ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

島津氏が来る前の時代

薩摩国大隅国の歴史を、古代から平安期にかけてざっくりと書いてみる。南九州における平安時代以前の資料は多くはない。断片的にしかわからないが、そこにはいろいろなヒントがあると思う。

 

隼人が住んでいた

7世紀頃に、日本はヤマト王権を中心に統一国家となっていく。ただ、ヤマトの支配力はまだまだ十分ではなかった。南九州では「隼人(はやと)」が抵抗していた。

隼人の氏族としては、阿多君(あたのきみ)・衣君(えのきみ)・薩麻君(さつまのきみ)・曾君(そのきみ)・大隅直(おおすみのあたい)・肝衝(きもつき)といった名が伝えられている。阿多君は薩摩半島中南部(鹿児島県南さつま市のあたり)、衣君は薩摩半島南西部(南九州市頴娃町指宿市のあたり)、薩麻君は薩摩半島中北部(薩摩川内市のあたり)、曾君は大隅北部(霧島市曽於市のあたり)、大隅直と肝衝は大隅半島中部(鹿屋市・志布志市肝付町のあたり)を本拠地としていたと考えられている。

大和朝廷は、「国土と人民は国のもの(公地公民)」という考え方を基礎として統治システムを作っていく。地域を「国」として区分し、それぞれに国衙(地方の役所)を置く。国守(くにのかみ)をはじめとする国司国衙の役人)は朝廷が任命し、その土地土地を治めさせた。そして、戸籍をもとに人民に土地を与えて税を徴収する(班田収授の法)。税は米で納める「租」、労役が課せられる「庸」、布や特産品を納める「調」があった。その中でも米による税収は重要で、米を経済の基本とする。そんな米本位制経済は、なんと江戸時代末まで続くことになるのだ。

九州南部は火山由来の土壌に覆われ、水はけがよすぎて稲作には向かない。山がちで平野も少ない。隼人の時代には、稲作はあまり行われていなかったと考えられている。ちなみに、現在の鹿児島県は全国屈指の農業県なのだが、「米どころ」というイメージはあまりないだろう。耕地面積のうち田が3割ほど、畑が7割ほどである(農林水産省の2019年『作物統計調査』より)。広大な畑もかつては水の確保が難しく、生産性が上がったのは近年の大規模灌漑事業によるところも大きい。

大和朝廷は隼人を征服して、律令制に組み入れようとした。大宝2年(702年)に「唱更国(はやひとのくに、しょうこうのくに)」が設置され、しばらくして「薩麻国」と改めた。さらにあとになって「薩摩国」となる。また、多褹国(たねのくに、「多禰」とも書く、種子島のこと)も同じ頃に設置されたようだ。そのちょっと前に薩麻・多褹の反乱が鎮圧され、令制国設置に至ったという経緯もある。やや遅れて和銅6年(713年)に「大隅国」も設置された。

薩摩国大隅国にはそれぞれ国府が置かれ、国司(役人)は朝廷に任命された者がつとめることになる。班田収授法の施行のために移住者を送り込む、なんて政策も実施された。

  

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大隅隼人の反乱

養老4年(720年)、大隅で大規模な隼人の反乱が起こる。大隅国守(国司の長官)の陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)が殺害され、隼人が蜂起。朝廷は大伴旅人(おおとものたひと)を征隼人持節大将軍として征討軍を派遣。隼人は7つの城にたてこもる。その中で比売之城(ひめのき)と曽於乃石城(そおのいわき)がなかなか落ちずに、戦いは長引いた。この事件は『続日本紀』に記されている。ちなみに、この2つの城があったのは現在の霧島市国分のあたりだと考えられている。

隼人の反乱は鎮圧まで1年半を要した。隼人側の斬首者と捕虜は1400人余にもなったという。霧島市の国分重久にある止上神社(とがみじんじゃ)は、隼人との関りも深い。かつて隼人の祟りを鎮める祭りも行われていたと伝わる。近くには隼人の鎮魂のための隼人塚(隼人首塚)もあったという。隼人塚の痕跡は残っていないが、田んぼの中に記念碑が立っている。

下は「隼人塚伝承地の記念碑」。かつては叢林があったという。写真で遠くに見える山の左奥のあたりが姫木城(ひめきじょう)跡。これがかつての比売之城と考えられている。 

鹿児島の史跡

隼人塚伝承地記念碑と姫木城(比売之城)跡

下の写真は姫木城跡(かつての比売之城か)の南側。現在は稲荷神社がある。また、国分上小川の隼人城(はやとじょう)がかつての曽於乃石城だったと考えられている。現在は国分城山公園がある。 

鹿児島の城跡

稲荷神社と姫木城(比売之城)跡


班田収授法、なかなか施行されず

隼人を服属させたあとも、すぐに班田収受法が導入されたわけではなかった。『類聚国史(るいじゅこくし)』には「延暦19年(800年)に班田収受法が薩摩と大隅で始まった」という記録がある。他の地域より100年以上も遅れて、ようやく施行されたことになる。最近では、記録が簡素すぎることから、ほぼ行われなかった、という見方も有力なようだ。

一方で、8世紀半ばには早くも班田収授法は崩壊しはじめる。口分田を貸し与えるというやり方なのだから、だんだん土地が足りなくなってくる。そこで開墾が奨励された。養老7年(723年)に三世一身法を発布。これは「開墾した土地は孫の代まで私有地として認めますよ」という法である。さらには、天平15年(743年)に墾田永年私財法が発布され、「墾田はずっと私有地にしていいよ」ということになった。そして、「荘園」が出現し、武士の時代へとつながっていくことになる。

薩摩や大隅では班田制をしようにも田が足りない。だから、私的な開墾も奨励された。私有地が増えると収入が増えるわけだから、みんなせっせと開墾していった。つまり、班田制を飛び越して荘園の時代に突入していくのだ。

 

国司と郡司と荘園の微妙な関係

奈良時代から平安時代にかけての地方の統治は、国司と郡司によって行われた。国司中央政府から派遣された役人で、朝廷に仕える有力な氏族から任命された。国の長官は「守(かみ)」と呼ばれる。8世紀の薩摩守(さつまのかみ)としては大伴家持(おおとものやかもち)や紀広純(きのひろずみ)、大隅守(おおすみのかみ)には中臣伊加麻呂(なかとみのいかまろ)や中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)といった名が見られる。ちなみにこの4人は左遷だと思われる。都からものすごく遠いので、そういった任官も多かった。

薩摩国府があった場所は、薩摩川内市国分寺町のあたり。薩摩国分寺の遺構もあり、この近くだと考えられている。国分寺の規模は他国のものと比べて小規模であった。

鹿児島の史跡

薩摩国分寺跡

 

大隅国府は、霧島市国分府中の祓戸神社(はらえどじんじゃ)のあたりと考えられている。そこから1.5kⅿほど離れた場所には大隅国分寺跡もあり、石塔と仁王像が残っている。 

鹿児島の史跡

大隅国分寺跡

 

国司は「守」のほか、次官以下に「介(すけ)」、「掾(じょう)」、「目(さかん)」もある。左遷でやってくる者だけでなく、国司になりたがる者もあった。なぜかというと、私腹を肥やすことができたからだ。任官したのちに一族が住み着き、土地の有力者になったりもした。

一方で、郡司は国司のもとで郡の管理をまかされる役回り。地元の有力者から任命されることが多かった。昔から住んでいる豪族(隼人の有力氏族の流れをくむ者もあったかも)や、任官から土着した一族などがこれにあたる。郡司は世襲され、地域密着型の役人だ。土地との結びつきは任期のある国司よりも強い。

国司と郡司が利権をめぐって争う、国司にうまくとりいって私財を増やそうとする郡司がいたり……なんてことも。地元の有力者の中には国司の役人になる者もあった(在庁官人という)。さらに、私有地である荘園を管理する者もいる。農地を開拓して権力者に差し出し、みずからは管理者(「開発領主」や「田堵」と呼ばれる)におさまるという場合もあった。

薩摩国大隅国では、なんと島津荘(しまづのしょう)と大隅八幡宮おおすみしょうはちまんぐう)領の二大荘園がほとんどを占めるようになる。なぜ、そうなったのか? 土地の支配を巡って不安定な状態が続いたと推測される。自分の土地を守るために、こぞって権力者にすがったのだろう。

 

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<参考資料>

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年

鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
※『類聚国史』や『続日本紀』などからの抜粋を収録

『隼人郷土史
編/隼人郷土誌編集委員会 出版/隼人町 1971年

『国分郷土誌 上巻』
編/国分郷土誌編纂委員会 出版/国分市 1997年

『南九州古代ロマン ハヤトの原像』
著/中村明藏 出版/丸山学芸図書 1991年

『隼人の研究』
著/中村明藏 出版/丸山学芸図書 1993年

『隼人の古代史』
著/中村明藏 出版/吉川弘文館 2019年

『隼人の実像 鹿児島人のルーツを探る』
著/中村明藏 出版/南方新社 2014年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

ほか