川合陵神社(かわあいのみささぎじんじゃ)は鹿児島県薩摩川内市五代町に鎮座する。御陵殿(みささぎどん)とも呼ばれる。創建年代は不明。御祭神は天火明命(アメノホアカリノミコト)。そして、その御陵とされる川合陵(かわあいのみささぎ)があるとも。
ニニギノミコトの兄
アメノホアカリノミコトは、アメノオシホミミノノミコト(天忍穂耳尊)とタクハタチヂヒメノミコト(栲幡千千姫命)の第一子とされる。ニニギノミコト(瓊瓊杵尊/邇邇芸尊)の兄である。ただ、系譜については諸説あり。このあたりについては後述する。
川合陵神社は新田神社の境外末社である。新田神社から西へ2㎞ほど、という位置関係だ。
新田神社は天津日高彦火瓊瓊杵尊(アマツヒダカヒコホノニニギノミコト)を本祀とする。神亀山に境内はあり、この山はニニギノミコトが住んだ高城千臺宮があったところとも。その頂上は、ニニギノミコトの御陵とされる可愛山陵(えのみささぎ)の治定地にもなっている。可愛山陵は神代三陵の一つだ。
新田神社についてはこちらの記事にて。
可愛山陵についてはこちらの記事にて。
ニニギノミコトはこの地に住んだとされ、「高城(たき)」や「川内(せんだい)」の地名も宮居の「高城千臺宮」に由来するとも言われている。ニニギノミコトの伝説のあるところに、アメノホアカリノミコトの伝承があるというのも興味深い。
冠山の麓に
「川合」の地名は地形に由来するという。川内川(せんだいがわ)に支流の高城川(たきがわ)が合流するところなのだ。
新田神社の二の鳥居前から鹿児島県道44号(京泊大小路線)を西へ。2㎞ほど行ったところで「五代十文字」(近くに同名のバス停もあり)を曲がって北へ向かう。しばらく行くと道路沿いに川合陵神社への案内が見える。ここから山道を入っていく。

鬱葱とした山道をしばらく行くと鳥居が見える。そこが川合陵神社だ。鎮座地は冠山の麓。冠山は別名に川合山とも呼ばれる。周囲500mほど、高さは20mほど。川合陵はこの山の上にあると言われている。

境内は深い森の中。大きな御神木が枝を広げて空を覆っている。御手洗池(みたらいいけ)もあるが、参詣したときは水がなかった。


ちょっと奥に行くと小ぶりな社殿がある。嘉永年間(1848年~1855年)に建てられたもの。

石灯籠には文化13年(1816年)の紀年銘がある。

当時、薩摩藩により神代三陵の調査が行われている。国学者の白尾国柱(しらおくにはしら)は『神代三陵考』を著し、のちに島津重豪(しまづしげひで、島津氏25代当主/薩摩藩8代藩主)に命じられて追加調査を実施。文化11年(1814年)に『神代三陵取調書』を提出。可愛山陵の比定とともに、これと関連する端陵(はしのみささぎ)・中陵(なかのみささぎ)・川合陵についても調査報告がある。
文化13年(1816年)の石灯籠も、この動きに関連したものなのではないだろうか。
薩摩藩の地理誌『三国名勝図会』にも川合陵の絵図がある。こちらは19世紀半ば頃の様子で、現在もほぼこのとおりだ。

チョッポ岡
「チョッポ岡」と呼ばれる小丘がある、と境内の由緒書きに。それは社殿から道路を挟んで西側にあるとのこと。『三国名勝図会』の絵図の左下のほうにも見える。こちらも墳墓だと昔から言われているそうだ。
ちょっと行ってみる。すぐに、それとわかる岡があった。


上のほうは平坦。人為的に整えられたものだろうか。古墳っぽい雰囲気はあると思う。

「丘の上に立つと不思議な音響が聞こえる」とも言われているそうだが、そういったことはなかった。
アメノホアカリノミコトが、なぜここに?
日本の神話において、アメノホアカリノミコトは気になる存在だ。ニニギノミコトの兄であり、こちらも天孫(アマテラスオオミカミの孫)ということになる。
系譜には諸説あり、『日本書紀』の一書(あるふみ)ではニニギノミコトの子とされたり、『播磨国風土記』ではオオナムチノカミの子とされたりも。
また、『先代旧事本紀』ではニギハヤヒノミコト(饒速日命/邇芸速日命)と同一神とされる。『古事記』『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)が東征した際に大和の統治者としてニギハヤヒノミコトが出てくる。
アメノホアカリノミコトにしてもニギハヤヒノミコトにしても、何者なのかはハッキリしない。ただ、重要な存在ではあることはうかがえる。
アメノホアカリノミコトは尾張(おわり)氏の祖とされる。尾張氏はその名のとおり尾張国(現在の愛知県)を本貫とする。孝昭天皇の皇后や崇神天皇の妻が尾張氏の娘だったり、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)を尾張氏が助けたり、と天皇家に大きく関わったという。さらに天武天皇元年(672年)の壬申の乱では、尾張大隅(おわりのおおすみ)が大海人皇子(天武天皇)を助けてその勝利に貢献している。
ちなみに草薙剣(天叢雲剣)を御神体として祭る熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)の宮司も尾張氏の末裔。また、住吉大社(大阪市住吉区)の社家の津守氏も、尾張氏と同族とされる。
尾張氏は日本建国に深く関わったことが想像される。
『播磨国風土記』では出雲系の系譜とされるが、そこにつながりそうな要素がある。新田神社の境外末社には大貴己神社もある。かつては汰宮(すべりのみや)といい、ここにはオオナムチノカミの伝承もある。
一方でニギハヤヒノミコトは、物部(もののべ)氏や穂積(ほづみ)氏の祖とされる。ニギハヤヒノミコトの子のウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命/可美真手命)は神武天皇に帰順し、子孫(物部氏など)は天皇家に仕えた。軍事氏族とされ、物部麁鹿火(あらかひ)は継体天皇21年(527年か)に征討将軍として筑紫君磐井の反乱を平定。九州の統治も任されたという。
物部氏もまた、古代のヤマト王権と深く関わっている。
川合陵の近くには「久留巣(くるす)」という地名がある、物部氏の一族に栗栖(くるす)氏があり、こちらとの関係があるのかもしれない。延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の神名帳に、河内国若江郡の栗栖神社がある。これは大阪府八尾市にある八尾神社(やおじんじゃ)に比定されている。御祭神はウマシマジノミコト。河内国の栗栖神社(八尾神社)の一帯は八尾荘(やおのしょう)とも呼ばれた。
愛知県犬山市にも栗栖(こっちは「くりす」と読む)の地名があり、ここにもウマシマジを祭る栗栖神社がある。
川内には八尾神社(やつのおじんじゃ)もある。川合陵神社から1.3Kmほど西に位置する。ここも新田神社の境外末社だ。御祭神は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)。もちろん出雲神話との関わりがうかがえるが、もしかしたら河内国の八尾荘との関係があるのか? また、ヤマタノオロチの体内から出てきた天叢雲剣(草薙剣)は、尾張氏が祭っている。川内の八尾神社は物部氏とも尾張氏ともつながるような気もするのである。
薩摩国の川内では、古い時代に尾張氏が関わっていたのかも? 物部氏が関わっていたのかも? そんなことを想像させられる。
<参考資料>
『神代三山陵』
編・発行/鹿児島史談会 1935年
『神代山陵考』(著/白尾國柱)、『神代三陵取調書』(著/白尾國柱)、『神代三陵志』(著/後醍院眞柱)、『神代三陵異考』(著/樺山資雄)、『高屋山陵考』(著/田中頼庸)などを収録
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
『川内市史 上巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1976年
『川内市史 下巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1980年
『川内市文化財要覧』
編/川内市歴史資料館 発行/川内市 1985年
ほか