ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(2)伊集院頼久の乱

島津元久(しまづもとひさ、7代当主)は薩摩・大隅・日向の守護職を手にした。奥州家(おうしゅうけ)と総州家(そうしゅうけ)の争いは、ひとまず決着する。……しかし、このあとに波乱の展開が待っているのだ!

 

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入来院重頼が清色城を奪還

応永17年(1410年)に島津元久は上洛。6月に京に至り、鹿児島へは9月に帰還した。しかし、島津元久が留守にしている間に、国元では渋谷重頼(入来院重頼、いりきいんしげより)が不穏な動きを見せる。ついには、渋谷一族を率い、総州家と結んで挙兵する。

渋谷重頼(入来院重頼)は、応永4年(1397年)に本貫地である入来院の清色城(清敷城、きよしきじょう、場所は鹿児島県薩摩川内市入来)を攻め落とされ、没落していた。その後、奥州家と総州家が対立するようになると、双方から誘いがかかる。渋谷重頼(入来院重頼)は渋谷一族の中で影響力が大きく、両家にとっては味方に引き入れたい存在だった。恩賞合戦のすえに新たな所領を得て、地力を回復しつつあった。そして、島津元久の不在の隙を衝いて行動を起こしたのだ。

一方、総州家は薩摩国守護の地位を失い、すっかり勢いがなくなっていた。その勢力圏は薩摩国北西部に縮小。山門院の木牟礼城(きのむれじょう、鹿児島県出水市高尾野)に島津守久(しまづもりひさ、総州家3代)、薩摩郡の平佐城(ひらさじょう、薩摩川内市平佐)に島津忠朝(ただとも、守久の弟)、碇山城(いかりやまじょう、薩摩川内市天辰町)に島津久世(ひさよ、守久の子)が入っていた。巻き返しをはかるために、渋谷氏と手を組んだのである。

応永18年(1411年)、渋谷重頼(入来院重頼)は清色城へ進軍。旧領の奪還をはかる。援軍として総州家の島津忠朝・島津久世も出兵してきた。清色城は、島津氏のものとなってからは伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)に任されていた。島津元久は鹿児島より3500の兵を率いて入来院清敷(清色)に進軍。日向国穆佐院(むかさいん、宮崎市高岡町)から島津久豊(しまづひさとよ、元久の弟)が参陣し、伊集院頼久の軍も加わる。

鹿児島の城跡

清色城跡の本丸

 

そんなさなかに島津元久が急病で倒れ、危篤となった。そのため、島津元久軍は鹿児島に戻る。島津久豊も穆佐に兵を退く。伊集院頼久は清色城の防衛にあたるも、城兵の寝返りもあって陥落した。渋谷重頼(入来院重頼)は、14年ぶりに清色城を奪い返した。

 

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島津元久の急逝、後継者は誰だ!?

鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)に帰還した島津元久だったが、応永18年(1411年)8月6日に逝去する。

そこで伊集院頼久が動く。「島津元久の遺言である」として、頼久の子・初犬千代丸に家督をつがせようとした。伊集院頼久と初犬千代丸は鹿児島に入り、初犬千代丸を島津為久と名乗らせて島津宗家の後継者に擁立した。

島津元久の母は伊集院氏の出身。島津元久と伊集院頼久は従兄弟である。また、伊集院頼久は島津元久の妹(こちらも頼久の従姉妹にあたる)を正室としていた。初犬千代丸(島津為久)は、島津元久の甥にあたる。

佐多親久(さたちかひさ)・北郷知久(ほんごうともひさ)・樺山教宗(かばやまのりむね)・吉田清正(よしだきよまさ)・蒲生清寛(かもうきよひろ)・伊地知(いぢち)民部少輔ら奥州家の群臣たちは話し合い、島津久豊(元久の異母弟、母は佐多氏の出身)に急ぎ伝えることにした。知らせを聞いた島津久豊は、大急ぎで鹿児島に向かう。

