ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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入来麓を歩いてみた、薩摩のサムライの感性に触れられる中世の街並

鹿児島県薩摩川内市入来にある入来麓(いりきふもと)にいってきた。

ここは「入来麓武家屋敷群」として、国の「重要伝統的建造物群保存地区」にも選定されている。中世の雰囲気を残し、見どころがかなりあるのだ。観光案内所や広い駐車場もあって、気軽に散策しやすいのもいい感じ。また、市役所支所に併設して入来郷土館があり、こちらには入来院氏関連の史料が展示されている。

 

清色城(きよしきじょう)という国史跡指定の山城もある。こちらも見ごたえあり! 城登りの記事も別途あげている。

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入来院氏の城下町

入来麓を治めたのは渋谷一族の入来院(いりきいん)氏である。この地を離れた時期が少しあるもの、13世紀半ばから江戸時代末まで領主であった。

入来院氏は渋谷定心(しぶやじょうしん、曽司五郎定心)を祖とする。渋谷氏は相模国高座郡渋谷荘(しぶやのしょう、現在の神奈川県藤沢市や綾瀬市のあたり)を本貫とする。渋谷光重(みつしげ)が鎌倉幕府より薩摩国北部の地頭職に任じられ、これを5人の息子に分け与えて下向させた。渋谷定心は光重の五男で、もともとは渋谷荘内の曽司郷(現在の神奈川県綾瀬市)にあったという。入来院氏は有力国人として土着し、のちに島津氏の家臣として歴史を重ねていった。

15世紀末~16世紀にかけて入来院重聡(しげさと、入来院氏11代)は島津宗家に仕え、その後は相州家・伊作家の島津忠良(ただよし)・貴久(たかひさ、宗家・守護職を相続)親子に協力した。さらに重聡は、娘(雪窓夫人、雪窓院)を貴久に嫁がせている。その雪窓夫人は島津義久(よしひさ、16代当主)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)の母となる。

12代・重朝(しげとも)は島津氏と対立するが、13代・重嗣(しげつぐ)は降伏して再び島津氏の配下となる。14代・重豊(しげとよ)も島津義久に従って転戦し、戦功を挙げた。

重豊には後継ぎがなかったため、島津以久(もちひさ、島津義久の従兄弟)の次男を養子にむかえて家督を継がせた。それが入来院重時(しげとき、15代)である。重時も島津氏の数々の戦いで活躍するが、関ケ原の合戦で討ち死にした。

重時にも後継ぎがなく、島津義虎(よしとら、薩州家)五男の島津忠富を養子にむかえた。入来院重高(しげたか、16代)と名乗る。重高の母は島津義久(母は入来院重聡の娘)の娘であり、入来院氏の血統も受け継いでいる。江戸時代には、入来院氏は島津氏の一門として遇されるようになった。

 

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城跡は学校の裏山

入来小学校の入口に「史跡 清色城跡」の標柱がある。石段や門は歴史を感じさせる。堀もあって、いかにも城っぽい。ここには清色城麓の御仮屋(おかりや、薩摩藩の地方行政の拠点)があった。小学校の裏手が山城の跡である。

「史跡清色城跡」標柱と石段、ここは館跡

入来麓御仮屋跡(入来小学校)

 

山城跡の麓に学校がある、というパターンは鹿児島県内にはけっこうある。それは、江戸時代に「外城制(とじょうせい)」という地方統治の仕組みがあったからだ。鹿児島藩(薩摩藩)では武士を地方に住ませて、領内各地の武士の集落を作った。ふだんは農業を営むが、他国(徳川幕府とか)から攻め込まれたら戦闘員となって守りを固めるのである。

外城は「郷(ごう)」あるいは「麓(ふもと)」と呼ばれた。もともと山城があったところを中心とし、その麓に集落が形成されることが多かった。山城は普段使いではのぼりおりがたいへんなので使われず、一国一城令もあって廃城となっていた。地方行政のための拠点は山城のすぐ下に館を構えることが多かった。これを「御仮屋」あるいは「地頭館(じとうやかた)」と呼んだ。ちなみに戦闘になったら、山(山城跡)にたてこもることも想定されている。

