念に置かせたとされ、泰平寺の庭石を集めたものであるという。

 

石の記念碑

和睦石

 

豊臣秀吉の九州攻めについてはこちらの記事にて。

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泰平寺の宥印法印

泰平寺公園の北側に墓地が広がっている。ここには泰平寺の古石塔がちょっと残っている。住職の墓などである。

 

泰平寺の石塔類

住職の墓塔か

 

石塔群

左は仁王像の一部か、右は方柱石塔婆の一部か

 

石塔のひとつが「宥印法印の墓」。宥印は天正15年当時の泰平寺の住職である。

 

五輪塔

宥印法印の墓

 

石塔の刻字

「宥印法印」の文字

 

宥印は水引の出身で、俗姓は永田氏。『三国名勝図会』によると、「生質頴敏剛毅」の人物であったとされ、つぎのようなことも記されている。

 

川内に入った豊臣秀吉は泰平寺に陣営を置きたいと考えた。そこで、使いを送って「早々に立ち退け、さもなくば身に災いが降りかかるぞ」と告げた。これに対して宥印は「愚僧はこの寺の住職だから、寺と存亡を共にする」と突っぱねる。まったく恐れることなく、動こうとしなかった。豊臣秀吉は感じ入るところがあって、改めて使いを出した。「遠いところまできて大軍の陣を置くところがなくて困っている、こちらの境内は広いので、しばらく貸してもらえないだろうか」とお願いをした。すると宥印は「謹んで尊命を受けよう」と。ただ、こうも続けた。「軍兵を恐れて寺を出たとなれば後世の笑いもになってしまう、だから代わりの場所を用意してもらいたい」と言うので、豊臣秀吉は宥印を宅満寺(薩摩川内市中郷にあった)に移した。豊臣軍が泰平寺に入ったあとも、宥印は泰平寺に毎朝通って、本尊への勤行を絶やさなかった。

……という。

 

島津義久が豊臣秀吉に面会する際にも、宥印がその仲立ちとなった。

 

 

 

泰平寺と塩大黒天

泰平寺の本堂にあがらせてもらい、しばらく和尚さんと話し込んだ。貴重な話をたくさん聞かせていただく。泰平寺について、さらには川内の歴史についていろいろと。

 

本堂内も撮影させてもらった。本尊は薬師如来。

 

本尊のあるところ

泰平寺の本堂内

 

「塩大黒天」と呼ばれる像もある。

 

大黒天の像

塩大黒天

 

伝教大師(最澄)の作と伝わる。『三国名勝図会』にはその伝説も記される。つぎのような感じである。

 

むかしのこと、泰平寺に塩がなくて困っていた。小僧がたわむれに「大黒さま、塩がなくて困っているんです、そこに座ってないで持って来てくださいな」と話かけた。数日後、大黒天像は忽然と姿を消す。探しても見つからない。……しばらくすると、甑島の人が船に塩を満載してやってきた。「これ、どういうことなの?」と僧が聞くと、「泰平寺の僧が甑島に来て、はやく塩を持っていってくれと言われて」ということだった。小僧が不思議に思っていると、大黒天像が元の場所に戻っていることに気付く。そして、その足は泥だらけになっていた。壇上には足跡も。それから「塩大黒天」と呼ばれるようになり、崇敬を集めた。

……と。


泰平寺は廃仏毀釈で破壊され、什物の多くが失われた。そんな中で、塩大黒天は持ち出されて個人宅に祀られていた。そんな経緯で、紛失をまぬがれる。数年前に所有者から泰平寺に戻されたそうだ(和尚さんの話による)。

 

 

 

開山は和銅元年

往古は法相宗・天台宗・真言律宗・真言宗の4宗派兼学の大伽藍であったという。のちに真言宗の寺院となり、鹿児島の大乗院の末とされた。

 

泰平寺は和銅元年(708年)の開山と伝わる。天下泰平万民安楽のために建立された勅願所であったという。ちなみに、近くにあった薩摩国分寺は8世紀末頃の創建。それよりもずっと古いということになる。

 

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『日本書記』の持統天皇6年(692年)閏5月の条にこんなことが記されている。

詔筑紫大宰率河内王等曰 宜遣沙門於大隅與阿多 (『日本書紀』より)

 

大宰府の河内王に、大隅と阿多に沙門(仏僧)の派遣を命じた、と。当時は大和朝廷が隼人を従わせようとしている頃。仏教を隼人支配に利用しようとしたようだ。なお、「阿多」がのちの薩摩国にあたる。

泰平寺の創設も、ここからの流れであるのかもしれない。

また、泰平寺の存在は、薩摩国において川内が大和朝廷の支配体制づくりで重要な場所であったことも想像させられる。

 

 

 

 

<参考資料>
『川内市史 上巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1976年

『川内市史 下巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1980年

『三国名勝図会』
編/橋口兼古、五代秀尭、橋口兼柄、五代友古 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年

『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』
編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年

『六国史 巻參』増補版(『続日本紀』を収録)
編/佐伯有義 発行/朝日新聞社 1940年

ほか