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薩摩国分寺跡、薩摩の国府は川内にあった、「万葉の散歩道」には大伴家持も

薩摩国の設置は、『続日本紀』によると大宝2年(702年)のこととされる。国府が置かれたの薩摩半島西部の川内(せんだい)であった。川内には薩摩国分寺跡がある。国の史跡にも指定。「薩摩国分寺跡史跡公園」として整備されている。場所は鹿児島県薩摩川内市国分寺町。

天平13年(741年)に聖武天皇の詔により、国ごとに国分寺を設置することになった。薩摩国分寺もその一つだ。

また、薩摩国分寺跡のすぐ近くにある「万葉の散歩道」もあわせて紹介する。ここには『万葉集』に収録された歌の碑がちょっとある。また、大伴家持(おおとものやかもち)の像も。大伴家持は薩摩守に任じられ、この地に居た時期がある。

 

 

 

 

 

薩摩国分寺跡へ

史跡公園には駐車場がない。近くに川内歴史資料館があるので、こちらの駐車場を利用する。

 

資料館の建物

川内歴史資料館

 

川内資料館には薩摩国分寺の復元模型や出土品などが展示されている。史跡公園に向かう前に、まずは資料館に寄ることを推奨する。そのほうが史跡を見て回るときに、イメージも膨らむ。

 

川内歴史資料館のホームページはこちら

rekishi.satsumasendai.jp

 

 

資料館から住宅街を抜けて3分くらい歩くと、薩摩国分寺跡史跡公園にいたる。総面積は16449㎡。史跡公園はかなり広い。ただ、他国の国分寺に比べて、規模は半分ほどなのだという。ここに伽藍跡の基礎部分が復元展示されている。

 

中門跡と推定されるところ。南大門から入り、ここをくぐって寺院の中へ。建物の柱穴跡が見つかっている。現地の看板によると、柱間は南北に約13.6m、東西に約10.7mとのこと。

 

薩摩国分寺跡の中門

中門跡

 

柱跡などを示す

中門跡の上に

 

中門跡のすぐ東側にあるのが塔跡。基壇は約8.6m四方の大きさ。中央に塔心楚がある。

 

塔の基礎部分

塔跡

 

建物の基礎

塔跡の上に

 

塔心礎は持ち出されて、寺院で手水鉢として使われていた。昭和19年(1944年)にもとの場所に戻され、このとき国史跡にも指定されている。

 

柱の穴

塔心礎

 

中門跡の北側に大きな建物の痕跡。こちらは金堂跡と推定されている。本尊仏を安置したところだ。創建の頃の基壇は南北約16.8m、東西約19.5m。

 

大きな建物の基礎跡

金堂跡

 

講堂跡。僧が読経や学問を行ったところ。建物の大きさは創建時が南北約14.5m、東西約36.2m。再建時のものが南北11.6m、東西約27m。

 

史跡公園

講堂跡

 

史跡公園内の北辺のほうの、伽藍跡からちょっと離れたところに層塔もあった。

 

古石塔

層塔、近くを新幹線が通る

これらは13世紀頃に造られたもの。国分寺跡から北に300mほどの菅原神社近くに移されていた。2008年に現在地へまた移されている。

 

 

 

豊臣秀吉の侵攻で焼失、そして再興

薩摩国分寺の創建時期は、8世紀末頃と推測されている。他国に比べて遅めで、前述したとおり規模もハーフサイズであった。大和朝廷による薩摩国の支配が、なかなかスムーズにはいかなかったことも想像させられる。

 

rekishikomugae.net

 

『三国名勝図会』によると、応和3年(963年)に大宰府より天満宮(太宰府天満宮、福岡県太宰府市)が勧請され、薩摩国分寺の鎮守としたいう。

建久8年(1197年)の薩摩国の図田帳には、寺領として104町5段があったと記録される。中世においても、力を持っていたことがうかがえる。

天正15年(1587年)に薩摩国分寺は焼失。この年、豊臣秀吉が大軍勢を率いて島津義久(しまづよしひさ)を攻めた。豊臣軍は川内に侵攻した際に集落に火をかけ、国分寺・天満宮も焼けてしまったという。

 

rekishikomugae.net

 

rekishikomugae.net

 

時代は下って寛文9年(1669年)に、藩主の島津光久の命で国分寺が再興された。「護国山威徳院国分寺」と号し、境内は天満宮の近くに。現在、史跡公園内にある層塔も、再建時にこちらの境内へ移設されたのだろう。天満宮も同じ頃に再興された。

 

『三国名勝図会』には江戸時代の「護国山威徳院国分寺」の絵図がある。

国分寺と天満宮の絵図

『三国名勝図会』巻之十一より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

『三国名勝図会』についてはこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

 

明治2年(1868年)に廃寺となり、現在は菅原神社(天満宮)のみが鎮座する。絵図によると、参道の近くに伽藍があったようだ。

 

神社の境内

菅原神社(天満宮)

 

 

「万葉の散歩道」

薩摩国分寺跡史跡公園と川内歴史資料館の間にある水路沿いに「万葉の散歩道」が整備されている。『万葉集』を編纂した大伴家持がこの地にあったことにちなむ。

大伴家持は天平宝字8年(764年)に薩摩守に任じられて、薩摩国府にやってきた。左遷であった。藤原仲麻呂の暗殺計画に関与したことが疑われてのことだった。

 

遊歩道

「万葉の散歩道」

 

「万葉の散歩道」には歌碑がある。

 

大伴家持の歌。

春の苑紅にほふ桃の花
下照る道に出で立つをとめ

 

大伴家持の歌

 

 

 

山部赤人(やまべのあかひと)の歌。

あしひきの山桜花日並べて
かく咲きたらばいと恋ひめやも

 

山部赤人の歌

 

 

薩摩目(さかん)の高氏海人の歌。

我がやどの梅のしず枝に遊びつつ
鴬鳴くも散らまく惜しみ

 

薩摩目高氏海人の歌

 

 

 

「薩摩国府跡」を示す看板もある。薩摩国分寺に隣接してこのあたりに、国衙が置かれていたようだ。写真の高架橋は新幹線の線路。

 

「薩摩国府跡」看板

薩摩国府跡

 

大伴家持の像。何かを書いている姿。歌を詠んでいるところかな? 

 

銅像と鉄塔

大伴家持の像

 

ちなみに、川内歴史資料館の学芸員の方の話によると、薩摩国分寺跡の全体像は新幹線の車窓からよく見えるそうだ。

 

 

 

 

 

 

<参考資料>
『国指定史跡薩摩国分寺跡環境整備事業報告書』
発行/川内市教育委員会 1985年

『川内市史 上巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1976年

『三国名勝図会』
編/橋口兼古、五代秀尭、橋口兼柄、五代友古 出版/山本盛秀 1905年

『六国史 巻參』増補版(『続日本紀』を収録)
編/佐伯有義 発行/朝日新聞社 1940年

ほか