ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

禰寝氏(小松氏)は南九州の古族なり、小松帯刀や山本権兵衛もこの一族

江戸時代末期(19世紀後半)の薩摩藩の家老に小松清廉(こまつきよかど)がいる。「小松帯刀(たてわき)」という通称のほうでよく知られていることだろう。この小松清廉(小松帯刀)は小松氏の29代当主である。

「29代」ということは、……単純計算で「4代で100年」と考えると700年くらい。つまり、ものすごく古い家柄なのだ。実際に初代は12世紀~13世紀の人物だ。

 

小松氏はもともとは禰寝(ねじめ)氏を称した。初代は禰寝清重(ねじめきよしげ)という。「建部清重(たけべのきよしげ)」「平清重(たいらのきよしげ)」と呼ばれたりもする。

禰寝氏は南九州の歴史においてちょくちょく登場し、なかなかに存在感のある一族なのだ。そんな禰寝氏について調べてみた。

 

 

 

 

「禰寝」って何だ?

「禰寝」を「ねじめ」と初見で読める人は、いないんじゃないかと思う。地名に由来するのだが、今はこの字を使っていない。現在は「根占」と書く。

大隅国に禰寝院(ねじめいん)というところがあった。場所は大隅半島の先っぽのほう。現在の鹿児島県肝属郡南大隅町や錦江町、鹿屋市の南部(大姶良や浜田)のあたりだ。「禰寝」の表記は史料によっていろいろ。「祢寝」「禰占」「祢占」「寝占」「根占」とも書かれる。

現在は南大隅町に「根占」があり、錦江町に「大根占(おおねじめ)」がある。「根占」は禰寝院南俣のうち、「大根占」は禰寝院北俣のうち。禰寝院南俣には佐多や田代なども含まれる。禰寝院北俣には大姶良や浜田なども含まれる。

なぜ、禰寝院の中で地域を南北に分けて呼ぶのか? その理由は、荘園の違いによるようだ。いまだに「根占」と「大根占」とに分けているのも、そんな歴史的背景が影響しているのだろう。

南九州には巨大荘園がふたつあった。

ひとつは島津荘(しまづのしょう)。11世紀初め頃に平季基(たいらのすえもと)が開いたもので、藤原摂関家の所有である。日向国・大隅国・薩摩国から寄郡(荘園に寄進していながら、国衙の支配下にもある)を集めて巨大化した。

もうひとつは大隅正八幡宮領(おおすみしょうはちまんぐうりょう)だ。大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)が広範囲の土地を保有していた。


禰寝院南俣(禰寝、小禰寝ともいう)は「大隅正八幡宮領」、禰寝院北俣(大禰寝)は「島津荘」であった。

 

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「小松」に改姓、なぜ?

禰寝氏は平姓を称する。初代の禰寝清重は平重盛の曾孫にあたるとしている。禰寝氏に伝わる系図によると、その始まりはつぎのとおり。

12世紀末、源頼朝により平氏政権が打倒され、平氏一門が没落する。平維盛(重盛の子)の遺児の六代(ろくだい、平高清)は母とともに京に潜伏していたが、源氏方に捕らえられた。そして、六代(平高清)は出家した。その後、建仁3年(1203年)に誅殺されたという(諸説あり)。

平高清には遺児があり、北条時政のはからいでその命は救われたという。それが平清重であった、と。大隅国禰寝院南俣の地頭職に補任されで下向。在庁官人でもあった建部清房(たけべのきよふさ)の娘を妻に迎えて禰寝に根づき、禰寝氏を名乗るようになったのだという。

「禰寝」から「小松」への改姓は、24代目の小松清香の頃。18世紀のことである。「小松」というのは、平重盛が「小松殿」「小松内大臣」と呼ばれていたことに由来する。

平姓であること、そして平重盛の末裔であることを強く主張したかったのだろう。改姓には、そんな意志が感じられる。

 

 

 

じつのところは建部氏

平家の遺児が下向して……という話は、だいぶあやしい。というのも、建久8年(1197年)の『大隅国図田帳』に建部清重の名が出てくるのだ。また、禰寝氏に関連した書状などでも、建部姓で記されているのである。

「保安二年正月十日付権大掾建部親助解状」(『禰寝文書』にある)には、保安2年(1121年)に建部親助が大隅国権大掾であったこと、姓(かばね)が宿祢(すくね)であること、所領として禰寝院南俣を代々受け継いできたことが記されている。建部氏はかなり昔からこの地にあるようだ。

建部清重(禰寝清重)は平家の遺児が婿入りしたのではなく、もともと建部氏の出身であった可能性が高い。


ちなみに、建部氏は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の名代部にはじまるとされる。軍事氏族だったという。

建久8年(1197年)の『大隅国図田帳』には、建部一族の名があちこちに見える。いずれも大隅正八幡宮領との関わりがうかがえる。建部氏は国衙官人であり、禰寝院の院司(郡司)であり、そして大隅正八幡宮の神職も兼任していた。

建部氏は藤原頼光から禰寝院南俣を相伝したとも伝わる。藤原頼光は禰寝院の広範囲にわたって所領(国領か)を管理していたっぽい。

建部氏は大宰府から大隅国に入った一族である可能性もありそう。南九州に入った時期についてはわからない。記録からは11世紀にはすでに来ていたことがうかがえる。


大禰寝院(禰寝院北俣)のほうを領したのは藤原氏であった。こちらも禰寝氏を名乗った。「藤原姓禰寝氏」と呼ばれる。島津荘の管理者であったようだ。

藤原姓禰寝氏は大隅半島の広範囲を領有。領地を名乗りとし、富山(とみやま)・大姶良(おおあいら)・志々目(しじめ)・浜田(はまだ)・横山(よこやま)などを称した。

「禰寝」「祢寝」「禰占」「祢占」「寝占」「根占」を苗字とする者は、建部姓(平姓)禰寝氏あるいは藤原姓禰寝氏のいずれかにルーツがある可能性が高い。

 

 

 

禰寝氏と菱刈氏の争い

建久8年(1197年)の『大隅国図田帳』にはこうある。

祢寝南俣四十丁
正首領 本家八幡 地頭掃部頭
郡本三十丁 丁別廿疋 元建部清重所知 賜大将殿御下文菱刈六郎重俊知行之
(『大隅国図田帳』より)

 

本家は八幡(大隅正八幡宮)で、惣地頭は掃部頭。掃部頭は中原親能(なかはらのちかよし)のこと。そして郡本三十丁は建部清重の領地だったけど、これを菱刈六郎重俊に知行した、と。

源平争乱のあと、建部清重は禰寝院南俣の所領を没収されたようだ。平家方についていたのだろう。

一時的に禰寝院南俣は菱刈(ひしかり)氏が領したのである。

 

菱刈(ひしかり)氏は大隅国菱刈郡(鹿児島県伊佐市菱刈)に所領を持つ一族だ。藤原姓を称する。「悪佐府」の異名で知られる藤原頼長の後裔を称しているが、これはちょっとあやしいところである。

菱刈氏は島津荘と関わりがあったようで、源平争乱期には源氏方についたのだろう。もしかしたら、大禰寝の藤原姓禰寝氏ともつながりがあるのかも。

 

その後、建部清重は失地を回復する。建仁3年(1203年)には禰寝院南俣の地頭職に補任され、郡司(院司)職も兼任した。

今度は菱刈氏がこの地の領有権を幕府に訴える。建部氏と菱刈氏の争論は長引くが、大隅正八幡宮を味方につけた建部氏が禰寝院南俣の領有権を勝ち取った。

 

 

 

南大隅の支配者

13世紀から14世紀にかけて、禰寝氏は南大隅で地盤を固めていく。

当初、島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)が大隅国守護職に任じられていたが、建仁3年(1203年)の比企能員の変に連座してその地位を失う。以降は幕府執権でもある北条氏が大隅国の守護となった。

