鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は大隅国一之宮である。鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座する。
現在、「カゴシマ」というと鹿児島市のあたり(かつての薩摩国鹿児島郡)をさすが、もともとは大隅国の鹿児島神宮鎮座地のあたりの名称だったとも。
ここは「神話が息づく」という言葉がぴったりの雰囲気だ。そして、南九州でもっとも大きな力を持っていたと考えられる神社で、歴史にも大きく絡んできたのである。
海幸彦山幸彦伝説と八幡信仰と
主祭神は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト、山幸彦)・豊玉比売命(トヨタマヒメノミコト)。相殿神として帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト、仲哀天皇)・息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)・品陀和気命(ホムダワケノミコト、応神天皇・八幡大神)・仲姫命(ナカツヒメノミコト、応神天皇皇后)を祭る。
海幸彦山幸彦伝説と八幡信仰が入り混じっている。
御神号を「鹿児島皇大神(かごしますめらのおおかみ)」と称し、古くは「鹿児島神社」と呼ばれた。また「大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう)」「国分八幡宮(こくぶはちまんぐう)」とも。
創建は神代とされる。ヒコホホデミノミコト・トヨタマヒメノミコトが住んだとされる高千穂宮(たかちほのみや)の跡地に造営されたのが始まりとも。当初は、境内からやや西に位置する石體神社(しゃくたいじんじゃ)の場所に鎮座し、和銅元年(708年)に現在地に遷座したと伝わる。延長5年(927年)に完成した『延喜式』には、「鹿児島神社」の名称で記されている。奥三州(薩摩・大隅・日向の3ヶ国)では唯一の大社であったという。
八幡神を合祀した年代は不明。欽明天皇5年(544年)に八幡神が垂迹したとも伝わる。
鹿児島神宮社家の一説に「欽明天皇の五年、鹿児島神社の上に雷電おびただしく人々皆奇異の思ひをなしけるに、八流の幡降来たり、示現の奇特あって、応神天皇 仲哀天皇 神功皇后を合祭す。是当神社を八幡と称する張本なり」とある。 (『鹿児島神宮史』より)
ただ、『延喜式』では「鹿児島神社」とされていて、八幡神の合祀はこれ以降と考えられる。「大隅正八幡宮」の名称が出てくるのは11世紀くらいになる。
長い参道を歩く
JR隼人駅前から県道473号を800mほど北のほうへ行くと、道路沿いに「大隅国一之宮 鹿児島神宮」の標柱がある。ここが参道入口だ。大きな赤い鳥居も見える。参道入口から道路を挟んで摂社の保食神社(うけもちじんじゃ)もある。
参道をすすんで大鳥居(一の鳥居)をくぐる。途中には立派な石灯籠もある。境内のほうを見ると山に神社が造営されていることがわかる。もともとは山をご神体としたのかも。
二の鳥居の前にも神様が鎮座。末社の三之社(さんのやしろ)である。小ぶりな社殿が3座あり、それぞれに豊姫命(トヨヒメノミコト)・磯良命(イソラノミコト)、武甕命(タケミカヅチノミコト)・経津主命(フツヌシノミコト)、火闌降命(ホスソリノミコト)・大隅命(オオスミノミコト)・隼人命(ハヤトノミコト)が祭られている。神功皇后の妹と海神、天津神系の武神、隼人系と思われる神々という組み合わせだ。
二の鳥居を抜けてさらに歩く。古そうな石橋と石段があらわれる。石橋のまえには左右に大きなクスノキもある。石段の前には御門神社もある。こちらの御祭神は豊磐間戸命(トヨイワマドノミコト)・櫛磐間戸命>(クシイワマドノミコト)。
石橋の建築年代は18世紀~19世紀頃と思われる。神職の方の話では、肥後石工の技術が見られるとのこと。
こちらは『三国名勝図会』に掲載の絵図。19世紀半ばに発行された地誌である。絵図の左側が石橋のあるあたり。かつては小学校のあたりに寺院があった。
『三国名勝図会』についてはこちらの記事にて。
本殿へお詣り
石段をのぼるとやや広い空間に出る。ここには社務所や茶屋がある。本殿へと続く石段の近くには樹齢800年とされる御神木。大きなクスノキである。また、その近くには雨之社(あめのやしろ)が配置されている。御祭神は豊玉彦命(トヨタマヒコノミコト)。別名をオオワタツミノカミ(大綿津見神、大海神)といい、トヨタマヒメノミコトの父である。
さらにのぼる。広い空間に出た。立派な社殿がある。勅使殿・拝殿・本殿と、摂社の四所神社(ししょじんじゃ)は国の重要文化財に指定されている。これらの建物は、宝暦5年(1755年)に島津重年(しまづしげとし、島津氏24代当主、薩摩藩7代藩主)の寄進によって着工。翌年に島津重豪(しげひで、重年の嫡男)の代になって完成したものである。
