ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

喜入の南方神社(給黎城跡)をお詣り、喜入の歴史も調べてみた

鹿児島市の南のほうに「喜入(きいれ)」はある。この地の南方神社(みなかたじんじゃ)は、すごく雰囲気のある場所なのだ。

ものはついでに、喜入の歴史もまとめてみた。ちなみに、かつては「給黎」と書いて「きいれ」と読んだ。これが「喜入」となったのには、とある出来事が関わってる。

 

 

 

島津氏の守護神

南方神社は山の中にある。ここにはもともと給黎城があった。城域の南側(南ヶ城)に鎮座する。

「諏訪上下大明神(すわかみしもだいみょうじん)」と、かつては称していた。御祭神は建御名方神(タケミナカタノカミ)と事代主命(コトシロヌシノミコト)。文明5年(1473年)に蒲生宣清(かもうのぶきよ)が創建したとされる。また、永禄8年(1565年)に喜入季久(きいれすえひさ)が再興したという。

明治5年(1872年)に「南方神社」と改称。諏訪神社から南方神社への名称変更は鹿児島県内のあちこちで見られる。ちなみに「南方(ミナカタ)」というのは、御祭神の「タケミナカタノカミ」から。


かつての島津氏領内(鹿児島県と宮崎県南部)には、諏訪神社(南方神社)がかなり多い。諏訪大社のある信濃国諏訪(現在の長野県諏訪市)からだいぶ遠いのに、だ。

その理由は島津氏が諏訪神を守護神としていたことによる。鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町・稲荷町)を守護する5つの神社がある。「鹿児島五社」と呼ばれる。その中で諏訪神社(南方神社)は第一位とされた。

諏訪神は武神として人気がある。島津氏だけではなく、南九州のほかの氏族の崇敬も集めたようだ。そして、数がどんどん増えたのだろう。喜入の諏訪上下大明神(南方神社)もそのひとつなのだ。

 

鹿児島五社についてはこちらの記事にて。

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森の中に鎮座する

喜入の旧麓(もとふもと)を目指す。ここは江戸時代の武家町の風情がよく残る。文化庁の「日本遺産」に、「薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~」の構成資産のひとつにも指定されている。そのため、現地での案内は行き届いている感じだ。「こっちかな」と思うほうへ車を走らせると、要所に看板がある。あまり迷わずに行けると思われる、たぶん。

案内看板にしたがって、集落から山のほうへ入る。林道をのぼっていく。山城っぽい雰囲気も。道なりに行くと、「南方神社」の看板と鳥居があらわれる。雨降りの中の参詣に。雨の日の神社もイイ感じの写真が撮れるな、と。

鳥居と標柱

南方神社の参道口だ!

森の中の鳥居

鳥居の向こうに参道が続く

 

鳥居の向かって右側に道がある。こちらを進むと給黎城の本城跡のほうへ行けるようだ。南方神社へは鳥居の左側の道に入る。南方神社への案内看板もあるので、そっちに向かう。参道をしばらく車で進むと。開けた場所に出る。境内に到着。駐車場もある。

石段をのぼって拝殿へ。なかなかの雰囲気だ。

森の中の参道

奥に拝殿が見える

 

広めの拝殿と、奥に本殿。拝殿は風通しのよい造り。

朱色の社殿

拝殿と本殿


本殿の裏手はちょっと高くなっている。こちらにも行ける。木霊の気配を感じるかのような場所だった。

森の中

境内の森

 

根元の空洞に何かが。木の一部が神様のようにも見える?

木の根元

空洞に何を祀る?

 

境内には「夫婦石」なるものも。「男石」と「女石」。陰陽石である。

陰陽石がある

セットで「夫婦石」

陽石か

「男石」

陰石か

「女石」


「夫婦石」の由緒はまったくわからず。調べても情報は出てこない。昔からこの地にあるものなのか? あるいは、どこからか遷されたののなのか? そして、諏訪神社との関わりはあるのだろうか? いろいろと気になるのである。

 

 

 

 

 

 

喜入の歴史

薩摩平氏→伴姓和泉氏→島津氏

承平年間(931年~938年)に編纂された『和名類聚抄』に、薩摩国の「給黎郡(きいれのこおり)」と出てくる。また、「給黎院」とも呼ばれていた。

古代において南九州は隼人が支配していた。給黎もそのうちにあったと考えるのが自然だろう。ちなみに、薩摩半島南部の隼人には阿多君(あたのきみ)や衣君(えのきみ)の名が残る。このいずれかが給黎の支配者であったかもしれない。

律令制における地方統治は、国司と郡司により行われた。給黎郡司としては12世紀に給黎(きいれ)氏があったという。

この給黎氏は、薩摩半島に繁栄した薩摩平氏の一族である。伊作良道(いざくよしみち、薩摩平氏の祖とされる)の子のひとりに多禰有道(たねありみち)という人物がいたとされる。この多禰有道が給黎郡司となり、のちに給黎氏を名乗ったのだという。

薩摩平氏は島津荘(しまづのしょう)との関係も深い。所領を島津荘の寄郡(よせごおり、国と私有地のどっちにも属する、半不輸の土地)とし、その管理者の地位にあった。給黎もそうであった。

給黎氏(薩摩平氏)の名は12世紀末には見られなくなる。薩摩平氏は平氏政権ではその支配下にあった。平氏政権が倒されて源頼朝が武家政権を確立する中で、薩摩平氏の多くが没落した。給黎氏もそうだったのだろう。

 

建久9年(1197年)に作成された薩摩国の図田帳には、給黎郡司として「小太夫兼保」の名が確認できる。これは和泉兼保(いずみかねやす)と推測される。和泉氏は、伴姓の肝付氏の一族である。薩摩国和泉郡(現在の鹿児島県出水市)のあたりを拠点としているが、給黎の地も領していたのである。

 

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また、図田帳によると地頭職は「右衛門兵衛尉」。島津忠久(島津氏の祖)のことである。島津忠久は鎌倉にあり、薩摩国の支配は代官に任せていたと考えられる。

のちに給黎郡の地頭職は島津長久(ながひさ。島津高久、たかひさ)に譲られる。この人物は島津忠時(ただとき、島津氏2代)の三男とされる。また、長久の弟に島津忠経(ただつね)があり、その子の宗長が給黎氏を名乗ったのだという。給黎宗長は島津長久の代官として給黎に入ったようだ。郡司と地頭が併存していたが、だんだん地頭である給黎氏(島津氏)が支配力を強めていったようである。

ちなみに島津忠経の子からは町田(まちだ)氏や伊集院(いじゅういん)氏にも系図がつながる。こちらも代官として薩摩にくだったのがはじまりっぽい。

給黎氏(島津氏)はその後、名前が見えなくなる。断絶したのだろうか。かわって和泉実忠(いずみさねただ、名は和泉忠氏とも、5代・島津貞久の弟)が給黎の領主となった。

 

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伊集院氏が給黎をとる

14世紀になると、南北朝争乱に南九州も巻き込まれる。島津貞久は足利尊氏に従って北朝方につくが、一族の伊集院忠国(いじゅういんただくに)は南朝方に。延元3年・暦応元年(1338年)に伊集院忠国が配下に給黎を攻めさせ、この地を和泉実忠(和泉忠氏)から奪う。これ以降は、伊集院氏の支配下となった。

伊集院忠国の子に今給黎忠俊(いまきいれただとし)と名乗る人物がある。給黎の地を任されたのだろう。ちなみに、昔の給黎氏との区別の意味合いもあり、頭に「今」がついている。

島津氏ものちに南朝方に転じる。もともと南朝方で活躍していた伊集院氏とは協調する。

 

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入来院氏が給黎に入る

14世紀末頃になると、給黎は総州家(そうしゅうけ)の島津伊久(これひさ)の支配下にあったようだ。応永7年(1400年)、島津伊久は隣接する谿山郡(たにやま、鹿児島市の谷山地区)とともに給黎郡の半分を入来院重頼(いりきいんしげより、渋谷重頼)に与えた。

入来院重頼は、南北朝争乱期の後半に島津伊久(総州家)・島津元久(もとひさ、奥州家、おうしゅうけ)と激しく争った。もともとは薩摩国入来院(鹿児島県薩摩川内市入来のあたり)の領主であった。応永4年(1398年)に島津伊久(総州家)・島津元久(奥州家)は協力して清色城(入来院氏の本拠地)を攻め落とす。入来院重頼は所領を失った。その後、谿山・給黎を与えられた。総州家の配下に組み込もうとしたのである。なお、入来院氏から奪った清色城は伊集院頼久(よりひさ)に与えられている。

15世紀初頭の島津氏は、総州家と奥州家が対立する。覇権をめぐって両家は争った。

総州家方の入来院重頼は、応永18年(1411年)に奥州家方にあった清色城(城主は伊集院頼久)を攻め落とす。かつての本拠地を奪還した。

 

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島津久豊の給黎城攻め、「給黎」から「喜入」へ

応永18年(1411年)、奥州家の島津元久(もとひさ)が清色城を攻める。だが、陣中で倒れ、没する。島津元久が急死すると、奥州家では家督相続問題が勃発する。当初は伊集院頼久嫡男の初犬千代丸(伊集院煕久、ひろひさ)が後継者に立てられた。初犬千代丸は島津元久の甥にあたる。

この相続に待ったをかけたのが島津久豊(ひさとよ)であった。こちらは元久の弟だ。島津久豊は強引に家督を継承し、奥州家の当主となった。この事件をきっかけに伊集院頼久が叛乱を起こす。長い内乱に突入した。

伊集院頼久は総州家や伊作久義(いざくひさよし、島津一族)と組んで抗戦。一進一退の攻防が続いていた。応永21年(1414年)、島津久豊は給黎を攻める。伊集院頼久は給黎城に入って応戦。城は落ちなかった。

島津久豊は鹿児島に向けて撤退をはじめた。そこへ、肥後国球磨(くま)から相良(さがら)氏の援軍が到着する。軍を反転させ、再び給黎城へ。ついに落城させた。

喜入には「駒返り」という地名も残る。ここで島津久豊が軍を反転させたことが由来だという。また、この勝利を祝して、島津久豊は「給黎」から「喜入」へと改めたという。

 

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蒲生宣清が喜入に入る

長録3年(1459年)、喜入は蒲生宣清にを与えられた。

蒲生氏は大隅国蒲生(かもう、鹿児島県姶良市蒲生)を本領としていた。12世紀からこの地にあった。蒲生清寛(かもうきよひろ)は島津久豊の国老で、伊集院頼久との戦いでも大いに活躍した。また、蒲生忠清(ただきよ、清寛の子)も国老を務めた。

蒲生宣清は若くして家督をつぐ。その頃、帖佐・加治木(ちょうさ・かじき、ともに姶良市)を支配していた島津季久(しまづすえひさ、分家の豊州家)が、蒲生にも勢力を広げようとしていた。豊州家の圧迫に蒲生氏は耐えられず。島津忠国(ただくに、島津氏9代)は、国替えにより蒲生家を存続させた。蒲生はしばらく豊州家の支配下に入る。

明応4年(1495年、明応5年説もある)、蒲生宣清は本領の蒲生に復帰する。それまで約37年にわたって給黎にあった。諏訪上下大明神(南方神社)の創建もその頃である。

ちなみに蒲生氏は藤原姓を称する。また、もともと宇佐八幡宮(うさはちまんぐう、宇佐神宮、大分県宇佐市)や大隅八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮、鹿児島県霧島市隼人町)とも関わりが深かった。

春日神(藤原氏の氏神)でもなく、八幡神でもなく、諏訪神を持ってきたのは不思議である。この頃、島津氏が諏訪信仰を奨励していたのだろうか?

 

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喜入氏

蒲生氏が去ったあとの喜入に、島津忠国は七男の島津忠弘(ただひろ)を入れた。また、隣地の揖宿(いぶすき、鹿児島県指宿市)は八男の島津頼久(よりひさ)に与えられた。

島津頼久は子がなかったために兄に揖宿を譲ろうと持ちかける。そこで、島津忠弘は弟の頼久を後嗣とし、さらに自身の子(のちの島津忠誉)を頼久の後嗣とした。両家は融合し、喜入・揖宿を領有するようになった。

 

島津忠俊(ただとし、忠誉の子)は、大永8年(1528年)に家督をつぐ。この頃は薩州家(さっしゅうけ)の島津実久(さねひさ)、相州家(そうしゅうけ)の島津忠良(ただよし)・島津貴久(たかひさ)、本宗家(奥州家)の島津勝久(かつひさ)が覇権を争っていた。島津忠俊は相州家に与する。天文8年(1539年)の谷山の戦い、市来の戦いなどで島津忠俊は活躍する。その後、島津貴久(相州家)が覇権を握った。

天文10年(1541年)、本田薫親(ほんだただちか)ら13人衆が島津貴久に対して挙兵。大隅国小浜(鹿児島県霧島市隼人町小浜)の生別府城(おいのびゅうじょう)を囲んだ。島津貴久は手を焼く。そこで13人衆の首謀者である本田薫親と単独講和を結ぶ、生別府城の譲渡を条件に。生別府城主は樺山善久(かばやまよしひさ)だった。島津貴久は島津忠俊を派遣して、樺山善久の説得にあたらせた。ちなみに、島津忠俊の妻は樺山氏の出身である。縁戚であることから、この役目を任されたのだろう。

 

島津忠俊は天文18年(1549年)に没する。子の島津忠賢が喜入領主となる。島津忠賢は弘治元年(1555年)の帖佐の戦い(大隅合戦)で戦功があったという。これ以降、島津家の数々の戦いで名が見えるようになる。

永禄元年(1558年)、島津貴久は「島津」を名乗りは一門・薩州家・豊州家などに限るとし、ほかの分家は名乗りを変えるよう命じた。島津忠賢は領地の喜入を名字とし、「喜入季久(きいれすえひさ)」と称するようになった。

喜入季久は、島津義久(よしひさ、貴久の子)の家老も努めた。軍事・内政・外交と多方面で活躍する。喜入・揖宿に加えて鹿籠(かご、鹿児島県枕崎市)なども領した。

喜入季久は天正16年(1588年)に没する。その後の喜入氏は、薩摩国永吉(ながよし、鹿児島県日置市吹上町永吉)に転封され、さらに鹿籠に移される。鹿籠領主として幕末まで続いた。

 

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喜入肝付家

文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の命令で島津氏配下の者たちの国替えが行われた。喜入には肝付兼三(きもつきかねひろ)が入る。この肝付氏は支流である。大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)の領主で、「加治木肝付氏」と言ったりもする。そして喜入領主となってからは「喜入肝付氏」「喜入肝付家」と呼ばれる。


喜入肝付氏についてはこちらの記事にて。

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<参考資料>
『喜入町郷土誌』
編/喜入町郷土誌編集委員会 発行/喜入町 2004年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1992年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1990年

『「さつま」の姓氏』
著/川崎大十 発行/高城書房 2001年

ほか