ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

栗野の松尾城跡にのぼってみた、島津義弘の居城

 

松尾城(まつおじょう)跡は鹿児島県姶良郡湧水町栗野にある。別名に栗野城(くりのじょう)とも。天正18年(1590年)から文禄4年(1595年)にかけて、島津義弘(しまづよしひろ)が居城とした。

鹿児島の城跡

本丸跡

城域は運動公園として開発されているが、曲輪や堀などの痕跡があちこちにある。そして、本丸と二の丸は往時の姿をよく残している。


野面積みの石垣

国道268号に「松尾城跡地」の看板があるので、そこの信号のところを入る。ちょっと行くと「城山運動公園」の看板があり、そこを曲がって登っていく。また、「城山運動公園」が見えるので山に入っていく。

城山公園に入るとすぐに駐車場がある。ここからは城門らしきものが見える。そちらが本丸・二の丸方面だ。

城門は「南御門」というそうで、新しいものである。門の近くには城についての説明看板もある。南御門をくぐるとすぐに本丸。本丸下には野面積みの石垣も確認できる。また、本丸手前には桝形もある。

鹿児島の城跡

南御門と桝形

鹿児島の城跡

本丸下の石垣

 

本丸への石段を登っていく。虎口にも野面積みの石垣がしっかりと残っている。このような見事な石垣は、南九州の山城ではなかなか見ない。

鹿児島の城跡

本丸へ登っていく

鹿児島の城跡

虎口の石垣

 

松尾城は、島津義弘が居城を移す際に改修された。『栗野町郷土誌』では「甲州流による縄張り」とし、築城には太田武篇之助(おおたぶへのすけ)なる人物が関わっているという。

太田武篇之助は『栗野由来記』(古文書、『栗野町郷土誌』にも収録されている)に、島津義弘配下のひとりとして名が記される。太田道灌(おおたどうかん)の子孫で、武田信玄に仕えていたという。武田家滅亡後に南九州まで流れてきて、大隅国囎唹郡(現在の鹿児島県霧島市曽於市のあたり)に住んでいたところを島津家に召し抱えられたんだとか。

本丸の面積は『栗野由来記』によると2反余(2000㎡ちょっと)。ただ、実測は1142㎡とやや小さく、一部は崩れているようだ。地面を見ると建物の礎石も残っている。曲輪の周囲には灌木があり、これは島津義弘が目隠しのために植えたものだと伝わる。

鹿児島の城跡

本丸、写真手前に礎石も

鹿児島の城跡

本丸からの眺め、手前に灌木

 

本丸を下りて、二の丸へ向かう。しばらく行くと虎口があるので登る。こちらはちょっと草が伸びている。『栗野由来記』による広さは5反余(5000㎡ちょっと)。ただし、実測は1630㎡とのこと。本丸と二の丸はそれぞれ「男城」「女城」とも呼ばれていたそうで、二の丸には島津義弘の妻(宰相殿、広瀬夫人)の住まいがあったとも。かつては本丸と二の丸は橋でつながっていたという。

鹿児島の城跡

二の丸の虎口

 

鹿児島の城跡

二の丸

本丸と二の丸の間には深く掘り込んだ空堀もある。空堀に沿って下りていけそうな感じもする。本丸・二の丸の横には弓道場があるが、縄張り図を見るとここは「代官城」という曲輪のようだ。

鹿児島の城跡

本丸と二の丸の間の空堀


もうちょっと歩いてみる

南御門のほうへ戻る。桝形を挟んで本丸の向かい側の曲輪は遊具のある公園になっている。縄張り図には「研屋敷」「外曲輪」とある。

鹿児島の城跡

研屋敷には遊具

 

公園の入口方面へ。来る際に登ってきた道路は空堀づたいに敷かれている。

鹿児島の城跡

運動公園入口

 

運動公園のほうに行く。運動公園の入口と出口の道はともに一方通行で、こちらは出口方面の道路。縄張り図によると「代官所堀」。

鹿児島の城跡

代官所

 

運動場の方へ行ってみる。入り口付近の曲輪は「御厩城」。

鹿児島の城跡

ここが御厩城跡か

 

こちらのグラウンドは「調練場」跡地を整備。グランド近くに見える山が「八幡が城」かな、と。

鹿児島の城跡

手前が調練場跡、奥が八幡が城と思われる

 


栗野城の歴史

栗野は大隅国桑原郡のうちにあり、かつては栗野院と呼ばれた。古くは日下部氏(くさかべ、日向国の古族)や酒井氏(さかい、大隅八幡宮の社家に名がある)がこの地を支配していた。

日下部氏は日向国真幸院(まさきいん、現在の宮崎県えびの市・小林市のあたり)の郡司(院司)であったが、南北朝争乱期の初め頃に没落。これにかわって、北原(きたはら)氏が康永4年(1345年)頃に真幸院郡司として飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市飯野)に入る。のちに栗野院も北原氏が支配するようになった。

松尾城の築城時期についてはよくわかっていない。ただ、北原氏が使っていたことは確かなようだ。

 

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北原氏は伴姓。大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点に大きな勢力を持っていた肝付(きもつき)氏の庶流である。もともとは大隅国串良院(くしらいん、鹿児島県鹿屋市串良)の領主で、名乗りは北原(木田原)という場所に城を築いたこと(北原城)に由来するという。

 

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真幸院に移った北原氏は一大勢力を築く。15世紀中頃から16世紀中頃にかけての戦国期は、周囲の勢力としのぎを削る。守護家の島津氏、日向国(宮崎県)に勢力持つ伊東氏、肥後国球磨郡熊本県人吉市のあたり)の相良(さがら)氏、島津氏庶流の豊州家(ほうしゅうけ)・伊作(いざく)氏・北郷(ほんごう)氏・新納(にいろ)氏らと手を組んだり争ったりしながら勢力を保った。

 

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天文23年(1554年)~弘治3年(1557年)の大隅合戦では、西大隅(現在の鹿児島県姶良市のあたり)を攻めた島津貴久(しまづたかひさ、島津氏15代)と敵対。北原兼守(きたはらかねもり、北原氏13代)は兵を出し、蒲生範清(かもうのりきよ)・祁答院良重(けどういんよししげ)らとともに戦っている。

 

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永禄元年(1558年)に北原兼守が病没すると、北原氏には後継問題がおこる。そこに伊東氏が介入し、北原氏は所領を奪われてしまった。北原氏家臣は、相良氏を頼って逃がれていた北原兼親(かねちか)を担いで再興を図る。北原氏は相良義陽(さがらよしひ)や北郷時久(ほんごうときひさ)の援兵とともに伊東氏を攻撃し、永禄5年(1562年)に旧領を奪還した。しかし、翌年には相良氏が裏切り、伊東氏とともに北原氏を攻撃するようになる。北原兼親では守り抜くことはできないと見た島津貴久は真幸院を直轄地とする。北原兼親には薩摩国伊集院(鹿児島県日置市伊集院)に30町の領地を与えて移住させた。島津氏が真幸院を取ることになった。

真幸院をはじめとする北原氏旧領には島津義弘(しまづよしひろ、島津貴久の次男)が入った。このあたりは国境の地であり、伊東氏・相良氏に対する抑えとして起用されたのだ。島津義弘は永禄7年(1564年)から文禄4年(1595年)までこの地を治めることになる。

元亀3年(1572年)、伊東氏は約3000の兵で真幸院の加久藤城(かくとうじょう)を攻撃。飯野城にあった島津義弘の軍勢はわずかに300ほどだったという。しかし、島津勢は敵軍を木崎原に誘い出し、大きな兵数差をひっくり返して破る。この木崎原の戦いを機に、島津氏と伊東氏のパワーバランスは崩れた。伊東氏は勢いを失い、島津氏が圧倒していく。

大隅国筒羽野(鹿児島県湧水町吉松)に内小野寺という寺院があった。島津義弘は戦いのたびに内小野寺住持の愛甲(あいこう)氏に戦勝祈願の祈祷をさせていた。木崎原での勝利を喜んだ島津義弘は、愛甲氏に褒美を与えている。内小野寺は明治の初めに廃寺となり、現在は熊野神社が鎮座している。

鹿児島の神社

内小野寺跡(熊野神社

 

島津氏は九州制圧目前まで勢力を広げるも、豊臣政権の大軍が押し寄せる。天正15年(1587年)に降伏した。豊臣家より真幸院は島津久保(ひさやす、島津義弘の子)に与えられ、島津義弘には大隅国が安堵された。これを受けて島津義弘は飯野城を島津久保に譲り、自身は栗野の松尾城に移ることとなったのだ。

文禄の役(1592年~1593年)の際には、島津義弘松尾城に在番。栗野で募兵して出陣した。勝栗神社(かちくりじんじゃ)で戦勝祈願を行ったあと、肥前国名護屋佐賀県唐津市)に至り、朝鮮半島へと渡った。

鹿児島の城跡

勝栗神社

 

文禄4年(1595年)に島津義弘は居城を栗野から帖佐(ちょうさ、姶良市鍋倉)に移した。その後、慶長20年(1615年)に幕府から一国一城令が出され、松尾城も廃城となった。

 


<参考資料>
栗野町郷土誌』
編/栗野町郷土誌再版委員会 発行/栗野町長 米満重満 1995年

『吉松郷土誌(改訂版)』
編/吉松郷土史編集委員会 発行/吉松町 1995年

『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか