ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

南九州に所領を得た鎌倉御家人たち ~鮫島氏・二階堂氏・渋谷氏・比志島氏・種子島氏 ほか~

薩摩国・大隅国・日向国にやってきた鎌倉武士は島津忠久(しまづただひさ)のほかにも、けっこういる。

 

 

 

 

 

 

鮫島氏(さめじま)

鮫島宗家(さめじまむねいえ)は薩摩国阿多郡(あたぐん、現在の鹿児島県南さつま市)の地頭に補任され、下向したとされる。建久8年(1197年)の『薩摩国図田帳』にも「佐女嶋四郎」の表記で名が記されている。阿多郡はもともとは薩摩平氏の阿多氏の所領だった。阿多氏は平家滅亡とともに没落し、平家没官領となっていたところに鮫島宗家が入った。

鮫島氏は駿河国富士郡鮫島(現在の静岡県富士市鮫島)を本貫とし、藤原南家の工藤(くどう)氏の一族とされる。鮫島宗家は治承4年(1180年)の石橋山の戦いから源頼朝に仕えている。

 

鮫島氏の所領は、鮫島宗家のふたりの息子(鮫島家高と鮫島家景)に分割して相続。のちに阿多郡北部の地頭は解任される。鮫島家高が領内の新田八幡宮領の年貢を押領しようとし、神人に乱暴狼藉を働いたためであった。阿多郡南部の鮫島氏は有力国人として続くが、のちには島津氏の家臣となった。

鮫島氏が本拠地とした貝殻崎城(鮫島城)の跡地には記念碑がある。記念碑の揮毫は元内閣総理大臣の小泉純一郎氏が手がけている。ちょっと調べてみたところ、父親がこのあたりの出身で、旧姓が鮫島なんだそうだ。

石造りの「貝殻崎城址」碑

貝殻崎城跡

城址碑の背面

裏側には別名の「鮫島城」の文字

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二階堂氏(にかいどう)

解任された鮫島家高にかわって、薩摩国阿多郡北方の地頭に二階堂行久が補任された。二階堂氏も工藤氏の一族で、鮫島氏とは同族である。鎌倉幕府では二階堂行政が源頼朝の側近として活躍し、政所執事を務めた。

薩摩の二階堂氏は田布施(たぶせ、現在の南さつま市金峰)を拠点とする有力国人となる。

応永13年(1406年)、島津氏庶流の伊作久義に攻められ、当主の二階堂行貞は城を捨てて逃亡した。一族には島津氏に仕えた者もあり、二階堂氏から江戸時代には藩家老も出ている。

 

 

 

千葉氏(ちば)

建久8年(1197年)『薩摩国図田帳』によると、千葉常胤(ちばつねたね)が平家没官領を任されている。高城郡(たきぐん、現在の薩摩川内市西方・水引のあたり)、入来院(いりきいん、現在の薩摩川内市入来・樋脇)、祁答院(けどういん、現在の薩摩川内市祁答院・薩摩郡さつま町)、東郷別府(とうごうべっぷ、現在の薩摩川内市東郷)などの地頭に補任された。

千葉氏は桓武平氏の流れとされ、下総国千葉荘(ちばのしょう、現在の千葉県千葉市)を拠点に発展した。この一族の千葉常胤が源頼朝の軍に加わって活躍し、鎌倉幕府の重鎮となった。

 

宝治元年(1247年)に北条氏と三浦氏が争うなか(宝治合戦)で、千葉氏は敗れた三浦氏側に加担。戦後に薩摩国の領地も失った。

 

 

 

渋谷一族(しぶや)

桓武平氏のながれをくむ秩父(ちちぶ)氏の一族で、名乗りは本貫地である相模国渋谷荘(現在の神奈川県大和市周辺)に由来する。渋谷光重(しぶやみつしげ)が宝治合戦の恩賞で千葉氏の旧領である薩摩国北部(現在の鹿児島県薩摩川内市・さつま町)を与えられ、宝治2年(1248年)に5人の息子を移住させた。渋谷重光は長男家に関東の本拠地を相続させ、次男家・三男家・四男家・五男家・六男家には薩摩の任地を分割して与えた。それぞれが地名をとって東郷(とうごう)・祁答院(けどういん)・鶴田(つるだ)・入来院(いりきいん)・高城(たき)を名乗りとした。

 

東郷氏(とうごう)

渋谷重光の次男・早川実重が薩摩へ下向。東郷別府(現在の鹿児島県薩摩川内市東郷)を領した。

東郷氏は薩摩国の東郷・高城・水引(いずれも鹿児島県薩摩川内市)に勢力を保ち、14世紀から16世紀にかけて島津氏ともたびたび戦った。永禄12年(1569年)に東郷重尚(しげなお、東郷氏16代)が島津貴久に帰順して以降は、島津氏の家臣として家名を存続する。

 

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16世紀には、15代当主の東郷重治(しげはる)の嗣子がなく、菱刈(ひしかり)氏より養子を迎えた。これが東郷重尚である。さらに東郷重尚にも嗣子がなく、島津家久(いえひさ、島津貴久の四男)の次男が養子に入った。東郷重虎(しげとら)という。島津家一門に取り込まれるような感じとなった。

東郷重虎はのちに島津姓に復する(島津忠仍、ただなお)。その子らは、島津姓を返上して、再び東郷姓を称している。

 

ちなみに、明治時代に活躍する海軍大将の東郷平八郎(へいはちろう)もこの一族である。

 

 

祁答院氏(けどういん)

渋谷重光の三男・吉岡重保が薩摩へ下向。祁答院(現在の鹿児島県さつま町・薩摩川内市祁答院)を領した。

中世の祁答院氏は大きな力を持っていたようである。とくに15世紀末から16世紀半ばにかけて薩摩国・大隅国・日向国が大乱となる中で祁答院氏は気を吐く。島津貴久(相州家)・島津実久(薩州家)・島津勝久(奥州家、守護家)が一族内で抗争を展開している頃、祁答院重武(しげたけ)・祁答院良重(よししげ)が大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)にも勢力を広げた。

 

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16世紀半ばには大隅国帖佐・加治木(かじき、姶良市加治木町)で島津貴久と激しく争う。一度は降伏するも、天文23年(1554年)に祁答院良重は蒲生(かもう)氏とともに再び戦端を開く。「岩剣城の戦い」にはじまる「大隅合戦」である。

 

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大隅合戦に敗れた祁答院良重は帖佐を失うが、本領の祁答院では勢力を保ち続けた。しかし、永禄9年(1566年)に事件が起こる。祁答院良重は妻の虎姫に刺殺された。このあと、祁答院氏の所領は入来院氏に任されることになった。のちに、出奔していた祁答院重加(良重の三男)が嫡流と認められ、島津義久(よしひさ)に仕える。

 

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下の写真は薩摩郡さつま町宮之城にある虎居城跡。平安時代に大前(おおくま、おおさき)氏が築いたとされ、のちに渋谷一族の祁答院氏の居城となった。川内川がぐるっと取り囲むように流れていて、天然の堀という感じだ。

川越しの山城跡

虎居城跡と川内川

 

 

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鶴田氏(つるだ)

渋谷重光の四男・大谷重茂を祖とする。重茂は宝治合戦で戦死していたため、その子の重行が薩摩へ下向。鶴田(現在の鹿児島県さつま町鶴田)を領した。

 

鶴田氏は14世紀の南北朝争乱期を生き残るが、島津氏の総州家・奥州家の争いに巻き込まれる。鶴田重成は奥州家の島津元久(もとひさ)につき、渋谷一族のほか4氏は総州家の島津伊久(これひさ)と組んだ。応永8年(1401年)、島津伊久(総州家)は渋谷一族4氏とともに鶴田を攻めた。島津元久(奥州家)も鶴田に兵を出し、大合戦となった。「鶴田合戦」という。

 

鶴田合戦は総州家方が勝利し、鶴田氏は所領を失った。領主としての鶴田氏は没落した。

 

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入来院氏(いりきいん)

渋谷重光の五男・曽司定心が薩摩に下向し、入来院(現在の鹿児島県薩摩川内市入来)を領する。

 

14世紀の後半から15世紀にかけて、入来院氏はかなり強盛であった。とくに、南北朝争乱期の後半においては、九州探題の今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)に従い、入来院重頼(しげより)が「反・島津」の中心的な立場にあった。今川貞世(今川了俊)が九州を去ったあとは島津氏の猛攻を受けて入来院氏は降伏。一時は、入来院の地を失う。しかし、島津一族の抗争の混乱の中で、応永18年(1411年)に入来院重頼は入来院の清色城を奪還した。なお、その直後に島津元久(奥州家)が清色城を攻めるが、島津元久は陣中で倒れる。しばらくのちに鹿児島で没している。

 

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戦国時代に入っても入来院氏は薩摩国中部で勢力を保っていた。総州家が没落したあとはその旧領の一部も得ている。16世紀前半には薩州家との対抗からか、入来院重聡は相州家(島津忠良・島津貴久)と組む。

島津貴久の正室(継室)の雪窓院は、入来院重聡の娘である。雪窓院は島津義久・義弘・歳久の母でもある。

 

その後、入来院氏は島津氏に叛く。抗争を続けたが、永禄12年(1569年)に東郷氏とともに島津氏に降った。のちに入来院氏は後継者が不在となり、島津氏より養嗣子を迎え入れる。

入来院重時(しげとき、島津以久の次男)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍。撤退戦(島津の退き口」と呼ばれる)で戦線の離脱には成功するが、追手に見つかってしまい戦死する。入来院重時のあとは入来院重高(しげたか、島津義虎の五男)が家督を継いだ。

 

写真は入来院氏が築いた清色城。大胆に切れ込んだ堀切がある。国の史跡にも指定されている。

 

山城の入口、壁の高さを感じる

清色城跡の堀切

 

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高城氏(たき)

渋谷重光の六男・落合重定を祖とする。重茂は宝治合戦で戦死していたためのその子の重秀が薩摩へ。高城(現在の鹿児島県薩摩川内市高城・水引)を領した。

 

14世紀から15世紀にかけて、南九州の争乱の中で高城氏の名は見える。しかし、15世紀末に所領を失い、祁答院氏を頼って落ち延びた。それ以降は、祁答院氏の家老となった。

祁答院良重の家老であった高城重治は、祁答院氏が没落したあとは入来院氏に属した。その後、島津義久の家臣に召し出されている。

 

 

 

 

比志島氏(ひしじま)

薩摩国満家院(みつえいん、現在の鹿児島市郡山)に土着した一族である。

薩摩に流された志田頼重にはじまるという。この人物は志田義広(しだよしひろ、源義広、源頼朝の叔父)の息子とされる。頼重は島津忠久の庇護の下で満家院に滞在し、満家院郡司の大蔵永平の娘を妻とした。のちに、頼重は罪を許されて信濃国(現在の長野県)へ戻るが、大蔵氏娘との子を残していった。その子は満家重賢と名のり、大蔵氏から満家院を継承した。さらに重賢の子・祐範から比志島氏を名乗るようになった、という。

庶流に西俣氏・川田氏・小山田氏などがある。戦国時代には、比志島一族は島津氏の配下として活躍している。

 

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中原親能(なかはらのちかよし)

大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮)領は島津荘と並ぶ巨大な荘園である。その正八幡宮領の地頭には、中原親能が補任されていた。ただ、その期間はそれほど長くはなかったようだ。

建久8年(1197年)の大隅国と薩摩国の図田帳には正八幡宮領地頭に掃部頭(中原親能)の名が記されている。『吾妻鏡』の元久元年(1204年)10月17日の記録には、「掃部頭入道寂忍(中原親能)が正八幡宮領の地頭を解任されていた」ということが書かれている。

中原親能は源頼朝(みなもとのよりとも)に仕えた。政所公事奉行人や京都守護など幕府の要職を務め、日本各地に膨大な所領を得ていた。領地経営は代官に任せていたと思われる。出自は大和国の古代氏族の十市(とおち)氏を祖とする中原氏の一族。もともとは明経道や明法道に関わった家柄で、明法博士の中原広季の養子(実子という説もある)とされる。

ちなみに、鎌倉幕府政所別当の大江広元(おおえのひろもと)は弟にあたる。また、豊後国(現在の大分県)の大友氏の祖となる大友能直(おおともよしなお、近藤能直、中原能直)は中原親能の猶子である。

 

 

北条氏(ほうじょう)/名越氏(なごえ)

当初は島津忠久(しまづただひさ)が薩摩国・大隅国・日向国の守護を任されていたが、建仁3年(1203年)の比企能員(ひきよしかず)の乱に連座して守護職を罷免された。しばらくして島津忠久は薩摩国守護を回復するが、他の2ヶ国の守護職は取り戻すことができなかった。大隅国・日向国の守護職と島津荘地頭職は北条氏(一門の名越氏など)のものとなった。島津氏が大隅・日向を回復するのは鎌倉幕府の滅亡後である。

 

 

肥後氏(ひご)/種子島氏(たねがしま)

肥後氏はのちに種子島氏を名乗る一族である。名越氏の被官で、大隅国の守護代・地頭代を任されて現地に下向した。

種子島氏初代は肥後信基(肥後時信とも)とされ、平清盛の後裔を称する。肥後信基は平行盛(たいらのゆきもり、平清盛の孫)の遺児で、北条時政が養子として「時信」と名乗らせたという伝承がある。一方で、藤原北家勧修寺流とも言われ、こちらのほうが通説とされている。

名越氏が没落したあとも肥後氏は大隅にあり、国人として定着。嫡流は種子島(たねがしま)に入り、種子島氏を称するようになったという。

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<参考資料>

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
※『島津家文書』などからの抜粋を収録

『金峰町郷土史 上巻』
編/金峰町郷土史編さん委員会 出版/金峰町 1987年

『宮之城町史』
編/宮之城町史編纂委員会 出版/宮之城町 1974年

『祁答院町史』
編/祁答院町誌編さん委員会 発行/祁答院町 1985年

『南九州御家人の系譜と所領支配』
著/五味克夫 出版/戎光祥出版 2017年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

『現代語訳 吾妻鏡 7 頼家と実朝』
編/五味文彦・本郷和人 出版/吉川弘文館 2009年

『大隅国における建久図田帳体制の成立過程』
著/日隈正守
(『鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編 第60巻』(2009年)収録)

ほか