ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(4) 観応の擾乱の波紋

足利尊氏(あしかがたかうじ)が擁立する京の持明院統(じみょういんとう、北朝)と、吉野山(現在の奈良県吉野町)に朝廷を構えた大覚寺統(だいかくじとう、南朝)との対立を軸に、内乱は続いていく。

九州では勢力が拮抗していた。康永元年・興国3年(1342年)に征西将軍の懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、後醍醐天皇の皇子)が九州入りして以降は南朝方が勢いを増していく。

『島津国史』(19世紀初め頃に鹿児島藩(薩摩藩)が編纂した正史)の記述をもとに南九州の動きを追っていく。

4回目の今回は、貞和4年・正平3年(1348年)頃から。元号については北朝と南朝のものを併記。日付は旧暦で記す。

 

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幕府が分裂、「観応の擾乱」へ

南九州の動きに入る前に、中央政権(京周辺)の動きについてちょっと触れておく。

近畿では北朝方(幕府方)が優勢だった。南朝方(宮方)は楠木正成(くすのきまさしげ)・新田義貞(にったよしさだ)・北畠顕家(きたばたけあきいえ)といった有力武将も失い、勢いを失いつつあった。暦応2年・延元4年(1339年)に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が崩御してからは、しばらく小康状態が続いていた。

しかし、貞和3年・正平2年(1347年)に河内国の楠木正行(くすのきまさつら、楠木正成の嫡男)が挙兵したことをきっかけに状況が動く。楠木正行は寡兵で幕府の大軍を打ち破るなど奮戦し、南朝方は巻き返しをはかろうと攻勢に出た。しかし、翌年の四条畷の戦いを高師直(こうのもろなお)が率いる幕府軍が制し、楠木正行も戦死。高師直はさらに吉野にも攻め込んで、これを陥落させる。南朝方は賀名生(あのう、現在の奈良県五條市)へと逃れた。

北朝方が一気に押し切りそうな感じだったのだが、……終わらないのである。幕府内が分裂し、さらに混沌とした状況になってくのだ。

幕府では、足利直義(あしかがただよし)と高師直の対立が表面化する。足利直義は兄・尊氏から政務を任され、実質的な最高権力者である。高師直は足利家の執事で、幕府の要職にもついていた。

貞和5年・正平4年(1349年)閏6月、足利直義は高師直の執事職を解任し、政権から排除しようと動く。8月、対する高師直・高師泰(もろやす)兄弟が挙兵してクーデターを図り、直義を出家引退に追い込んだ。

9月、直義失脚を知った足利直冬(ただふゆ、尊氏の庶長子で、直義の養子)が幕府に反抗する姿勢を見せる。高師直が率いる討伐軍が備後国鞆(現在の広島県福山市)の直冬を攻めで敗走させた。直冬は九州に逃れて、こちらで勢力を拡大する。

観応元年・正平5年(1350年)10月、足利尊氏が九州にあった直冬の討伐のためにみずから出兵する。京を留守にしている間に、直義が出奔。12月に直義は南朝方に帰順し、高師直討伐の兵を挙げる。翌年1月、直義が京を攻めて奪う。さらに直義軍は、2月に遠征先から戻ってきた足利尊氏の軍と摂津国打出浜(現在の兵庫県芦屋市)で戦って、これを破った。

打出浜で敗れた尊氏は、直義に和議を申し出る。直義の求めに応じて高師直・高師泰の出家引退へ。高兄弟は護送中に殺害される。直義は北朝(幕府方)に帰参し、政務に復帰。直冬は九州探題に任命された。

今度は足利尊氏と足利直義が対立。観応2年・正平6年(1351年)7月、反乱鎮圧のために尊氏と義詮(よしあきら、尊氏の嫡男)が出兵。「自分を討つもりの行動か?」と察知した直義は京を脱出する。北陸に逃げ、さらに鎌倉へ入った。

観応2年・正平6年(1351年)10月、足利尊氏は南朝に帰順する。11月7日に北朝が廃されて、朝廷が統一される(正平一統)。尊氏は朝廷(南朝)より直義・直冬追討の綸旨を得て、鎌倉へ向けて進軍する。

