ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

栗野の勝栗神社(正若宮八幡社)、島津義弘はここで戦勝を祈願

勝栗神社(かちぐりじんじゃ)へお詣りに。

鎮座地は鹿児島県姶良郡湧水町米永。古くは正若宮八幡社(しょうわかみやはちまんしゃ)と称し、明治3年(1870年)に「勝栗神社」に改称している。

 

島津義弘(しまづよしひろ)とも縁のある場所だ。このあたりはかつての大隅国栗野(くりの)のうち。天正18年(1590年)から文禄4年(1595年)にかけて、島津義弘は栗野の松尾城(まつおじょう)を居城としていた。そして、正若宮八幡社(勝栗神社)では朝鮮出陣の儀式も行っている。

 

 

 

正若宮八幡社の由緒

創建年代は不明。主祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇。大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮、鹿児島県霧島市隼人町内)の分社とされる。

大隅正八幡宮は広大な荘園を有していた。「大隅正八幡宮領」といい、南九州では島津荘(しまづのしょう)と勢力を二分していた。栗野も大隅正八幡宮領であり、これにともなって神社が勧請されたようだ。

 

大隅正八幡宮(鹿児島神宮)についてはこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

建久8年(1197)に作成された『大隅国図田帳』には

栗野院六十四丁
正宮領 本家八幡 地頭掃部頭

とある。栗野が正宮領(大隅正八幡宮領)であったことを示す。

 

ちなみに、地頭の「掃部頭」というのは、中原親能(なかはらのちかよし)のこと。建久8年(1197)の頃には、大隅正八幡宮領のかなりの範囲の地頭職にあった。ただ、その期間は長くなく、しばらくして地頭職を解任されている。

栗野院の大隅正八幡宮領の荘官は酒井(さかい)氏であったようだ。酒井氏は大隅正八幡宮の神官の一族でもある。

 

康永4年・興国6年(1345年)に北原氏が日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)に入る。北原氏は勢力を広げ、栗野もその支配下に入った。北原氏は伴姓で、肝付氏の支族である。

『三国名勝図会』によると、北原氏は正若宮八幡社への信仰が厚く、寄附した品々が多いとのこと。文明2年(1470年)に伴貴兼(北原貴兼)の再興の棟札もあるという。

 

島津義弘や島津忠恒(ただつね、島津家久)の再興の棟札もある。

北原氏は島津貴久に従属し、永禄7年(1564年)には真幸院や栗野を離れた。栗野は島津貴久が支配するところとなった。

島津貴久は、北原氏の旧領に次男の島津忠平(ただひら、島津義弘)を入れた。島津忠平(島津義弘)は、日向国真幸院の飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市原田)を居城としていたが、天正18年(1590年)に栗野の松尾城に居城を移した。

 

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高い木々が境内を覆う

鹿児島県道55号の栗野インターチェンジ出入口近くに勝栗神社はある。栗野中央公民館への道に入っていくと、すぐに鳥居が見える。

木々に囲まれた神社

勝栗神社の参道口

 

石造りの鳥居

鳥居はやや横長か?

 

鳥居の横には仁王像がある。

古い石像

仁王像が立つ

正若宮八幡社の境内にあった梅中寺のもので、寛文5年(1665年)の建立とのこと。現在は吽形のみが残る。鳥居の反対側に、阿形の下半身のみが確認できる。阿形のほうは明治2年(1869年)に廃寺となった際に、川内川(せんだいがわ)に捨てられたという。

 

境内はなかなかの広さ。背の高い木が多い。夕方に立ち寄ったので、こんな感じの写りになった。

神社の境内

境内に西日が差す

 

緑の中に朱色の社殿が映える。

朱色の社殿

拝殿前

 

拝殿の横には島津義弘の木像がある。本殿修復事業の完工を記念して2022年4月に置かれたもの。制作者は地域おこし協力隊員でもあるチェーンソーアーティスト。

采配を振るう

島津義弘木像

 

島津義弘像の背後には「天の逆鉾」なるものも。中をのぞき込むと鉾がある。どういった由来のものかはわからなかった。

祠と標柱

天の逆鉾

 

拝殿の脇には末社が並ぶ。四所宮・竹内宮・早風宮・雨宮がある。

摂社が並ぶ

左奥が四所宮、右手前から雨宮・早風宮・竹内宮

 

四所宮には彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)・鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)・玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を御祭神とする。武内宮は竹内宿祢(タケノウチノスクネ)を祭る。早風宮と雨宮については御祭神不詳。

ちなみに鹿児島神宮(大隅正八幡宮)では、早風神社に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、雨之社に豊玉彦命(トヨタマヒコノミコト)を祭っている。勝栗神社でも、これと同様である可能性も。

 


参道脇には石祠が2基ある。写真手前の大きいほうが水天宮、奥が水神である。ともに自然石の御神体が置かれている。紀年銘によると水天宮は享保3年(1718年)、水神は寛文9年(1669年)に石祠が奉納されたとのこと。

石祠が2基

水天宮と水神

 

拝殿の背後に社叢がある。こちらも散策可能だ。ここには稲荷大明神も鎮座する。

石碑型の稲荷神社

稲荷大明神

 

社叢には巨木が多い。大きなクスもあった。

巨木が枝を広げる

社叢の大クス

 

 

島津義弘の出陣式

天正20年(1592年)2月27日(旧暦)に、島津義弘と島津久保(ひさやす、義弘の次男)は朝鮮渡海を前に正若宮八幡社で御首途の儀式(出陣式)を行ったという。この日は大雪であった。

野も山もみな白旗となりにけり
今宵の宿は勝栗の里

と島津義弘は詠んだという。境内には歌碑もある。

野も山も皆白旗となりにけり今宵の宿は勝栗の里

歌碑

 

文化9年(1812年)に白尾国柱(しらおくにはしら)が著した『倭文麻環(しずのおだまき)』では、歌がちょっと違っている。

野も山も皆白たへに成りにけり
こよひの宿はかち栗野里

 

「白旗」「白たへ(白い布)」はともに雪にかけたものである。そして、源氏の白旗にもかけているとか、あるいは神功皇后の三韓征伐になぞらえたものだとか、そんな解釈もできる。雪景色を勝利を連想させる縁起の良いものだととらえたのだ。また、「勝栗」は出陣式で食べる縁起物である。『倭文麻環』にある「かち栗野里」という漢字の使い方もおもしろい。

 

出陣式では「栗野磨欲踊(くりのとぎほしおどり)」を奉納して戦勝を祈願した。踊りの様子については『倭文麻環』に絵図がある。

踊りの絵図

『倭文麻環』巻之九より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

境内には「栗野磨欲踊」の様子を描いた大型絵馬も。こちらは2019年の奉納されたもの。

絵馬に島津義弘が描かれている

「栗野磨欲踊」の大型絵馬

 

「栗野磨欲踊」は毎年7月4日に奉納されるようになった。ちなみに、この日は島津久四郎(島津義弘の五男)の命日でもある。島津久四郎は、朝鮮出陣のすこし前の文禄4年(1991年)7月4日(旧暦)に早世している。

踊りの奉納は1945年を最後に途絶えていたが、2016年に復活した。

 

 

 

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 発行/山本盛秀 1905年

『旧記雑録拾遺 地誌備考五』
編/鹿児島県史料センター黎明館 発行/鹿児島県 2018年

『倭文麻環』
著/白尾国柱 編/山本盛秀 1908年

ほか