島津久豊が鹿児島に着くと、初犬千代丸を喪主として島津元久の葬儀を行っているところだった。島津久豊は葬儀に乱入し、初犬千代丸の手から位牌を奪い、自らの手で葬儀を終わらせた。そして、自身が後嗣となることを宣言したのである。

 

従う者と従わない者と

奥州家(守護家)は薩摩国の領主たちを従わせる途上で島津元久が亡くなり、島津久豊が強引に家督を相続した。抑え込まれていた薩摩の有力者たちは島津久豊に反発し、勢力を盛り返す好機と動き出す。

島津久豊も勢力維持をはかる。禰寝清平(ねじめきよひら)・山田久興(やまだひさおき)・比志島久範(ひしじまひさのり)・鹿屋兼忠(かのやただかね)・樺山教宗らに所領を与えたり安堵したり、盟約を結んだりしている。味方につなぎとめようと努めた。

奥州家はもともと大隅国日向国に地盤がある。島津久豊に従うおもな有力者はつぎのとおり。

吉田氏(よしだ)
大隅国吉田院(現在の鹿児島市吉田)の領主。吉田清正は国老。

蒲生氏(かもう)
大隅国蒲生院(鹿児島県姶良市蒲生)の領主。蒲生清寛が国老として活躍。その子の蒲生忠清(ただきよ)も国老となる。

佐多氏(さた)
島津氏の庶流で、名乗りは大隅国南部の佐多(肝属郡南大隅町佐多)に所領を得たことから。薩摩国知覧院(鹿児島県南九州市知覧)の領主でもあった。島津久豊の母は佐多氏の出身。

樺山氏(かばやま)
島津氏の庶流。日向国三俣院(宮崎県諸県郡三股町のあたり)に勢力を持つ。

北郷氏(ほんごう)
島津氏の庶流。日向国諸県郡庄内(宮崎県都城市)の領主。

新納氏(にいろ)
島津氏の庶流。日向国救仁院(鹿児島県志布志市)の領主。奥州家の大隅・日向攻略の拠点でもある志布志城を任される。

本田氏(ほんだ)
鎌倉時代初期に島津氏の代官として下向した一族で、大隅国守護代を務めたりもしている。国老を務める者も多い。大隅国日向国に所領を持つ。

伊地知氏(いぢち)
大隅国大隅(鹿児島県垂水市や鹿屋市のあたり)の領主。国老も出す。

鹿屋氏(かのや)
大隅国鹿屋院(鹿児島県鹿屋市の鹿屋地区)の領主。肝付氏庶流。鹿屋兼忠は島津元久の代からの国老。

大寺氏(おおでら)
大寺元幸や大寺幸朝が国老を務めた。

平田氏(ひらた)
大隅国に地盤を持つ。島津元久の国老に平田重宗(しげむね)がいる。

和泉氏(いずみ)
島津氏庶流。名乗りは薩摩国和泉郡(いずみ、鹿児島県出水市)に所領を得たことに由来する。

山田氏(やまだ)
島津氏庶流。名乗りは薩摩郡溪山郡山田(鹿児島市山田町)に由来。

禰寝氏(ねじめ)
大隅国禰寝院(肝属郡南大隅町根占)を中心に南大隅に勢力を持つ。

比志島氏(ひしじま)
薩摩国満家院(みつえいん、鹿児島市郡山・皆与志)の領主。南北朝争乱期より島津氏には協力的。

 

一方、薩摩国に地盤を持つ者たちは島津久豊に反抗する。

伊集院氏(いじゅういん)
所領は薩摩国伊集院(いじゅういん、日置市伊集院)・河邊(かわなべ、南九州市川辺)・給黎(きいれ、鹿児島市喜入・南九州市知覧の一部)など。

島津氏・総州家(そうしゅうけ)
もともとは薩摩国守護だった。薩摩国の山門院(現在の鹿児島県出水市の西部のあたり)や薩摩郡薩摩川内市の西部)を領する。この頃は、島津久世が当主。

渋谷氏(しぶや)
薩摩国北部の入来院(いりきいん、薩摩川内市入来・樋脇)・祁答院(薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院)・東郷別府(とうごうべっぷ、薩摩川内市東郷)・高城郡(たき、薩摩川内市の北西部)などに勢力圏を持つ。それぞれの所領を拠点とする入来院氏・祁答院氏・東郷氏・高城氏がある。

伊作氏(いざく)
島津氏庶流。薩摩国南部の伊作(いざく、日置市吹上)や阿多(あた、南さつま市金峰)などに所領を持つ。この頃、4代・伊作久義(ひさよし)は南薩で勢力を拡大中。

ほかに、市来氏(いちき)・鮫島氏(さめじま)・別府氏(べっぷ)・頴娃氏(えい)なども島津久豊に従わず。薩摩国はほとんどが守護方の敵にまわった。

 

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伊集院の戦い

島津久豊が伊集院を攻める。平等寺日置市伊集院町麦生田のあたり)まで進軍して布陣した。正確な時期は不明。

島津久豊は碇山城の島津久世(総州家)に協力を求めた。使いを送って「奥州家と総州家はいろいろあったけど、宿怨を忘れてともに伊集院頼久と戦おう」と説得。島津久世はこの申し出を受け入れ、島津忠朝とともに出兵する。

ところが、島津久世は市来宮園(日置市東市来のあたりか)まで進軍したところで止まる。島津久豊は進軍を促す使いを送るが、総州家の軍は動かない。ここで伊集院方が動く。精鋭1000余兵で島津久豊軍を急襲。敗走させた。

鹿児島の城跡

一宇治城、伊集院氏の拠点

 

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島津久世はもともと伊集院頼久に通じていた可能性がある。あるいは、誘いを受けていたのかもしれない。その後、伊集院頼久は河邊郡(南九州市川辺)を島津久世(総州家)に譲りわたした。河邊はかつて総州家が領有していたこともあり、これを差し出すことで味方に引き入れたのだろう。島津久世は河邊城(かわなべじょう、平山城とも)に拠点を移す。

 

肝付兼元が叛く、鹿屋の戦い

応永18年冬(応永19年説もある)、大隅国では肝付兼元(きもつきかねもと)も反旗をひるがえす。肝付氏は肝属郡高山(現在の鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点に大隅中南部に勢力を持つ。肝付兼元は鹿屋院の鹿屋兼忠を攻めた。

島津久豊は鹿児島より海を渡って市成(鹿屋市輝北町市成)に入った。吉田清正・蒲生清寛らもこれに従う。また、山田忠経(やまだただつね)は恒吉・百引・高隈(山田氏の領地か? これらの地は鹿屋院のやや北)の衆を率いて鹿屋の救援に向かうが、肝付軍が兵を分けてこれを破る。山田忠経は高隈城(たかくまじょう、鹿屋市高隈)に兵を退く・島津久豊は山田勢を市成に呼び寄せた。島津久豊軍は鹿屋に向かい、大姶良(鹿屋市大姶良)からか援兵が加わる。さらに鹿屋城(かのやじょう、亀鶴城、鹿屋市北田町)から鹿屋兼忠も撃って出る。肝付氏の軍勢は囲みを解いて敗走した。

鹿児島の城跡

鹿屋城跡、別名「亀鶴城」とも

 

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日向の伊東氏も動く

日向国児湯郡都於郡(とのこおり 現在の宮崎県西都市)の伊東祐安(いとうすけやす)が穆佐院に侵攻する。

この地では南北朝争乱期から島津氏と伊東氏の抗争が続いていた。7代・島津元久は弟の島津久豊をこの地に派遣し、穆佐院を奪う。その後、島津久豊は伊東祐安の娘を正室にむかえて和睦していた。