正平7年(1352年)1月、鎌倉で尊氏軍が直義軍を破る。直義は幽閉され、2月に急死する。

一方、朝廷(南朝)は尊氏が京を留守にしているあいだに、足利氏勢力の排除をはかる。足利尊氏は征夷大将軍を解任され、宗良親王(むねよししんのう、後醍醐天皇の皇子)を新たに征夷大将軍に任命した。閏2月、関東で新田義興(にったよしおき、新田義貞の子)・北条時行(ほうじょうときゆき、執権・北条高時の子)が挙兵し、宗良親王を奉じて鎌倉を攻め落とす。しかし、足利尊氏はその後巻き返し、鎌倉を奪還する。同じ頃、朝廷方は京を制圧し、留守を守っていた足利義詮は近江国(現在の滋賀県)へ落ちのびた。

3月、足利方が京を奪還。さらに、男山八幡(石清水八幡宮、京都府八幡市)にたてこもる朝廷方を攻め、5月に陥落させた。後村上天皇は賀名生へ逃げた。

正平7年(1352年)9月25日、足利氏勢力は後光厳天皇を即位させ、北朝が復活する。

3年ほどの間に、目まぐるしく歴史が動いた。幕府が急に南朝に帰順したり、統一したと思ったらすぐに分裂したりと、なんとも混沌とした展開なのである。こんな状況なので、地方の有力者たちも振り回される。

  

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三つ巴の戦いへ

貞和4年・正平3年(1348年)1月12日
足利直義より薩摩守護の島津貞久(しまづさだひさ)に書が下され、畠山直顕(はたけやまただあき)とともに薩摩・大隅の南朝方を掃討するよう指示される。これは後述する楡井氏攻めについてだと思われる。四条畷の戦いの勝利と、吉野が落ちそうなことも知らされる。

畠山直顕は足利氏の一門で、九州南部の鎮定にあたる。日向国(現在の宮崎県)の守護にも任じられていた。

貞和4年・正平3年(1348年)2月9日
九州探題の一色範氏(いっしきのりうじ)より島津宗久(伊作宗久、いざくむねひさ、島津氏一門)に、南朝方の討伐が命じられる。

一色氏は足利氏の一門。ちなみに、この頃は範氏から子の一色直氏(ただうじ)に九州探題職が譲られている。

貞和4年・正平3年(1348年)8月29日
島津貞久に、南朝方・楡井頼仲(にれいよりなか)の討伐が命じられる。

楡井頼仲は日向国救仁院(くにいん、現在の鹿児島県志布志市)や大隅国鹿屋院(かのやいん、現在の鹿屋市)などに勢力を広げていた。大隅国における南朝方は肝付兼重(きもつきかねしげ、肝属郡高山の領主)が中心となって展開していたが、この頃には楡井頼仲の活躍が目立つようになっていた。

ちなみに楡井氏は、信濃国高井郡楡井(現在の長野県須坂市仁礼)を発祥とする信濃源氏であると伝わる。いつ頃、どういった経緯で南九州にやってきたのかはわかっていない。急に大隅の有力者として名が出てくるのだ。

 

貞和4年・正平3年(1348年)11月16日
島津貞久は、重久篤兼(しげひさあつかね)・野田又太郎・比志島貞範(ひしじまさだのり)らに命じて、南朝方・楡井頼仲を攻めるための兵を集めさせた。

なお、重久氏は大隅国曽於郡重久(現在の霧島市国分重久)を本拠地とする国人で、税所氏の一族である。比志島氏は薩摩国満家院比志島(みつえいんひしじま、現在の鹿児島市皆与志)の国人。

貞和5年・正平4年(1349年)1月26日
島津貞久が比志島範平(のりひら、貞範の兄)に出兵を命じる。

島津貞久の出兵命令は、実行されなかったようである。薩摩国でも南朝方に勢いがあって、大隅に出兵する余裕はなかったのかもしれない。また、島津氏は畠山直顕と対立していくことになるが、この頃からそれは始まっていたと見られる。大隅の戦いに関しても「畠山直顕には協力したくない」という意思もうかがえる。

貞和5年・正平4年(1349年)8月12日
京で高師直らが挙兵し、足利直義を失脚させる。直義派である足利直冬は兵をまとめて上洛しようとするが、高師直率いる追討軍に敗れて九州に逃れる。

貞和5年・正平4年(1349年)9月28日
高師直より島津貞久へ、足利直冬に関する命令書がもたらされる。直冬に上洛を促し、従わない場合は討伐するよう命じられた。11月23日にも同様の命令が下る。また、12月27日には島津宗久(伊作宗久)にも同様の命令書がもたらされる。

島津氏は足利直冬への対応については、なかなか動かなかったようだ。

この頃、足利直冬は九州の有力者に下文や命令書を出しまくる。独自に恩賞を与えたり、本領を安堵したり、出兵要請をしたり、と。直冬方(直義派)につくものも多く、次第に勢力を拡大していった。ちなみに直冬の官位が「左兵衛佐(さひょうえのすけ)」だったことから、直冬党を「佐殿方(すけどのがた)」と言ったりもする。

幕府方だった畠山直顕も足利直冬につく。畠山直顕は足利直義との関係も深かったようだ。名を「義顕」から「直顕」と変えていて、「直」の字は直義からの偏諱だと考えられている。

佐殿方にまわった者もいて、幕府方の島津氏陣営の戦力は薄くなった。南朝方も強勢で、島津貞久は厳しい状況であったと思われる。

観応元年・正平5年(1350年)8月18日
南朝方の伊集院忠国(いじゅういんただくに、島津氏の一族)らが薩摩国日置郡郡山(こおりやま、現在の鹿児島市郡山)に侵攻。郡山頼平(こおりやまよりひら、郡山氏は加治木氏支族で、比志島氏とは遠縁である)が守る郡山城を3日間にわたって囲んだ。

北朝方(幕府方)の小山田景範(こやまだかげのり、比志島氏の一族)・小山田尚範(なおのり、景範の子)・比志島貞範(さだのり)・比志島範家(のりいえ)・吉田清秋(郡山近隣の吉田院の領主)・猿渡信重(さるわたりのぶしげ、島津氏家臣)らの軍が救援にかけつけるも、郡山城は落城した。

川越しに見る山城跡

郡山城跡、南側麓より見る

 

観応元年・正平5年(1350年)月日不明
佐殿方の畠山直顕が島津時久(新納時久、にいろときひさ、貞久の弟)の本拠地である日向国新納院の高城(現在の宮崎県児湯郡木城町高城)を攻撃。陥落させた。このとき、時久は京にあった。高城を奪われた時久には、貞久により新たに薩摩国薩摩郡高江郷(現在の鹿児島県薩摩川内市高江町のあたり)が与えられた。

観応元年・正平5年(1350年)12月
失脚していた足利直義が南朝に帰順。高師直討伐の兵を挙げた。

観応2年・正平6年(1351年)1月~2月
足利直義の軍が京を制圧。2月に直義軍は尊氏軍と戦って勝利する。尊氏は和議を申し込み、ひとまず事態はおさまる。直義は政権に復帰し、足利直冬も幕府に帰参する。

観応2年・正平6年(1351年)3月
足利直冬が、幕府から九州探題に任命される。佐殿方だった畠山直顕も幕府に帰参。

観応2年・正平6年(1351年)3月27日
北朝方(幕府方)の畠山直顕が禰寝清成・禰寝清増・禰寝清種を率いて、南朝方の大姶良城を攻めた。この城は大隅国肝属郡大姶良(おおあいら、現在の鹿児島県鹿屋市大姶良)にある。楡井頼仲が領有し、大姶良新兵衛・横山彦三郎というものが守っていた。畠山直顕軍は4月3日に大姶良城を落とした。

禰寝(ねじめ)氏は大隅国肝属郡禰寝院(ねじめいん、現在の鹿児島県肝属郡南大隅町根占)の国人。畠山直顕の指揮下で戦う機会も多かったためか、直顕と行動をともにしたようだ。

島津氏は大隅の戦いには協力しなかった。

観応2年・正平6年(1351年)4月10日
北朝方(幕府方)の禰寝清成・禰寝清増・禰寝清種が、南朝方である大隅国肝属郡百引(もびき)の加瀬田城(かせだじょう、別名に「加瀬田ヶ城」「高雲加瀬田ヶ城」、場所は鹿屋市輝北町平房)を攻撃。この城は楡井頼重(頼仲の弟)が守っていた。

田園風景の中の山城跡

加瀬田城(加瀬田ヶ城)跡、東側の麓より

 

観応2年・正平6年(1351年)7月10日
北朝方(幕府方)の禰寝清成・禰寝清増・禰寝清種が、大隅国肝属郡鹿屋院の高熊城(たかくまじょう、「高隈城」とも、現在の鹿屋市上高隈)を攻める。こちらも南朝方・楡井頼仲が領有する城である。

田園風景の中の山城跡

高熊城(高隈城)跡

 

観応2年・正平6年(1351年)7月25日
南朝方の細山田三郎・風早十郎・牧瀬源太(いずれも楡井頼仲の家臣)が大姶良城に入り、ここで挙兵する。また、大姶良城の援軍として肥後次郎左衛門・石堂彦次郎らが鷹栖城(たかすじょう、「高須城」とも、現在の鹿屋市高須)に入った。禰寝清成・禰寝清増・禰寝清種が鷹栖城を攻撃するが、城は落ちない。

観応2年・正平6年(1351年)8月3日
禰寝清成・禰寝清増・禰寝清種が肝属郡姶良荘(あいらのしょう、現在の鹿屋市吾平)の井上城を攻め、楡井方の島津田三位房ら数十人を討ち取る。
続けて加瀬田小城(かせだこじょう、後述の加瀬田城の支城か)を落とし、高山城(こうやまじょう、肝属郡肝付町高山)を落とし、夜には加瀬田城を陥落させた。さらに4日、大姶良城と鷹栖城も攻め落とした。

山城へ続く登山道

加瀬田城(加瀬田ヶ城)跡の登山口

 

この頃、幕府では足利尊氏と足利直義の対立が表面化しつつあった。8月に足利直義は京を脱出し、直義派は北陸へ走る。さらに、鎌倉に入った。

 

 

島津貞久、南朝に降る

幕府の混乱は、九州の情勢を引っ掻き回す。直義の鎌倉入りと同じ頃に、一色範氏・直氏(前の九州探題)は新たに九州探題となった足利直冬と対立し、南朝方に転じたと見られる。また、島津貞久も南朝方に帰順したと推測される。ほかに島津忠宗(伊作宗久)・島津忠親(伊作忠親、ただちか、宗久の子)・渋谷重勝(しぶやしげかつ、入来院氏当主)・渋谷重興(岡本重興、おかもとしげおき、重勝の弟)らも貞久に従って南朝方に転じ、8月3日に征西大将軍・懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう)より綸旨を賜ったという。

九州においては、足利直冬・少弐頼尚(しょうによりひさ、肥前の有力者)・畠山直顕の佐殿方(直義派)と、一色氏や島津氏を糾合した南朝方が勢力を二分する構図となった。

なお、これら一色氏・島津氏の南朝帰順については『鹿児島縣史』による。典拠となっているのは『袖ヶ崎島津公爵家文書(伊作文書)』『入来院重賢氏所蔵文書』『旧記雑録 前編巻二十三』『清色亀鑑 七』『平姓禰寝氏正統文書 巻五』とのこと。


観応2年・正平6年(1351年)8月12日
畠山直顕は禰寝清成・禰寝清増・禰寝清種を率いて、日向国救仁院の志布志城(しぶしじょう、現在の鹿児島県志布志市志布志町)へ出兵した。志布志城は楡井頼仲の本拠地である。翌13日に志布志城は落城。

志布志城は内城・松尾城・高城・新城からなる山城群である。このうちの松尾城を楡井頼仲は居城としていた。

曲輪跡に顕彰碑と小さな祠がある

志布志城(松尾城)跡の東丸

「楡井頼仲卿之碑」と刻字されている

東丸には楡井頼仲の顕彰碑もある

楡井頼仲は肝付氏を頼って高山に逃れ、高山城近くの弓張城(ゆんばりじょう)に入ったとされる。四十九所神社は弓張城の麓にあり、境内には「楡井頼仲公表忠碑」も建立されている。

朱色の大きな鳥居と参道

高山の四十九所神社

境内に立つ顕彰碑

境内に「楡井頼仲公表忠碑」

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観応2年・正平6年(1351年)8月15日
幕府が島津貞久に下文を与え、大隅国の大禰寝院(おおねじめいん、現在の鹿児島県肝属郡錦江町大根占)・鹿屋院(現在の鹿屋市の一部)・串良院(くしらいん現在の鹿屋市串良・肝属郡東串良町)・大姶良郷西俣村(現在の鹿屋市大姶良)・曽小川村(そおかわ、現在の霧島市国分福島)などの所領を与える。下文で恩賞とされた地は、畠山直顕が攻略した地ばかりである。

足利尊氏が島津氏を自陣営につなぎとめるために出したものとも考えられる。


観応2年・正平6年(1351年)9月か
島津貞久は筑前国金隈(かねのくま、現在の福岡県福岡市博多区金隈か)の一色範光(のりみつ、範氏の子)に援軍を出す。島津氏久(うじひさ、貞久の四男)・島津資忠(北郷資忠、ほんごうすけただ、貞久の弟)を遣わした。一色氏は南朝方・征西府に属し、足利直冬軍との決戦に及んだ。9月28日、島津隊は一色範光に従って戦う。

これは負け戦となり、島津隊では本田道意(本田親兼か)・伊集院迎齋(島津一族ではなく紀姓の伊集院氏)・中條六郎・池上光久が戦死。また、伊地知季随(いじちすえみち)は島津氏久の身代わりとなって討ち死にした。島津氏久も負傷した。

伊地知季随は越前国大野郡伊知地(現在の福井県勝山市北郷町伊知地、地名のほうは「伊地知」ではなく「伊知地」)の領主であった。建武年間(1334年~1337年)に讒言があって足利尊氏により投獄されたが、島津貞久のとりなしで罪を許された。その後は薩摩へ移り、島津氏の家臣となっていた。

観応2年・正平6年(1351年)10月25日
足利尊氏が幕府ごと南朝に降る。そして、直義の討伐の綸旨を後村上天皇より得た。北朝と観応年号も廃される。

『島津国史』を見ていくと、このあと幕府(南朝)より島津氏をはじめ薩摩の武将たちへの下文があった記事が大量に出てくる。恩賞を与えて、味方につける狙いがあったと思われる。一方、足利直冬も恩賞や感状をほうぼうに出し、勢力の維持を図ろうとした。また、一色直氏は幕府(南朝方)より任命されて九州探題に復帰した。

その後、足利尊氏は鎌倉の直義軍を攻めて勝利。足利直義は幽閉されて急死する。観応の擾乱は収束する。

しかし、今度は南朝方が足利氏の排除を画策する。ついには足利尊氏も征夷大将軍を解任される。正平3年(1352年)閏2月16日、足利方は南朝を離れる。鎌倉に南朝方反乱軍が攻め込んだり、南朝方軍勢が京に攻め入って足利義詮を逃亡させたりと、ものものしい状況となった。

正平7年(1352年)4月13日
足利義詮より島津氏らに恩賞の沙汰がある。筑前国金隈の戦功に関してのものである。この頃は、足利氏は征夷大将軍ではなく、政権としての権威はあやふや。短期間のうちに権力構造が変わりすぎて、地方の有力者たちも「どうなってるの?」「どうすりゃいいの?」という感じだったと思われる。有力者たちを自陣営につなぎとめるための動きだろう。

正平7年(1352年)4月29日
幕府より島津氏に命令書が下される。一色範氏とともに、日向国穆佐院(むかさいん、現在の宮崎県宮崎市高岡町)の畠山直顕・伊東祐氏を攻めるよう命令される。

正平7年(1352年)5月11日
京において、足利義詮は男山八幡(石清水八幡)の南朝方を攻め落とす。後村上天皇は賀名生に逃れた。幕府方勝利の報は、一色範氏より島津氏にも伝えられた。

正平7年(1352年)6月5日
足利義詮より、畠山直顕・伊東祐氏討伐の命令が再び下される。また、同じ命令が新田宮(にったぐう、鹿児島県薩摩川内市にある新田神社)の執印(しゅういん)氏にももたらされた。

正平7年(1352年)7月24日
大隅国で島津氏久軍が畠山重隆(直顕の子)軍と戦うが、敗れる。

正平7年(1352年)8月17日
足利義詮が持明院統の後光厳天皇を擁立。北朝が復活する。

時期の詳細はわからないが、その後、島津氏や一色氏も北朝方(幕府方)に転じたと見られる。南九州においては佐殿方の畠山直顕が日向国・大隅国をほぼ制圧。島津氏と畠山氏との対立に加え、南朝方との戦いもからんでくる。

まだ、つづく。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年

『鹿児島県の歴史』
著・発行/鹿児島県社会科教育研究会 高等学校歴史部会 1958年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年

『志布志町誌 上巻』
発行/志布志町役場 1972年

『郡山郷土史』
編/郡山郷土誌編纂委員会 発行/鹿児島市教育委員会 2006年

『観応の擾乱』
著/亀田俊和 発行/中央公論社 2019年(電子書籍版)

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか