ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

薩摩・大隅に古くから住まう者たち (1) 加治木氏・市来氏・税所氏・禰寝氏(建部氏)・大前氏

平安時代以前に薩摩・大隅で大きな勢力を誇っていた氏族をまとめてみた。

 

大蔵一族

かなり古くから土着していたと思われる。大蔵(おおくら)一族の勢力範囲は大隅国桑原郡(現在の鹿児島県姶良市霧島市の西部)をはじめ、薩摩国日置郡(現在の日置市いちき串木野市鹿児島市の一部)など。在庁官人でもあったようだ。

大蔵氏は渡来系の東漢(やまとのあや)氏の後裔、あるいは秦(はた)氏の後裔とされる。名乗りの由来は、国庫である大蔵を管理したことから。江戸時代に薩摩藩が編纂した『三国名勝図絵』では「大藏氏は、其先後漢靈帝の裔孫、阿智王の後に出づ」と東漢氏後裔としている。


加治木(かじき)氏

大隅国桑原郡加治木(現在の姶良市加治木)を拠点としていた。薩摩国満家院(みつえいん、現在の鹿児島市郡山)のあたりにも大蔵氏があり、こちらも同族と見られている。

藤原氏を称するが、もともとは大蔵氏である。なぜそうなったのか? そのいきさつが『三国名勝図絵』にも記されている。

寛弘三年(1006年)に藤原経平(関白の藤原頼忠の息子とされる)が加治木に配流されてきて、そのときに世話をしたのが肥喜山という女性だった。加治木郡司の大蔵良長の後家(一説には大蔵良長の娘とも)で、加治木郡司職を引き継いでいたという。その後、肥喜山は経平と夫婦となり、ふたりの間に生まれた子が郡司職を継承。これが加治木家の初代とされる。伝承の信憑性はさておき、この時代ですでに、大蔵氏が土着してかなりの年月が経過していることがうかがえる。

下の写真は加治木城跡。家々の背後の山がそれである。この近くには春日神社(藤原氏氏神)もある。

鹿児島の城跡

加治木城跡の遠景

 

市来(いちき)氏

薩摩国日置郡市徃院(現在のいちき串木野市市来・日置市東市来)の院司(郡司)。宝亀年間(770年~781年)にこの地に下向した大蔵政房に始まる、と『三国名勝図絵』にはある。大蔵政房が何者なのかはわからない。それにしても下向の時代がかなり古い! 「政房」という名も、古代じゃなく中世っぽい感じもするが……。

 市来氏は寛元2年(1244年)に男児が絶えたために、秦氏後裔である惟宗(これむね)姓の国分(こくぶん、こくぶ)氏から養子を迎えた。それ以降は、惟宗姓を称するようになった。

なお、惟宗姓市来氏は、保明親王(やすあきらしんのう、醍醐天皇の皇子、別名で惟宗親王とも)の後裔と称していた。

  

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税所(さいしょ)氏

「税所」とは徴税のための職である。これを世襲していた一族が、税所氏を名乗ったとされる。大隅国囎唹郡(そお、曽野郡とも、現在の鹿児島県霧島市曽於市)の豪族だ。曽野(囎唹)郡司や在庁官人としてのほか、霧島神宮大隅八幡宮鹿児島神宮)の神職もまかされた。霧島神宮内には税所神社があり、現在も税所氏の末裔が集まって神事が行われている。

藤原姓を称する。始祖の税所篤如(敦如)は敦実親王宇多天皇の皇子)の後裔とされ、治安元年(1021年)に大隅国に下向したのがはじまりだという。このことは『薩藩名勝誌』や『三国名勝図絵』などに見え、通説となっている。

治安元年下向説を偽作とする見方もある。税所氏の末裔の方たちが編纂した『税所一族史記』によると、篤如の下向年は永久4年(1116年)であろう、としている。

税所氏を檜前氏(ひのくま、東漢氏系か)と関連づける説もある。古い史料に曽野郡(囎唹郡)に「檜前篤平」や「檜前篤季」といった名が見え、「篤」の通字は税所氏とも共通する。なお、こちらの説について、『税所一族史記』では否定的である。

 

建部(たけべ)氏/禰寝(ねじめ)氏

江戸時代末の鹿児島藩小松清廉(こまつきよかど、小松帯刀)という家老がいる。倒幕・明治維新で活躍した人物として知られている。この小松氏というのが、じつはかなり長い歴史のある家柄である。

「小松」の由来は平重盛(たいらのしげもり)を「小松殿」と呼んだことに由来する。かつては禰寝氏を称していたが、18世紀に「小松」と名乗りを変えた。禰寝氏初代は禰寝清重(ねじめきよしげ)とされる。もともとは「平清重」と名乗り、平重盛の孫にあたる平清高の遺児だという。清重が大隅国禰寝院南俣(ねじめいんみなみまた、現在の鹿児島県肝属郡南大隅町根占)に入り、禰寝院の豪族の建部清房(たけべのきよふさ、か)の娘を妻として土着。そして、禰寝氏を称するようになったという。

……と、平家遺児説について書いてきたが、これはだいぶ疑わしい。清重は建仁3年(1203)に禰寝院の地頭に補任されてこの地に入ったとされる。しかし、建久8年(1197年)の『大隅国建久図田帳』など、「建部清重」の名が確認できる史料もある。そして、多くの記録で禰寝氏は、平姓ではなく建部姓なのだ。

古いものでは、建部氏の名が『保安二年正月十日付権大掾建部親助解状』(『禰寝文書』に残る)で確認できる。保安2年(1121年)時点で建部親助が大隅国大掾の地位にあった。また、所領である禰寝院南俣を代々受け継いできたことも記されている。この文書が書かれた時点で、建部氏が土着してかなりの年月が経過しているという感じがある。

藤原頼光という人物から禰寝院南俣を譲り受けたのが始まりとも。それで、藤原姓を称していた時期もあったようだ。

建久8年(1197年)『大隅国建久図田帳』では、各地の領主を知ることができる。この中に建部一族がかなりいる。郡司や院司、在庁官人や荘官など立場もいろいろ。大隅八幡宮鹿児島神宮)領の荘官に建部氏が多く、こちらとの関係も深かったようだ。一族には佐多(さた)氏や田所(たどころ)氏、執行(しぎょう)氏と名乗る者もあった。

「建部」とは倭建命(ヤマトタケルノミコト)の御名代部(みなしろべ、倭建命に仕えた人々)であったという。どういう経緯で、建部氏の一族が南九州に土着したのかわからないが、興味深いところである。

写真は鹿児島市武にある建部神社(たけべじんじゃ)。禰寝氏が近江国(現在の滋賀県)の建部大社から勧請したのが始まりとされる。もともとは根占(禰寝院南俣)にあったが、永世17年(1520年)にこちらへ遷宮したとされる。なんと、現在は真下にトンネルの入り口がある。これって……いいのだろうか?

 

鹿児島の神社

武の建部神社

こちらは「宇都の板碑」と呼ばれるもの。肝属郡南大隅町根占にある。寺院の跡地で、禰寝清重・清忠・清綱の供養塔とされる。正応6年(1293年)の刻印がある。

鹿児島の史跡

宇都の板碑

 

大前氏

読みは「おおくま」とも「おおさき」とも。薩摩国中北部の川内川流域に勢力を持った一族である。勢力下にあったのは、東郷別府(とうごうべっぷ、薩摩川内市東郷)、祁答院(けどういん、現在の鹿児島県薩摩川内市祁答院、薩摩郡さつま町)、入来院(いりきいん、薩摩川内市入来・樋脇)など。大前一族には祁答院氏、時吉氏、滝聞氏、富光氏を名乗る者もあった。在庁官人でもあり、薩摩国において大きな力を持っていたと考えられる。

出自については、いくつかの系図が伝わっている。ひとつは、万寿5年(1028年)に醍醐天皇の曽孫にあたる源里用が薩摩国司として下向したことに始まるというもの。ほかに橘諸兄の子孫とする説、清和源氏足利氏説といったものもある。どの説もかなり怪しいものだが……。大前氏に関する資料はあまり残っていないため、詳細はよくわからない。

写真は薩摩川内市祁答院にある滝聞城(たきぎじょう)跡。大前一族の滝聞(たきぎ)氏の居城とされる。「堂山」とも呼ばれ、廃城後には寺堂が建立された。その石塔群が残っている。

鹿児島の城跡

滝聞城跡の石塔群

藺牟田城(いむたじょう)跡。大前氏の一族が築城したとされる。こちらも祁答院にある。

鹿児島の城跡

藺牟田城跡

 

 <参考資料>

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『薩隅日地理纂考』
編・出版/鹿児島県私立教育会 1989年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年

鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『加治木郷土誌』
編・出版/加治木郷土誌編さん委員会 1992年

『隼人郷土史
編/隼人郷土誌編集委員会 出版/隼人町 1971年

『国分郷土誌 上巻』
編/国分郷土誌編纂委員会 出版/国分市 1997年

『税所一族史記
編・発行/税所史編纂研究会 2001年

九州史料叢書『禰寝文書(一)』
編・刊行/九州史料慣行会 1958年

『根占郷土誌』復刻・改定版
編/根占郷土誌編さん委員会 発行/根占町 1996年

祁答院町史』
編/祁答院町誌編さん委員会 発行/祁答院町 1985年

『南九州御家人の系譜と所領支配』
著/五味克夫 出版/戎光祥出版 2017年

『渡来氏族の謎』
著/加藤謙吉 発行/祥伝社 2018年(電子書籍版)

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