応永19年(1412年)9月、伊東氏の軍勢は曾井城(そいじょう、宮崎市恒久)を囲んだ。島津方は北郷知久・樺山教宗・高木匡家・佐多兵部大輔らが救援に向かい、軍を源藤(げんとう、宮崎市源藤町)に進めた。隊列が整わないうちに伊東軍に急襲され、島津軍は大崩れとなった。高木匡家は戦死し、佐多兵部大輔も重傷を負う。苦戦していることを聞いた島津久豊は、兵を率いて穆佐城に入った。伊東軍は西城(穆佐城内の支城)に夜襲をかけて、島津軍は敗走する。穆佐城に居住していた島津久豊の夫人(伊東祐安の娘)、ふたりの息子(のちの島津忠国島津用久)とともに大隅国囎唹郡末吉(すえよし、鹿児島県曽於市末吉)に落ちのびた。伊東氏は旧領を奪い返した。

 

伊集院頼久が急襲、鹿児島の戦い

応永20年(1413年)9月、島津久豊は渋谷一族を撃つために大隅国菱刈郡(鹿児島県伊佐市菱刈)に向けて出兵する。清水城を留守にしたところ、伊集院頼久が夜襲をかけてきた。

伊集院頼久の軍勢は清水城に乱入して火をかけ、城兵はことごとく討ち取られる。島津久豊は本拠地を奪われた。城を守っていた伊佐敷忠豊(いさしきただとよ、佐多氏の一族)・伊地知季兼(いぢちすえかね)・北原弥二郎(梶原氏の一族)・北原太郎三郎・天辰式部二郎(本田氏庶流)らが戦死した。

佐多親久・大寺元幸・北原三郎太郎らは東福寺城に入って防戦。大隅国の下大隅大隅国の南部)や向島(むこうじま、桜島)に援軍を求めた。東福寺は清水城よりやや東に位置する、海辺の山城である。一方、伊集院頼久は軍を分けて、一隊に清水城を守らせ、自身は原良・小野(鹿児島市原良・小野町)に布陣した。

鹿児島の城跡

東福寺城から清水城(中央奥の山)をのぞむ

鹿児島の城跡

東福寺城跡

 

島津久豊は大隅国吉田院(鹿児島市吉田)で、鹿児島の変事を聞く。すぐに鹿児島に兵を還して伊集院勢と戦うことを決意する。従軍していた国老の蒲生清寛・吉田清成は「檄をとばして援兵を募り、大兵力で攻めるべし」と止めたが、島津久豊は聞かず。急ぎ鹿児島に戻って東福寺城に入った。下大隅向島・谷山の兵が合流し、大軍をもって原良・小野の伊集院頼久を破る。11月、鹿児島を奪回した。

原良で追い詰められた伊集院頼久は自害しようとしたが、吉田清正・蒲生清寛がこれを止める。両国老の助命のとりなしもあって、島津久豊はこれを許した。伊集院頼久は降伏して兵を退く。

 

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小山田の戦い

伊集院頼久がふたたび軍事行動に出る。応永20年末に、薩摩国満家院の比志島久範を攻めた。伊集院氏の軍勢は年が明けると小山田城(こやまだじょう、鹿児島市小山田)を囲むが、城主の小山田範清(こやまだのりきよ、比志島氏庶流)はよく守る。城は落ちず、伊集院勢は撤退した。

 

給黎城攻防戦

応永21年(1414年)7月、島津久豊が吉田衆・蒲生衆らを率いて薩摩国給黎郡(きいれ、鹿児島市喜入)に侵攻。給黎城を囲むが落とせず。

8月、伊集院頼久は給黎の松ヶ平・荒平に進軍。島津久世・伊作久義も応じて援軍を出す。島津久豊は、本田重恒(ほんだしげちか、国老)を派遣して河邊勢・伊作勢を攻撃させるが敗れる。伊集院頼久は勢いに乗って給黎城に入った。島津久豊は鹿児島に撤退しようとしたところ、肥後国球磨郡熊本県人吉市あたり)の相良氏の援軍が到着。軍を反転して再び給黎城を攻め、8月6日に落城させた。

鹿児島市喜入町瀬々串には「駒返り」という地名も残る。ここで島津久豊が軍を反転させたことが由来だという。また、島津久豊は戦勝を祝して「給黎」を「喜入」と改めたともされている。

 

