鹿児島県南九州市知覧にある知覧城(ちらんじょう)跡を訪問。シラス丘陵に築かれた山城で、浸食谷の多い地形をいかした堅固なつくりとなっている。城域は約41haと広大で、中世の山城の痕跡をよく残す。国の史跡にも指定されている。
築城年代は不明。築城者は12世紀末頃からこの地の領主であった知覧氏だと考えられている。その後、14世紀中頃から江戸時代末まで島津氏庶流の佐多氏(知覧島津家)が知覧の領主であった。
天険の要塞
まずは、知覧城の麓にある郷土歴史資料館「ミュージアム知覧」に向かった。事前にいろいろ調べたら、ここに寄ってからいくのオススメみたいだったので。
ミュージアムには知覧城のジオラマもあり、こちらで城の全体像を頭に入れる。ガイドマップや資料もあるのでもらっていく。学芸員さんにたずねると、知覧城の情報をいろいろ教えてもらえた。行き方も案内してもらい、その後、迷わずに城跡入口までたどりつけた。
知覧城は主郭に本丸・蔵之城(くらのじょう)・今城(いまじょう)・弓場城(ゆんばじょう)があり、それらを取り囲むように東ノ栫・西ノ栫・南ノ栫・式部殿城・児城・道無城・蔵屋敷・伊豆殿屋敷などの曲輪が配置されている。主郭群のある中央部まで攻め込むのは、いかにもタイヘンそうだ。
現在は、よく整備された道路が主郭群(本丸・蔵之城・今城・弓場城)の近くを通る。駐車場もある。ここに車を停めて、知覧城へ踏み入ってみる。
散策路の入口を入る。まずは本丸と東ノ栫の間の空堀を抜けていく。本丸や蔵之城への登り口は駐車場の裏手に位置し、本丸外周の空堀をぐるりと回り込むようにして行く。空堀は規模が大きく、高さもある。迫力あり! ワァァっと攻め込んできた侵入者は、頭上の曲輪から一方的に攻撃を受けることになるのである。
しばらく進むと、「主郭部入口」の案内板。ここをまっすぐ行くと本丸・蔵之城・今城・弓場城の登り口がある。本丸・蔵之城についてはこの看板に向かって右の通路を登っていったほうが近い。まずは、こちらから攻めてみる。
本丸と蔵之城
しばらく歩くとけっこう広めの空間がある。本丸と蔵之城の間は桝形になっていた。敵兵はここに滞り、頭上からの攻撃にさらされるというわけだ。
まずは本丸を登る。知覧城の主郭はいずれも桝形虎口で、L字型になった通路の形がよく残っている。『知覧町郷土誌』よると、広さは開口30余間(約55m)、奥行き30余間とのこと。曲輪の縁辺には立派な土塁もあった。
続いては蔵之城へ。登り口にはガイドマップも置いてあるので、持っていくべし。曲輪の広さは開口17間(約31m)、奥行き13間(約24m)。ここには倉庫があった。炉跡なども見つかっていることから、炊事場としても使われたと推測される。
2001年から2004年にかけて発掘調査も行われており、青磁・白磁・絵付け皿・椀・甕・茶入れ・硯・碁石・かんざし・鉄釘・洪武通宝(明の銅銭)などが出てきたという。中国や東南アジアのものもあり、交易が盛んだったことがうかがえる。金銅製の十一面観音菩薩立像も出土している。また、建物の柱跡も見つかっていて、建物のサイズは4間(約7.5m)四方であった。蔵之城には12本の竪穴もあった。用途は不明。竪穴は本丸にもある。
弓場城と今城
いったん来た道を戻って前述の分岐へ。今城・弓場城のほうへ向かう。空堀にそってちょっと行くと、曲輪への登り口がある。ちょっと上がれば分かれ道。
まずは弓場城へ。こちらも桝形虎口の痕跡が見られる。縄張り図によると、曲輪の広さは蔵之城と同程度の広さのようだ。
続いて今城へ。斜面に沿って登っていく。こちらからは下にも視界が抜ける。空堀の高さをよく感じられる。虎口を抜けて曲輪の上へ。けっこう広く、面積は本丸と同程度。
今城を下りる。登り口のあるところから、さらに奥へ道がのびている。こちらからも本丸・蔵之城へ行くことができる。
駐車場へ戻る。所要時間は50分ほどだった。山城の周りをもうちょっと歩けばまだ発見がありそうな感じもする。
やや離れた場所に、支城の亀甲城もある。
郡司の知覧氏と、地頭の知覧氏と
知覧は薩摩国河辺郡のうちにあり、もともとは川上郷と呼ばれていた。徴税のための倉院が設けられ、この一帯を知覧院(ちらんいん)といった。知覧院はやがて行政単位として扱われるようになり、知覧院郡司(知覧院院司)が置かれた。
12世紀初め頃、薩摩半島南部に所領を得て伊作良道(いさよしみち? いざくよしみち?)が下向したという。その勢力範囲は広大で、現在の南さつま市・南九州市・鹿児島市・指宿市・枕崎市の一帯におよんだ。伊作良道は大宰府に関連のあった鎮西平氏の一族とされる。伊作良道を祖とする一族を「河邉一族(かわなべいちぞく)」とか「薩摩平氏(さつまへいし)」とか言ったりする。