御仮屋(地頭館)の跡地は、明治時代になると役所関係の施設や学校として利用されることが多かった。

山城を背にして御仮屋(地頭館)を置き、さらに裾野にむかって集落が広がる。樋脇川(ひわきがわ)が集落をぐるりととりかこむように流れていて、これが天然の堀となっている。戦国時代以前の街並みがベースとなっているそうで、防備がよく考えられている感じがする。

入来麓の光景で特徴的なのが川原石を積み上げた玉石垣だ。これが整然と並んでいる。中世の雰囲気を存分に感じられる。その一方で、「現代の町」としての顔も持つ。のんびり歩いていると、細い道に乗用車も現れる。ちょっと不思議な感じがして、そんなところも面白い。

建物は現代風のものが多いが、門や塀はかつての武家屋敷のものがほとんど。立派な茅葺の武家門もある。

玉石垣の塀

入来麓の玉石垣

細い道に入っていくと、石塀にくぼみが設けられている部分もある。敵が通路を抜ける際にここにひそんでおいて奇襲をかけるとか、身を隠しながら銃撃戦を展開するとか、そんな使い方をするのだと思われる。

塀にも置けられた窪み

戦時には、くぼみに兵を伏せる

 

「船瀬殿墓(ふなせどんばか)」という石塔群が入来郷土館の近くにある。奈良時代に船着場が設けられて、その管理をしていた船瀬氏にゆかりのある史跡だ。石塔は100基ほどあり、その中には肥後国人吉(現在の熊本県人吉市)の相良氏が14世紀(南北朝時代)に建立した逆修塔(ぎゃくしゅとう、生前に自身のために建てる供養塔)も確認できる。南北朝争乱の中で、入来院氏は相良氏と協力して島津氏を攻撃したりもしている。

ずらりと並んだ石塔群

川沿いに船瀬殿墓

 

入来の武士団の産土神として崇敬されてきた赤城神社(あかぎじんじゃ)。御祭神は月読命(ツクヨミノミコト)と稲荷八大竜王。もともとは船瀬氏の氏神だったようで、月を信仰の対象とした古代の隼人族の神がルーツであるとも考えられている。

木製鳥居のある小さな神社

赤城神社

 

境内には古い石造物も残る。六地蔵塔には「大永四年(1524年)」と刻まれている。

石造りの供養塔

赤城神社の六地蔵塔

 

集落のはじのほうの山近くに「三十三観音塔」がある。大永7年(1527年)に入来院一族33名の逆修供養塔して建立されたもの。33体の観音像が彫られている。

観音像を彫り込まれた石塔

三十三観音塔

 

 

旧増田家住宅へ、薩摩武士の家ってこんな感じ

散策していると茅葺屋根の家に遭遇する。「旧増田家住宅」というもので、国の重要文化財にも指定。一般公開されていて、無料で中を見学できる。案内の人も常駐している。この家には西郷隆盛の書もあった。現在は、そのレプリカも展示されている。

茅葺屋根の武家屋敷

旧増田家住宅

この建物は明治の初めの頃に建てられたものだが、鹿児島の武士の住まいとして一般的だった「二つ家」の要素が見られる。2軒の家がつながっていて、それぞれが「おもて」と「なかえ」という。「おもて」は客を迎える場所、「なかえ」は住人に暮らしの場所である。

「おもて」は文字通りに表向きの場所であり、装飾などもしっかりと作られている。天井も貼られている。「なかえ」は「おもて」よりも低くなっている。こちらは天井はなく、吹き抜けである。囲炉裏があって、土間も併設されている。

床の高さが違う、右側が高い

写真左手前の「なかえ」が一段低い、右奥が「おもて」

日本家屋の部屋、天井も貼られている

「おもて」の室内

囲炉裏がある、頭上は梁がむき出し

こっちは「なかえ」

江戸時代の風情を残す石蔵

旧増田家住宅の石蔵も見学可能だ

 