勅使殿には「正八幡宮」の扁額がかけられている。脇の階段をのぼると拝殿のほうへ行ける。
拝殿の天井画が見事だ。
『三国名勝図会』の絵図と見比べてみると、建物も含めてほとんど変わっていない。雨之社(雨宮)の位置はちょっと違っている。
本殿の横は中庭のような造りになっている。こちらには四所神社・武内神社(たけうちじんじゃ)・隼風神社(はやちじんじゃ)が並んでいる。
四所神社は大雀命(オオササギノミコト、仁徳天皇)・石姫命(イワノヒメノミコト、仁徳天皇の皇后)・荒田郎女(アラタノイラツメ、石姫の妹)・根鳥命(ネトリノミコト、石姫の弟)を祭る。八幡神の四柱と関連のある御祭神である。
武内神社には武内宿禰(タケウチノスクネ)、隼風神社には日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祭る。
勅使殿の近くには「龍宮の亀石」なるものもあった。撫でると願いが叶うという。
鹿児島神宮にはほかにも摂社・末社がある。稲荷神社と石體神社については別の記事にて紹介。
大隅国二之宮の蛭兒神社も近く。
御神馬
石橋のある場所から向かって左側のほうに行くと、御神田がある。その近くには芦毛馬の姿も。「清嵐(せいらん)」という名の御神馬(ごしんめ)である。
清嵐は日本中央競馬会(JRA)から2018年3月に奉納された。もともとは「ブラーニーストーン」という競走馬だった。戦績は33戦4勝。2013年にはオルフェーヴル(凱旋門賞に参戦、2着)の帯同馬としてフランスに渡り、プティクヴェール賞とフォレ賞を走っている。
「正八幡」と称する
大隅正八幡宮(鹿児島神宮)に八幡神が最初に降り立ったという伝承もある。まず大隅国にあらわれて、そのあとに豊前国の宇佐八幡宮(宇佐神宮、 大分県宇佐市)へ遷った、と。
霧島市溝辺の鹿児島空港のある台地を、「十三塚原(じゅうさんつかばる)」という。この地名は大隅正八幡宮(鹿児島神宮)に関わるある伝説に由来する。
長承元年(1132年)、宇佐八幡宮と大隅正八幡宮とのあいだで、どっちが正統であるかという争いがあった。宇佐八幡宮が14人の密使を送り込んだ。密使らが大隅正八幡宮に焼き討ちをかけると、黒煙の中に「正八幡」の文字が浮かびあがったのだという。これを見て恐れおののき密使たちは逃げるが、そのうちの13人が溝辺(みぞべ、霧島市溝辺町)で倒れて死んでしまった。土地の人は埋葬し、13の塚ができたことから「十三塚」と呼んだのだという。現在、その跡地には「十三塚原史跡公園」がある。
実際には宇佐八幡宮から八幡信仰が持ち込まれたと考えるほうが、自然な感じがする。というのも、古代の南九州は隼人が住んでいて、ヤマト王権と戦っていた。養老4年(720年)から翌年にかけて、大隅隼人の大規模な反乱もあった。
『続日本紀』によると、大隅国は和銅6年(713年)に設置された。そして、和銅7年(714年)には豊前国から大隅国に200戸(約5000人)を移住させたという記録もある。豊前国には秦(はた)氏の一族が大量に住んでいて、大隅に来たのも秦氏であったと推測される。彼らの存在も、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の成り立ちと関係があるように思える。
大隅正八幡宮の社家は桑幡(くわはた)・留守(るす)・最勝寺(さいしょうじ)・沢(さわ)の4氏がおもに担った。まとめて「四社家」ともいう。
桑幡氏は息長(おきなが)姓を称する。オキナガタラシヒメ(神功皇后)とつながりのある一族である。豊前国の香春神社(かわらじんじゃ、福岡県田川郡香春町)の宮司家の出身ともされ、秦氏とのつながりもありそうだ。
留守氏は紀(き)姓。紀氏は山城国の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう、京都府八幡市)の社家である。
最勝寺氏は藤原姓。大隅国囎唹(そお、現在の鹿児島県霧島市・曽於市の一帯)を支配していた税所(さいしょ)氏と同族とされる。
沢氏の出自は嵯峨源氏とされる。
四社家には数えられていないが、酒井(さかい)氏も大隅正八幡宮の神官として力を持っていた。酒井氏は豊前国宇佐郡酒井郷(大分県宇佐市)にあった酒井宿禰の一族だとされる。宇佐八幡宮に縁があり、秦氏であるとも。なお、酒井氏には桑幡氏から継嗣が入り、のちに息長姓を称したという。
鹿児島神宮には分社もある。大隅国の投谷八幡(なげたにはちまん、曽於市大隅町)・蒲生八幡(かもうはちまん、姶良市蒲生町)・栗野八幡(くりのはちまん、勝栗神社、かちくりじんじゃ、姶良郡湧水町)、薩摩国の荒田八幡(あらたはちまん、鹿児島市下荒田)など。これらは、後述する荘園とも関わりが深いようだ。
桜島を祭っている?
鹿児島神宮はもともとは隼人族の聖地であったと思われる。その上に、ヤマトの神が重ねられ、さらに八幡信仰も加わったのであろう。
隼人は山をご神体として崇めたようである。南九州の古い神社にはそう感じさせるところが多い。
「カゴシマ(鹿児島)」とは桜島の古称という説もある。鹿児島神社(鹿児島神宮)は桜島を祭るため(鎮めるため)の神社とも考えられる。
ちなみに、『続日本紀』の天平宝字8年12月(765年1月か)の記録に、桜島の大噴火(または桜島の北側の海底噴火)があったと記されている。もしかしたら、これも関係があるのかもしれない。
巨大荘園「大隅正八幡宮領」
平安時代中期頃から、全国的に「荘園」が形成されていった。南九州では巨大荘園が出現する。ひとつは「島津荘(しまづのしょう)」、そしてもうひとつが「大隅正八幡宮領」である。
建久8年(1197年)の『大隅国図田帳』によると、大隅正八幡宮領は合計で1296町余。これは大隅国の4割ほどを占める。このほかに正八幡宮領は薩摩国にもあった。
大隅正八幡宮領は、本家を石清水八幡宮とする。この頃は宇佐八幡宮よりもこちらの影響力が強かった。寛治元年(1087年)に石清水八幡宮から行賢(ぎょうけん)という人物が下向したという。行賢は大隅正八幡宮の執印(しゅういん、印を管理する者、神社の管理者)となった。この行賢がいる頃に、大隅正八幡宮領は規模を拡大させたようだ。
なお、行賢は秦氏後裔の惟宗(これむね)氏である。父は大隅国司だったとも。ちなみに島津氏も、もともとは惟宗氏である。
12世紀末、鎌倉の幕府が政権をとると、地方の統治者として守護職・地頭職を置くようになった。
大隅正八幡宮領の地頭職には中原親能(なかはらのちかよし)が補任された。幕府の「十三人の合議制」のひとりにも数えられる人物である。地頭による支配はうまくいかず、正八幡宮の訴えにより、中原親能は地頭を解任される。その後も別の人物が地頭を任されるが、結局は停止された。
島津貴久と大隅正八幡宮
天文17年(1548年)、大隅国では清水(きよみず、霧島市国分清水)の本田薫親(ほんだただちか)が反乱を起こす。その兵乱の中で、大隅正八幡宮の社家は島津貴久(しまづたかひさ、島津家15代当主)に救援を求めた。島津貴久は伊集院忠朗(いじゅういんただあき)・樺山善久(かばやまよしひさ)らを派兵。八幡宮近くの隈之城(くまのじょう、笑隈城、えみくまじょう)に布陣して敵を撃退した。
島津貴久は大隅正八幡宮を厚く崇敬する。永禄元年(1558年)に島津貴久が大隅正八幡宮に寄進した「色々威胴丸兜大袖付(いろいろおどしどうまるかぶとおおそでつき)」も残っている。こちらは国の重要文化財に指定されている。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『鹿児島神宮史』
編/三ツ石友三郎 発行/鹿児島神宮社務所 1989年
『隼人町郷土史』
編/三ツ石友三郎 発行/隼人町役場 1985年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『「さつま」の姓氏』
著/川崎大十 発行/高城書房 2010年
ほか