島津久世、謀殺される

応永22年(1415年)、伊作久義が島津久豊に降る。伊作勝久を鹿児島につかわして、謝罪した。また、島津久世(総州家)も伊作久義にも降伏を誘われ、こちらも降ることになる。島津久豊はこれを喜んで、河邊まで島津久世に会いにいく。また、島津久世を鹿児島に招いた。

12月、島津久世は鹿児島に行く。島津久豊は歓待し、盛大な宴でもてなした。しかし、帰ろうとしたとき、島津久世は兵に囲まれる。

島津久豊は「汝重罪アリ 河邊ヲ献シテ贖ハス歸ルコトヲエン 然スンハ汝ニ賜フニ死ヲ以テセン(おまえの罪は重い。河邊を差し出せ! 従えないのなら帰さないぞ。そうでなければ、死んで詫びろ!)」と責めた(発した言葉は『西藩野史』より、以下同)。

島津久世は「我封土ノ取捨ト雖モ専ニスルコトヲ得ス 命ヲ川邉(原文ママ)ノ衆ニ傳テ後ニ決セン(自分の領地のことではあるが、独断では決められない。河邊の家臣たちに決めてもらおう)」と言い、家臣の小田原弾正・柳田弾正を河邊につかわした。群臣に「我死生ヲ以テ念トスル勿レ 審ニ議シテ事ノ宜ニ從ヘ(わが命のことは考慮せず、どうするのが最良であるかよく話しあってほしい)」と島津久世の命が伝えられた。

河邊の群臣たちは、開城を拒否して、島津久世の嫡子を擁立して家名を守ることと決した。島津久世の嫡子は犬太郎といい、まだ3歳であった。のちに島津久林(ひさもり)と名乗る。

小田原弾正らが鹿児島に戻って河邊での決定を主君に伝えた。応永23年(1416年)1月13日、島津久世は宿舎としていた千手堂坊(場所は清水城の域内か)で自害した。従者11人も殉死する。

このような顛末を島津久豊は大いに悔いて、出家して「存中」と号するようになった。

 

河邊の戦い

応永24年(1417年)、島津久豊は河邊の総州家を攻める。河邊の松尾城(まつおじょう)を守る総州家老中の酒匂紀伊守が島津久豊に内応していた。島津久豊の兵が松尾城に入り、河邊城(平山城)を攻めようと構えた。松尾城は河邊城のやや東に位置し、川を挟んでにらみ合うかっこうとなる。

河邊城(平山城)は、現在は「諏訪運動公園」として整備されている。城の痕跡はほとんど残っていないが、曲輪地形や土塁を思わせるものもあった。

鹿児島の城跡

運動公園の一角、ふもとがよく見える

鹿児島の城跡

曲輪の跡っぽいけど、どうだろう?


河邊城の救援要請に応じて、知覧城主の今給黎久俊(いまきいれひさとし、伊集院氏の一族)の軍ががかかつける。さらに、伊集院頼久・伊作久義(島津久世謀殺事件のあとに再び離反していた)も来援し、松尾城を囲んだ。

鹿児島の城跡

松尾城跡、南九州川辺ICのすぐ近く

 

島津久豊は軍勢を率いて平川に至る。援軍を待ちつつ、松尾城へ先遣の兵と食糧を送った。島津久豊の軍には、吉田清正・蒲生清寛・長野左京亮・田代久助大隅国田代の領主)・本田重恒・新納忠臣・北郷知久・樺山教宗・禰寝清平・佐多親久・和泉直久・和泉忠次(直久の弟)・鹿屋忠兼・飫肥伊豆守(大隅国の廻の領主)・平田重宗・山田久興らが参陣。ほかに肝付氏・税所氏・菱刈氏の来援も加わった。島津久豊の軍勢は大軍となり、河邊に進軍した。

伊集院頼久は本陣を神殿(こうどん、松尾城の北、南九州神殿ICのあたりか)に置き、別動隊を古殿(河邊城と松尾城の間に位置する)に置いて松尾城を囲み続けた。

9月11日、松尾城の食糧も尽きてきたこともあり、奥州家方は撃って出る。島津久豊は軍を二手に分けて、一軍は神殿(伊集院頼久本陣)の前の鳴野原(なきのはら)の突破を図り、もう一軍は島津久豊自らが率いて河邊城に向かう。本陣の伊集院頼久はすぐには動かず、敵の隊列が乱れたところを好機と見て一気に攻めかかった。

このあたりはシラス台地を河川が削ってできた地形で、鳴野原は段丘の上に広がっている。松尾城は一段低いところにあり、攻めるには段丘を登っていかないといけない。地の利は、段丘上に布陣する伊集院方にあった。

鹿児島の城跡

松尾城側の平原、写真奥が鳴野原のある段丘の縁

鹿児島の城跡

鳴野原、写真奥が神殿陣のあったあたりか

 

鳴野原合戦は島津久豊軍の大敗北となった。被害は大きく、和泉直久・和泉忠次・蒲生清寛・伊地知将監・田代久助・上井筑前守・禰寝清平・禰寝清息(清平の弟)などが戦死した。河邊城(平山城)を攻撃していた島津久豊の本隊も苦戦し、松尾城へ退いた。

総崩れとなるなかで、国老の吉田清正は独断で伊集院頼久のもとにおもむいて和睦を求めた。吉田清正は「嘗テ某 蒲生清寛ト共ニ足下ヲ原良ニ援ヘリ 久豊公ノ仁恵忘ルルコトナクンハ 甲ヲ解キ兵ヲ休メ和平シテ松尾ノ軍ヲ助ケヨ(以前、あなたが原良の戦いに敗れて自刃しようしていたところを私と蒲生清寛が助命したことがあったよね。久豊公も許してくれたよね。この恩義をわすれていないのなら、囲みを解いて和平し、松尾の軍を助けてほしい)」(『西藩野史』より)と説得した。伊集院頼久は「給黎・谷山・鹿児島を与えてくれるなら応じる」と条件を出す。島津久豊はこの条件をのみ、和平はなる。島津久豊は鹿児島に帰った。

 

伊集院頼久が降伏する

伊集院頼久は松尾城の囲みを解かなかった。兵を動かして給黎と谷山を取り、さらに鹿児島の引き渡しも要求してきた。伊集院頼久はかなり調子に乗っていたようで、敗者に対して強硬な態度をとってきた。鹿児島の群臣たちは伊集院頼久の態度にかなり憤慨したようだ。

伊集院頼久は谷山城(鹿児島市谷山)にあったが、勝ちに浮かれて軍備を怠っていた。鹿児島の群臣たちは話し合い、「その隙を衝けば勝てる!」と再戦を決める。島津久豊はただちに兵を集め、3000騎を率いて谷山城に迫った。島津久豊軍の士気は高く、その勢いに押されて伊集院頼久は降伏した。

島津久豊も今度ばかりは伊集院頼久の命を取るつもりだった。だが、またも吉田清正が助命を乞う。「若シ之ヲ殺サハ乱ハヤク息シ(殺してしまえば、乱は早くおさまらない)」と説得されて、伊集院頼久は赦された。

伊集院頼久の反乱は、これにて終結する。のちに島津久豊は伊集院頼久の娘を妻にむかえ、両家の関係修復もはかっている。

まだ戦乱はつづく……。

 

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<参考資料>
『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『山田聖栄自記』
編/鹿児島県立図書館 1967年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『室町期島津氏領国の政治構造』
著/新名一仁 出版/戎光祥出版 2015年

鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

入来町誌 上巻』
編/入来町誌編纂委員会 発行/入来町 1964年

『喜入町郷土誌』
編/喜入町郷土誌編集委員会 発行/喜入町 2004年

『吉田町郷土誌』
編/吉田町郷土誌編纂委員会 発行/吉田町長 大角純徳 1991年

『郡山郷土史
編/郡山郷土史編纂委員会 発行/鹿児島市教育委員会 2006年

『川辺町郷土史
編/川辺町郷土史編集委員会 発行/川辺町 1976年

伊集院町誌』
編/伊集院町誌編さん委員会 発行/伊集院町 2002年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか