ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

飯野城跡にのぼってみた、島津義弘が守った日向の前線基地

戦国時代の島津氏でもっとも知名度が高い人物は島津義弘(しまづよしひろ)だろう。それで、「薩摩の島津義弘」と説明されることも多く、一般的にもそんなイメージだと思われる。だが、島津義弘は薩摩国で城主になったことがない。居城は日向国や大隅国にあった。その中で代表的なものが、日向国真幸院(まさきいん)の飯野城(いいのじょう)である。

河川敷と山城跡

飯野城跡を川内川河畔から見る

 

島津義弘は永禄7年~天正18年(1564年~1590年)に飯野城を拠点とした。壮年期の26年間(29歳~55歳)にあたり、この間に島津氏は南九州から勢力を急拡大させ、豊臣秀吉とも戦った。

飯野城跡は宮崎県えびの市原田にある。別名に「亀城(きじょう)」「亀ヶ城」「鶴亀城」とも。えびの市役所飯野出張所の北に位置し、そこから川内川(せんだいがわ)をはさんで対岸に見える。城域は東西390m、南北300m。遊歩道が整備されて一部は散策できるようになっている。

 

 

 

 

 

島津と伊東がぶつかるところ

真幸院は加久藤カルデラに由来する盆地で、肥沃な大地が広がっている。川内川が流れ、霧島山系の湧水があり、水も豊富だ。米が育つ条件が揃っている。「飯野」という地名もそのことを物語っている。『三国名勝図会』(薩摩藩が19世紀に編纂した地理誌)にはつぎのように書かれている。

真幸院の土地は腴田(ゆでん)にして、所産の粳米(うるちまい)最上品とす、故に邦君の糧には、特に真幸院の所産を用ゆ。(『三国名勝図会』巻之五十三より)

「邦君の糧」とは藩主の食べる米である。

 

また、ここは日向国の南西端に位置する。薩摩国・大隅国・肥後国と国境を接する。肥沃な土地であり、軍事的要衝でもあった。

戦国時代後期になると薩摩国から勢力を広げてきた島津貴久(たかひさ、島津氏15代当主、島津義弘の父)と、日向国に大勢力を持つ伊東義祐(いとうよしすけ)が、この地の領有をめぐって争うのである。

永禄5年(1562年)に島津貴久が真幸院の飯野・加久藤(かくとう)・吉田(よしだ)・馬関田(まんがた)を支配下に置く。その範囲は、現在のえびの市にあたる。

一方、伊東義祐は真幸院のうちの三山(みつやま、さんのやま、宮崎県小林市)を押さえていて、こちらから真幸院の奪取を狙っていた。また、真幸院の北西は肥後国球磨(熊本県人吉市のあたり)に通じる。ここの領主である相良義陽(さがらよしひ)も伊東氏と連携して攻めてくる。

永禄7年(1564年)、島津貴久は次男の島津忠平(ただひら、島津義弘と名乗るのは1587年以降)を飯野城の城主として守らせる。

 

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そして、元亀3年5月(1572年6月)に真幸院の木崎原(きざきばる、えびの市池島町)で伊東と島津がぶつかる。「木崎原の戦い」である。

島津忠平(島津義弘)の兵力は飯野城に300ほど。加久藤城(かくとうじょう、えびの市小田)に50ほど。これに対して伊東方の兵力は3000余。伊東軍は加久藤城の夜襲に失敗して木崎原に軍を動かす。そこへ、島津忠平(島津義弘)が攻めかかり、大激戦となった。島津軍は伏兵も使いながら、寡兵ながらも敵軍を壊滅させる。伊東方は大将の伊東祐安(すけやす)・伊東祐信をはじめ、多くの有力武将が討ち死にした。

この大敗で、伊東氏は没落へと向かうのである。島津氏は勢いに乗じて攻める。天正5年(1577年)に日向国を制圧した。

 

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飯野城跡を歩いてみる

国道221号から「飯野中学校入口」交差点を北へ折れ、川内川にかかる橋をわたる。川沿いの細い道を行くと冠木門が見える。ここが飯野城跡の大手門とのこと。

門のある山道

冠木門をくぐって登城

 

車で門をくぐって登っていく。こちらの道も城跡の形状が感じられる。しばらく行くと、ちょっと広い空間がある。「弓場」と呼ばれる曲輪だ。さらに登ると駐車場に到着。ここも曲輪で、「射場」跡とのこと。

山中の曲輪跡

弓場跡

山中に整備された広場

駐車場は射場跡、写真奥は二ノ丸

 

 

駐車場の広場を基点に散策する。本丸方面はよく整備されていてこっちへと歩いていく。二ノ丸や三ノ丸へのルートもあるようだが、草が伸びていてよくわからない。加久藤城方面に抜ける通路もあるっぽいけど、こちらも行けそうな感じはしない。無理はせず。

山城跡の登山道

こっちを登ると本丸

案内板の向こうは薮

こちらから加久藤城へ行けるらしい、写真右奥が三ノ丸

掘り込んだ山道

本丸への遊歩道、山城らしい雰囲気



 

 

しばらく登ると本丸跡に到着。入口のあたりは虎口のような形状になっていた。城址碑には「亀城址」と刻字されている。

曲輪跡に石碑

城址碑

山城跡の広場

本丸跡は三角形になっている

掘り込んだ地形

本丸曲輪の縁のあたり

 

本丸跡の近くには桝形跡もある。ここはなかなかの広さがある。桝形から階段を登ると物見曲輪。眼下に川内川と市街地が広がる。遠くには霧島連山も見える。

山城跡の広場

桝形跡、なかなか広い

階段を登っていく

桝形から物見曲輪へ

高台からの展望

物見曲輪には東屋もある、眺めよし

えびの市街地を一望

物見曲輪からの眺め

 

駐車場へ下りて、散策は終了。本丸まわりが「亀城公園」として整備されている。本丸周辺だけならそれほど距離もなく気軽に回れる感じだ。それでいて、城跡の雰囲気も味わえた。

 

 

飯野のイチョウ

飯野城の麓にイチョウの巨木がある。えびの市役所飯野出張所の敷地内で見ることができる。樹齢は400年以上。島津義弘の長男は鶴寿丸(つるひさまる)という。幼くして天正4年(1576年)に病没している。このイチョウは、島津義弘が鶴寿丸の供養のために植えられたものと伝わる。

訪れたのは2021年10月のこと。まだ、葉は緑色だった。

銀杏の巨木

飯野のイチョウ

 

ちなみに、えびの市役所飯野出張所は、江戸時代には地頭仮屋(じとうかりや、御仮屋、地方の政治拠点)があった場所でもある。

島津義弘は天正年間に鶴寿丸の菩提寺として幻生寺を建立。その場所(明治の初めに廃寺)はイチョウの木のある場所から、やや北のあたりになる。また、加久藤城の麓には鶴寿丸の墓もある。

 

 

 

飯野の歴史

真幸院は日向国の諸県郡(もろかたのこおり、もろかたぐん)のうちにある。諸県郡というのは、もともとは諸県君(もろかたのきみ)一族が支配していた場所だというも考えられている。『古事記』『日本書紀』には諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)という人物が登場し、その娘の髪長媛(かみながひめ)が仁徳天皇の妃になったとされる。

古くは日下部(くさかべ)氏が真幸院の郡司(院司)を世襲してていた。日下部氏は隼人族とも関連がある氏族ともされる。もしかしたたら、諸県君一族とも何らかの関係があるのかも?

11世紀に南九州に発生した島津荘(しまづのしょう)は、寄進を集めて巨大化していく。真幸院も島津荘の寄郡(よせこおり、国と荘園が半々に支配する土地)となっていた。12世紀末になって、惟宗忠久(これむねのただひさ、島津忠久、島津氏の祖)が鎌倉の幕府より島津荘の惣地頭に任じられる。その頃の真幸院郡司(院司)は日下部重兼だったという。

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飯野城は永暦元年(1160年)に日下部重貞が築城したとされる。なお、この情報は『えびの市城館跡』(編/宮崎県えびの市教育委員会)によるものだが、どの史料からの出典なのかはわからない。

日下部氏は南北朝争乱期に没落する。日向国は幕府から派遣された畠山直顕(はたけやまただあき、足利氏の一族)が勢力を保ち、南朝方についた肝付兼重(きもつきかねしげ)や楡井頼仲(にれいよりなか)と争っていた。そんな状況下で、日下部氏がどう立ち回ったのかはよくわからない。

 

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康永4年(1345年)頃に北原兼幸(きたはらかねゆき)が日下部氏に代わって飯野に入り、真幸院の領主となった。これ以降、200年以上にわたって北原氏は真幸院を支配した。

ちなみに、北原氏は肝付氏庶流。肝付氏は大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点とし、その一族で串良(くしら、鹿児島県鹿屋市串良)の北原城を任されたのが北原氏であった。

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15世紀になると、日向国南部では島津氏と伊東氏が勢力争いを展開するようになる。その中にあって北原氏は伊東方についたり島津方についたり、肥後の相良氏とも争ったり協調したり……。そして、16世紀になっても強い力を保っていた。

永禄元年(1558年)に当主の北原兼守(かねもり)が病没したことから、北原氏に後継者が不在となる。北原兼守には娘があり、一族の北原民部少輔(兼守の叔父の北原兼孝か)に嫁がせて家督を継がせることとした。しかし、その娘も間もなく亡くなってしまう。

そこに伊東義祐が介入。北原兼守の妻は伊東義祐の娘であった。伊東義祐は未亡人となった娘を、北原一族の馬関田右衛門佐に再嫁させてこちらを当主に立てる。そして、北原氏を乗っ取るのである。

北原氏家臣は島津貴久を頼る。そして、相良氏のもとに身を寄せていた北原兼親(かねちか)を担ぎ出すことになった。北原兼親はかつて内訌で出奔した北原茂兼の孫である。相良義陽も島津氏の要請に乗る。島津・相良連合軍は伊東氏から北原氏領を奪い返した。北原兼親が当主となり、飯野城に入った。

しかし、伊東氏は真幸院の三山を押さえ、ここを拠点になおも侵攻を重ねる。さらには、相良氏が島津氏を裏切り、伊東方についてしまう。島津貴久は北原兼親ではこの地を守れないと判断して、真幸院一帯を直轄地とする。そして、島津義弘を飯野城に入れたのである。このあとの動きについては、前述のとおりである。

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島津氏は九州のほとんどを制圧するが、豊臣秀吉が九州征討に動く。大軍で攻められて、天正15年(1587年)に屈する。真幸院は島津久保(ひさやす)に安堵された。島津久保は、島津義弘の次男。次期当主に指名されていたが、文禄2年(1593年)に出征先の挑戦で病没した。

天正18年(1590年)、島津義弘は居城を大隅国栗野院の松尾城(まつおじょう、栗野城、鹿児島県湧水町栗野)に移した。

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その後の飯野は地頭に任された。飯野地頭は有川貞真(ありかわさだざね)やその息子の伊勢貞之(さだゆき、有川貞之、伊勢貞成)、伊集院久信(いじゅういんひさのぶ、伊集院久春、ひさはる)らが任じられている。

ちなみに、この3人は島津義弘の家老でもある。有川貞真は木崎原の戦いの際に出撃せずに飯野城を守った。

 

木崎原古戦場跡、加久藤城跡の記事もあわせてどうぞ。

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『えびの市の城館跡』
編・発行/宮崎県えびの市教育委員会 2008年

『西諸縣郡誌』
発行/宮崎縣教育會西諸縣郡支會 1933年

ほか