伊作良道は分割して郡司職を相続し、息子たちは所領にちなんだ名乗りをするようになった。河邊(かわなべ)氏・給黎(きいれ)氏・頴娃(えい)氏・阿多(あた)氏・別府(べっぷ)氏・鹿児島(かごしま)氏など。
伊作良道の三男である頴娃忠永には4人の息子の名が伝わっており、その三男の忠信が知覧院郡司となって知覧氏を称した。
建久8年(1197年)に島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)が作成させた『薩摩国図田帳』によると、知覧院の領主として「地頭右衛門兵衛尉(島津忠久)」「公領郡司忠答」「府領下司忠答」の名がある。郡司・下司の「忠答」というのは、平姓の知覧忠答(知覧忠益とも、知覧忠信の子)である。
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鎌倉幕府は地方統治のために守護と地頭を任命した。守護職・地頭職(=所領)は鎌倉御家人に恩賞として与えらるものでもある。惟宗忠久(島津忠久)は薩摩国守護に補任され、島津荘(しまづのしょう)を中心に広大な土地の地頭にも任命された。島津氏のほかにも、鮫島氏・二階堂氏・千葉氏・渋谷氏なども幕府より薩摩に任地を得ている。
その一方で、郡司をはじめとする在来勢力も健在であった。地頭系領主と郡司系領主が併存し、両者の間では土地をめぐる争いも多かった。知覧においては郡司の知覧氏(薩摩平氏)が支配していたが、同時に地頭の島津氏も支配者である。島津氏は一族の者を知覧につかわし、こちらものちに知覧氏を名乗った。
地頭の知覧氏としては、文保元年(1317年)の『薩摩国御家人交名注文』に「大隅式部又三郎」の名がある。これが島津氏庶流の知覧忠直だとされている。この人物は越前国守護代の島津忠綱(ただつな、島津忠久の次男)の後裔とされる。島津忠綱の子の忠景が知覧院の地頭を譲り受け、さらに忠宗(忠景の子、本家当主の島津忠宗とは別人)が知覧氏を称するようになったのだという。
14世紀になって鎌倉幕府が滅亡し、南北朝争乱期に突入すると、郡司の知覧忠世は南朝方についた。島津氏が主導する薩摩の北朝方勢力と戦う。建武4年・延元2年(1337年)の薩摩国伊作荘(鹿児島県日置市吹上)での戦い、大隅国の橘木城(霧島市国分重久)への攻撃、康永元年・興国3年(1342年)の谷山(鹿児島市谷山)の戦いなどで活躍した。
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南北朝争乱期に知覧氏(平姓)は忠世・忠元・忠泰の3代の名が確認できる。ただ、建徳元年(1370年)を最後に知覧氏(平姓)の記録は出てこなくなる。没落したようである。
地頭の知覧氏(島津氏庶流)については、知覧久直が守護の島津貞久(しまづさだひさ、島津氏5代当主)に従って転戦している。その後も知覧氏(島津氏庶流)は知覧院にあったようだが詳細はわからず。15世紀末頃には島津氏豊州家に仕え、日向国梅北の地頭になったともされる。
佐多氏が領主に
文和2年・正平8年(1353年)に足利義詮(あしかがよしあきら)より下文があり、佐多忠光(さたただみつ)に知覧院が与えられた。当時はまだ知覧氏(平姓)はこの地を支配していたが、次第に佐多氏が知覧領主として存在感を持つようになっていく。
佐多忠光は島津忠宗(しまづただむね、島津氏4代)の三男。佐多氏の名乗りは、大隅国の佐多(さた、肝属郡南大隅町佐多)に所領を与えられたことから。もともとは佐多を拠点とし、のちに知覧に拠点を移す。
南北朝の争乱では、佐多忠光は兄の島津貞久に従って戦功を上げた。暦応4年・興国2年(1341年)には薩摩国鹿児島郡の東福寺城(とうふくじじょう、場所は鹿児島市清水町)攻めを任され、これを陥落させている。また、佐多忠直(ただなお、佐多氏2代)は延文4年・正平14年(1359年)に大隅国国合原(くにあいばる、鹿児島県曽於市末吉)の合戦に参加。激戦の中で戦死している。
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島津宗家は奥州家と総州家に分裂し、15世紀初頭から争うようになる。佐多氏は奥州家に従って家中で重きをなした。
島津氏久(うじひさ、6代当主、奥州家初代)の正室は伊集院氏(いじゅういん、島津氏庶流)の出身で、継室は佐多忠光の娘だった。7代・島津元久(もとひさ)は正室の子で、8代・島津久豊(ひさとよ)は継室の子である。
島津元久が当主となると、伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)が家中で大きな力を持つようになった。伊集院頼久は島津元久の従兄弟にあたり、さらに元久の妹を妻としていた。一方、佐多親久(ちかひさ、佐多氏4代)は、日向方面を任されていた島津久豊に仕えていた。
応永18年(1411年)に島津元久が急逝する。伊集院頼久は自身の嫡男の初犬千代丸(伊集院煕久、ひろひさ)を元久の後嗣にしようと動く。佐多忠親は群臣らと協議して、このことを日向国穆佐院(むかさいん、宮崎市高岡町)にあった島津久豊に伝えた。島津久豊は鹿児島に急いで駆けつけ、伊集院頼久の計画を阻止。みずから家督をついだ。
強引に当主となった島津久豊に対して反発する者も多く、各地で反乱が起こる。島津久豊は戦いに奔走することになる。そんな中で伊集院頼久は反抗勢力の盟主的な存在となった。応永20年(1413年)には鹿児島の清水城を急襲。島津久豊が遠征で留守にした隙を衝き、城を攻め取った。このとき鹿児島にあった佐多親久は群臣らとともに東福寺城(とうふくじじょう、清水城のやや東にある)に入って防戦。島津久豊の鹿児島奪還に貢献する。
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伊集院頼久は薩摩南部に勢力を広げ、佐多氏の所領である知覧院も横領されていた。知覧城(上木場城とも呼ばれていた)は伊集院一族の今給黎久俊(いまきいれひさとし)が支配していた。応永24年(1417年)に伊集院頼久は降伏。同年に島津久豊は知覧城も攻撃したが落ちなかった。
その後、応永27年(1420年)に今給黎久俊が降伏。島津久豊は知覧城を取ると、これを佐多親久に改めて与えた。知覧城には佐多氏配下の城代が入り、佐多親久は鹿児島に居住して島津久豊を支えた。佐多氏は5代・佐多忠遊の頃に佐多の領地を手放すことになり、以降は知覧を本領とした。
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15世紀後半は南九州は大乱の時代となる。島津氏には薩州家(さっしゅうけ)・豊州家(ほうしゅうけ)・相州家(そうしゅうけ)・伊作家(いざくけ)など分家が多い。ほかに新納(にいろ)氏・北郷(ほんごう)氏・佐多(さた)氏・樺山(かばやま)氏なども島津一族である。これらが島津宗家に反抗し、互いに勢力争いをするようになった。佐多氏ははじめ島津宗家に従っていたが、伊作久逸(いざくひさゆき)の反乱に加担するなどしている。
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大乱が続く中で、とくに大きな力を持つようになったのが薩州家であった。そして、相州家を相続した島津忠良(ただよし、伊作久逸の孫)も台頭する。佐多忠成(佐多氏8代)は相州家・島津運久(ゆきひさ、島津忠良の養父)の娘を妻としており、島津忠良を支援した。また、島津忠将(しまづただまさ、忠良の次男)は佐多忠成の娘を娶っている。
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島津忠良は自分の子を宗家の養子に送り込み、本家家督と守護職をつがせた。15代当主の島津貴久(たかひさ)である。忠良・貴久は反発する薩州家との抗争を制して、島津氏の覇権を握った。
島津氏は戦国大名として力をつけ、薩摩・大隅・日向を制圧。さらに九州北部まで勢力を広げていった。佐多氏は島津義久(よしひさ、16代当主、貴久の長男)や島津義弘(よしひろ、貴久の次男)に従って転戦した。
佐多氏は領地替えで知覧を離れた時期もあったが、のちに復帰。幕末まで知覧の領主であった。江戸時代になって佐多氏の嫡流は断絶するが、養子を迎えて家名を保った。佐多氏16代の佐多久達(島津久達)は島津光久(みつひさ、19代当主、2代藩主)の子で、本家から養子入り。のちに島津姓に復すことを許され、「知覧島津氏」とも呼ばれる。
島津久達や島津久峯(ひさみね、知覧家18代当主、藩主の島津継豊の子が養子入り)が国老を務めるなど、知覧島津氏は藩政を支えた。
国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている知覧武家屋敷群は、島津久峯の時代(18世紀中頃)の様子を今に伝えている。
<参考資料>
『知覧町郷土誌』
編/知覧町郷土誌編さん委員会 発行/知覧町 1982年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年
『山田聖栄自記』
編/鹿児島県立図書館 1967年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
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