 

寿昌寺跡へ、入来院氏の菩提寺

麓の集落から樋脇川を渡ると、国道328号沿いに古い鳥居と仁王像がある。寿昌寺(じゅしょうじ)跡だ。ここは入来院氏の菩提寺で、宝治年間(1247年~1249年)に入来院氏初代の渋谷定心(しぶやじょうしん、曽司五郎定心)が建立させたものだとされている(建立の年代については諸説あり)。

寺院跡は護国神社となっている。鳥居も明治時代につくられた護国神社のもの。明治11年(1878年)に西南戦争の戦没者のために招魂碑が建立され、その題字は副島種臣(そえじまたねおみ)によるものである。仁王像は寿昌寺のもので、江戸時代初め頃のものと推測されているとのこと(現地看板の説明より)。

石の仁王像と石の鳥居

寿昌寺跡の仁王像

 

寿昌寺跡に入来院氏歴代の墓地もある。「お石塔(せっと)」と呼ばれていているそうだ。もともとはここから1.5㎞ほど離れた入来元村の諏訪神社前にあった。寛文6年(1666年)に寿昌寺内に移されたという。

立派な造りの墓が並ぶ

お石塔(入来院氏の墓)

 

 

重来神社を参拝、関ヶ原で散った入来院重時を祀る

寿昌寺跡近くにある重来神社(しげきじんじゃ)は、入来院重時(いりきいんしげとき、入来院氏15代)らを祀る。慶長5年(1600年)、重時は島津義弘に従って関ケ原で戦う。撤退の際に重時は本隊とはぐれ、主従7人が討ち死にした。重時の跡を継いだ入来院重高(しげたか)が、その霊を崇めて創建したのがはじまりとされる。

石造りの鳥居がある参道口、記念碑もある

重来神社の参道入口

 

入来院重時・重高は大隅国菱刈郡湯之尾(現在の伊佐市菱刈)の地頭であったため、湯之尾に祠を建てて日吉明神と号していた。慶長18年(1613年)に重高が旧領の入来院の地頭に復し、日吉明神も移した。承応4年(1655年)に鹿児島の諏訪神社より「重来大明神」の神号を得たという。

重時は数々の戦功があり、名将として知られていた。重来神社は軍神(いかさがみ)として崇敬を集めた。

重来神社には若宮大明神・広瀬大明神・定勝日子霊神の3社も合祀されている。

若宮大明神は弘安の役(1281年、二度目の元寇)で戦死した渋谷有重(ありしげ)・渋谷致重(まさしげ)・渋谷重尚(しげなお)を御祭神とする。広瀬大明神は14代・入来院重豊(しげとよ)を祀る。定勝日子霊神の御祭神は23代・入来院定勝(さだかつ)である。

国道沿いに鳥居がある。鳥居横には「純忠碑」というものも立っている。弘安の役の戦死者として渋谷有重・渋谷致重・渋谷重尚の名が、吉野朝忠臣(14世紀に南朝方で戦った者)として渋谷重基・渋谷重勝・渋谷重門・岡本重興と同妻寅三の名がある。

石碑には入来一族の名が刻まれる

鳥居横の純魂碑

 

鳥居をくぐって参道へ。石段を登ると拝殿がふたつ並んでいる。建物は比較的新しいものだが、雰囲気のある場所だ。

苔むした境内に小さな祠がある

登ったところに拝殿

天狗のような姿の神像もあり。秋葉権現だと思われる。石像の背後には「明和六年(1769年)」と刻まれている。この像と重来神社との関連性についてはよくわからない。

秋葉権現の石像

重来神社に秋葉権現

 

 

 

 


<参考資料>

『入来町誌 上巻』
編/入来町誌編纂委員会 発行/入来町 1964年

『入来町誌 下巻』
編/入来町誌編纂委員会 発行/入来町 1964年

『新薩摩学 中世薩摩の雄 渋谷氏』
編/小島摩文 発行/南方新社 2011年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

ほか