禰寝氏は北条氏のもとでうまく立ち回ったようだ。禰寝院の地頭と郡司を兼任する。蒙古襲来においては禰寝清親が博多に出陣している。

鎌倉時代の終わり頃の段階では、大禰寝院にも勢力を広げ、藤原姓禰寝氏も配下に置いている。

 

禰寝氏は富田城(とみたじょう、別名に禰寝城とも、南大隅町根占川南)や国見城(くにみじょう、南大隅町根占川北)を居城とした。


写真は根占の諏訪神社。並立鳥居が特徴的だ。鎮座地は富田城の麓にあたる。

並立鳥居のある神社

諏訪神社、背後の山のほうが富田城跡にあたる

 

諏訪神社の近くには「宇都の板碑」と呼ばれているものもある。この地に岩林寺という寺院があったという。永仁2年(1294年)の紀年銘がある。現地の看板によると、禰寝清重・禰寝清忠・禰寝清綱(禰寝氏の初代・2代・3代)の供養塔と推測されているとのこと。

寺院跡の板碑

宇都の板碑

 

 

南北朝争乱期、北朝方につく

14世紀に鎌倉の幕府が倒れ、元弘3年(1333年)に後醍醐天皇による親政が始まった。「建武の新政」とも呼ばれる。しかし、この政権は短期間で崩壊。足利尊氏が反乱を起こして、延元元年(1336年)に新政権を樹立(北朝)。一方で、逃亡した後醍醐天皇も朝廷を開く(南朝)。北朝方と南朝方に分かれて、日本国内は大規模な内乱に突入した。

 

大隅国や日向国では肝付兼重(きもつきかねしげ)が南朝方として挙兵する。肝付氏は肝属郡高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)を拠点とし、禰寝氏の勢力圏とも接している。

足利尊氏は南九州の南朝方の鎮圧を禰寝氏にも命じた。禰寝氏はこれに従い、島津貞久(さだひさ、島津氏5代)の軍に属して肝付兼重を攻めた。

その後、足利一族の畠山直顕が日向方面の攻略担当として派遣されると、禰寝氏は畠山氏に従って行動する。この頃の戦いに参加した禰寝一族には禰寝清成・禰寝清種・禰寝清道といった名が確認できる。

禰寝清成・禰寝清種・禰寝清道は薩摩国にも兵を出し。島津貞久の軍勢にも加わっている。

 

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観応元年・正平5年(1350年)前後の頃には、足利家で内訌が勃発。「観応の擾乱」と呼ばれるものである。九州では足利直冬(ただふゆ、足利尊氏の庶長子、足利直義の養子)が第三勢力を形成する。足利直冬が佐殿(すけどの)と呼ばれていたことから、「佐殿方」といったりする。幕府方(北朝方)・南朝方・佐殿方による三つ巴の争いとなる。

畠山直顕は佐殿方につく。禰寝氏もこれに従った。一時は南朝方に転じた島津氏とは敵対関係となった。

畠山直顕は北朝方に復帰するが、その後も島津氏との抗争は続く。禰寝氏は引き続き畠山氏に従って転戦した。

 

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九州では南朝方が優勢となる。島津氏(南朝方)は志布志で畠山軍を破って敗走させた。畠山氏は敗戦が続き、延文3年・正平13年(1358年)頃には日向の地を失う。禰寝氏は畠山氏と運命をともにはしなかった。南大隅に勢力を保ち続けているところを見ると、南朝方に転じたのだろうか。

 

応安4年・建徳2年(1371年)、今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)が九州探題として九州入り。九州の有力者に協力を呼びかけ、島津氏久(うじひさ)もこれに応じた。南朝方を押し返し、九州の情勢が北朝方優位になっていく。

しかし、永和元年・天授元年(1375年)の「水島の変」をきっかけに、島津氏久は幕府方(北朝方)を離反。今川貞世(今川了俊)と激しく対立する。

 

今川貞世(今川了俊)は島津氏との戦いにために、南九州の国人衆を味方につけようとした。禰寝久清も熱心な勧誘を受けている。禰寝氏はなかなか動かなかったが、今川氏側につき島津氏と戦った。

 

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戦乱つづく

南北朝争乱期を禰寝氏は生き残る。難しい時代をうまく立ちまわり、南大隅の支配権をしっかりと固めた印象もある。

 

15世紀に入ると、南九州はさらなる乱世に突入。島津氏では一族内での抗争が激しくなる。

総州家(そうしゅうけ)と奥州家(おうしゅうけ)の対立にはじまり、覇権を握った奥州家の中でも抗争が生じる。

後継者問題のあった奥州家では、島津久豊(ひさとよ)が強引に家督をついだ。薩摩国に地盤を持つ総州家・伊集院(いじゅういん)氏・伊作(いざく)氏などの一門衆が反発し、大乱となった。

島津久豊はもともと日向国・大隅国に地盤を持っており、こちらの領主たちに支持されていた。禰寝氏も島津久豊に味方した。

応永24年(1417年)、薩摩国河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)を島津久豊は攻めた。総州家と伊集院頼久の軍勢と大合戦となった(鳴野原の戦い)。この戦いでは、島津久豊の軍は大敗。従軍した禰寝清平は戦死している。

その後、島津久豊が盛り返して伊集院頼久らを降伏させる。島津久豊は反抗勢力をおさえて覇権を確立した。禰寝重清(清平の子)は、島津久豊・島津忠国(ただくに)に従う。

 

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13代の禰寝忠清(禰寝尊重)は、島津忠昌(ただまさ、島津氏11代)の加冠で元服。島津忠昌に従って戦っている。

禰寝氏は島津氏(奥州家)と良好な関係を保ちつつ発展していった。

 

 

 

戦国時代を生き残る

15世紀末頃から、島津本宗家(奥州家)は弱体化していく。分家や庶家が独自に動くようになり、反乱が起きることもしばしば。南九州は群雄割拠の様相となっていく。そんな中で禰寝氏も戦国大名化していく。

 

 

禰寝重就

16世紀初めの禰寝氏当主は禰寝重就(しげなり)という。禰寝清重から数えて14代目にあたる。母は肝付兼連(きもつきかねつら)の娘。妻には豊州家(ほうしゅうけ、島津氏の分家のひとつ)の島津忠朝(ただとも)の娘を迎えている。

 

島津氏本宗家では当主の早世が続き、分家の相州家(そうしゅうけ)と薩州家(さっしゅうけ)が介入して、覇権を争った。この頃の島津氏当主は島津勝久(かつひさ)であった。島津勝久は薩州家から正室を迎えていたが離縁。その後、禰寝重就の娘を妻に迎えている。この禰寝重就の娘は島津勝久の子も産んでいる。

 

 

禰寝清年

禰寝氏の15代当主は禰寝清年(きよとし)という。永正7年(1510年)の生まれ。家督をついだのはいつ頃なのかはわからないが、享禄2年(1529年)には禰寝氏の代表者として名前が見える。正室は薩州家の島津忠興(ただおき)の娘だ。

 

島津家では、大永6年(1526年)に相州家の島津忠良(ただよし)がクーデターを起こす。島津忠良は嫡男の島津貴久を擁立して、島津忠兼(のちに島津勝久に改名)を隠居させる。一時は覇権を握った相州家だったが、翌年には薩州家がこれをひっくり返す。島津勝久を守護に復帰させ、薩州家が実権を握った。

ちなみに、禰寝清年の妹は前述のとおり島津勝久の後室となる。禰寝氏は島津勝久の支援者であった。

 

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守護の島津勝久と、薩州家の島津実久(さねひさ)は、はじめのうちは協力して政権を運営していた。しかし、その関係は次第に悪化する。

島津勝久は末弘伯耆守・小倉武蔵守・竹内某・碇山某を側近とし、旧来の国老衆を遠ざけていた。国老衆は島津実久(薩州家)ともに諫めるが、島津勝久は聞かず。天文3年12月(1535年1月)に事件が起こる。国老の川上昌久(かわかみまさひさ)が末弘伯耆守を殺害。これに驚いた島津勝久は鹿児島から逃亡する。このとき、禰寝清年のもとに身を寄せている。

この事件は、国老衆による島津実久(薩州家)の守護擁立を企てたものだろう。

 

その後、島津勝久は鹿児島に戻り、川上昌久を自害させた。これに反発した国老衆は島津実久(薩州家)と結んで挙兵。島津勝久は援軍を招集するが敗れ、鹿児島から逃亡した。そして、島津実久(薩州家)が実権を握る(守護職に就いたという説もある)。

島津勝久は、今度は島津貴久(相州家)と結ぶ。島津貴久(相州家)は島津実久(薩州家)を攻めて鹿児島をとる。

島津貴久はさらに薩摩半島中南部の薩州家領内も攻める。市来城(いちきじょう、鹿児島県日置市東市来)攻めの際には、禰寝清年も加勢している。

薩州家を追い散らした島津貴久は、そのまま島津家の覇権を握る。島津勝久は鹿児島に戻ることはなかった。

 

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天文10年(1541年)、島津貴久に従わない13人の有力者が結託して反乱を起こす。中心人物は本田薫親(ほんだただちか)・肝付兼演(きもつきかねひろ、加治木肝付氏)など。島津勝久の家老である。13人衆の中には禰寝清年の名もある。また、島津一門の有力者である島津忠広(ただひろ、豊州家)や北郷忠相(ほんごうただすけ)もこれに加わる。島津勝久は北郷氏のもとに身を寄せている。この反乱は島津勝久の復権を目指したものだったのだろう。

島津貴久は、本田薫親と単独で和睦することで反抗勢力の切り崩しにかかる。さらに本田氏の内訌に介入して、その所領を奪う。本田氏は没落する。肝付兼演も抗戦するも和睦。島津忠広・北郷忠相も帰順する。島津勝久は豊後国(現在の大分県)の大友氏を頼って逃亡した。

分家出身の島津貴久が、島津家の本流となった。

 

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一方、大隅半島では高山の肝付兼続(きもつきかねつぐ)が勢力を広げる。禰寝氏も肝付氏と連携をとるようになっていく。また、下大隅(現在の鹿児島県垂水市のあたり)の伊地知重興(いじちしげおき)も肝付兼続と結ぶ。

肝付兼続は島津貴久と同盟関係にあった。天文23年(1554年)に島津氏は岩剣城(いわつるぎじょう、鹿児島県姶良市平松)を攻めた際には、肝付兼続は援軍を出している。このときに禰寝氏も参戦した。

肝付氏は島津貴久と同盟を保ちつつも、北郷氏や島津氏豊州家と勢力争いを展開する。島津貴久は北郷氏・豊州家を支援する。肝付氏との関係は決裂する。禰寝氏も再び島津貴久と敵対関係となる。

 

 

禰寝重長

16代目は禰寝重長(しげたけ)という。父は禰寝清年。母は島津忠興(薩州家)の娘。天文5年(1536年)の生まれ。正室は肝付兼続の娘で、肝付氏との結びつきの強さもうかがえる。

永禄4年(1561年)、島津氏と肝付氏は全面戦争に突入する。肝付・禰寝・伊地知の連合軍は大隅国の廻城(めぐりじょう、鹿児島県霧島市福山町)を攻め落として入城。島津貴久はこれを奪還しようと軍を進めてくる。

廻城の攻防は肝付氏が制した。この地は肝付氏が支配するところとなった。

その後、島津貴久は肝付氏と矛を交えず。日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)に侵攻し、薩摩国北部・大隅国北部の菱刈(ひしかり)氏や渋谷(しぶや)氏の攻略に動く。

 

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島津貴久は永禄12年(1569年)に菱刈氏を降伏させる。また、翌年には渋谷一族(入来院氏・東郷氏)も帰順させた。薩摩国と大隅国西部を制圧した。

元亀2年(1571年)6月、島津貴久が没する。すると、肝付氏・禰寝氏・伊地知氏ら大隅勢は動く。また、日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)とも連携をとる。

元亀2年11月、大隅勢は水軍を繰り出し(軍船100艘以上とも)、島津氏の本拠地である鹿児島を襲う。

なお、肝付兼続は永禄9年(1566年)に亡くなっており、この頃の肝付氏の当主は肝付良兼(よしかね)あるいは肝付兼亮(かねすけ)であった。肝付良兼の没年は諸説あり、すでに亡くなっていたとも。

禰寝重長の水軍は薩摩国揖宿(いぶすき、鹿児島県指宿市)に侵攻し、島津義久(よしひさ、島津貴久の次男)と交戦したとも。

大隅勢は鹿児島湾で戦うも、島津歳久(としひさ、島津貴久の三男)・島津家久(いえひさ、貴久の四男)に撃退される。制海権を奪われ、押し返される。

同じ頃に伊東氏も動いた。日向国真幸院の島津氏領内に出兵する。島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ、島津貴久の次男)が迎え撃ち、伊東軍は大敗を喫する(木崎原の戦い)。

 

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島津義久は大隅半島へ撃って出る。また、肝付氏は大隅国住吉原(すみよしはら、鹿児島県曽於市末吉町南之郷)で北郷時久(ほんごうときひさ)と決戦にのぞみ大敗する。

大隅勢の形勢が悪くなっていく中で、島津義久は禰寝氏の調略に動く。元亀4年(1573年)2月、禰寝重長はこれを受け入れて降伏した。

 

禰寝氏が寝返ったことで、戦況は一気に動く。肝付氏・伊地知氏は禰寝を攻める。禰寝重長は応戦。島津方の援軍も渡海し、相手を撃ち破った。

その後、島津方は下大隅を攻める。天正2年(1574年)に伊地知重興と肝付兼亮は降伏。島津氏は大隅国も制圧した。

なお、禰寝氏には鹿屋院(かのやいん、鹿児島県鹿屋市)が加増されている。調略に応じたことで、禰寝氏は好条件で島津氏の傘下に入ることができた。

禰寝重長は天正8年(1580年)に没した。家督は嫡男の禰寝重張(しげひら)がつぐ。禰寝重張は鬼丸大明神(現在の鬼丸神社)を創建し、ここに禰寝重長を祀った。

 

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禰寝重張、吉利へ移封

17代目の禰寝重張は永禄9年(1566年)の生まれ。母は肝付兼続の娘。正室には島津家久(貴久の四男)の娘を迎えていて、島津家中では厚遇されたようだ。

文禄4年(1595年)、禰寝重張は薩摩国吉利(よしとし、鹿児島県日置市日吉町吉利)に移封となる。この頃の島津氏は豊臣政権下にある。検地のあとに豊臣秀吉が所領替えを命じてきたのだ。古来より守ってきた禰寝の地を離れることになった。

禰寝にあった鬼丸大明神や菩提寺の園林寺も、吉利に移された。なお、鬼丸大明神(鬼丸神社)は、現在も根占と吉利に鎮座している。

石造りの鳥居と橋がある

吉利の鬼丸神社

 

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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに、禰寝重張は従軍している。退却戦(島津の退き口)で戦場を離脱するが本隊とはぐれてしまう。潜伏していたが見つかって捕縛され、投獄された。慶長7年(1602年)、赦免されて薩摩に帰国した。

禰寝重張は寛永6年(1629年)に没する。

 

 

島津家から養子を迎える

禰寝重張は隠居し、次男の禰寝重政(しげまさ)に家督を譲る。しかし、禰寝重政は若くして没してしまう。長男も早世していて、禰寝氏の後継者がいなくなった。

そこで、藩主の島津家久(いえひさ、島津忠恒、ただつね、島津義弘の子)の九男の福寿丸が養子として入り、禰寝家を継ぐことになった。寛永4年(1627年)のことだった。

福寿丸は寛永11年(1634年)に禰寝家を離れ、永吉島津家の家督を継ぐ。島津久雄(ひさたか)と名乗る。禰寝家には、代わって島津家久(島津忠恒)の八男が入り、禰寝重永(しげなが)と名乗った。

禰寝氏本家は島津氏の血に変わる。島津氏の一門のような扱いを受け、家老を出すなど藩の要職を担った。

 

 

小松清廉(小松帯刀)

安政2年(1855年)、28代目当主の小松清猷が急死する。後継者がなかったため、翌年に喜入肝付氏(かつての加治木肝付氏)から肝付兼戈(きもつきかねたけ)が養子として入ることになった。肝付兼戈は小松清猷の妹の千賀(近、ちか)を妻とし、名を「小松清廉」と改める。婿入りするかたちでの家督相続だった。

 

小松清廉(小松帯刀)は藩の要職を任される。文久2年(1862年)には家老に任じられた。御軍役掛・鋳製方掛・御流儀砲術方掛・琉球掛・唐物取締掛・御製薬方掛・造士館演武館掛・御改革御内用掛・御勝手方掛・蒸気船掛などを兼務する。藩内のあらゆる仕事(ほとんど全部)の責任者となった。

藩主の島津忠義(ただよし)と国父の島津久光(ひさみつ)のもとで、小松清廉(小松帯刀)はバリバリ働く。時代は倒幕へと向かう。薩摩藩は佐幕派から倒幕派へと転じる。その中で藩の舵取りをした。

倒幕ののち、新政府でも要職を任されるが、明治3年(1870年)に没した。

吉利の園林寺跡には小松氏(禰寝氏)累代の墓がある。小松清廉(小松帯刀)もここに眠る。

小松氏の墓

吉利の園林寺跡

 

喜入肝付氏についてはこちらの記事にて

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分家には山本権兵衛も、武豊や加山雄三も

禰寝氏の歴史は確認できるだけでも1000年ほど続く。歴史が長いだけあって、分家もかなり多い。

松沢(まつざわ)・佐多(さた)・田代(たしろ)・角(すみ)・西本(にしもと)・宮原(みやはら)・山本(やまもと)・池端(いけはた)・鳥浜(とりはま)・武(たけ)……など。

これらは、鹿児島県内ではときどき見かける苗字である。

じつは、海軍大将や内閣総理大臣などを歴任した山本権兵衛(やまもとごんべえ)は禰寝一族の山本氏である。競馬界の武豊さん・武幸四郎さん、俳優の加山雄三さんなども、禰寝一族だという。

 

山本権兵衛

山本氏は、禰寝清治(禰寝清重から数えて5代目)の子の禰寝清高にはじまるという。山本の名乗りは、禰寝院の「山本」という地名にちなむ。

 

山本権兵衛は嘉永5年(1852年)に鹿児島城下の下加治屋町(鹿児島市加治屋町)で生まれた。山本五百助盛珉の六男で、父は藩に祐筆として出仕していたという。下加治屋町は西郷隆盛・大久保利通・大山巌・岩下方平・東郷平八郎・樺山資紀など幕末から明治時代にかけての大物を多数輩出したところでもある。

文久3年(1863年)、鹿児島湾にイギリス艦隊が襲来して戦闘となる。薩英戦争である。山本権兵衛は12歳(数え年)。年少のため戦列には加わることはできなかったが、砲弾の運搬などの雑役に従事したという。慶応3年(1867年)に16歳(数え年)で藩兵となり、藩主の島津忠義の上京に追従している。翌年、鳥羽伏見の戦いに従軍。さらに越後や庄内の戦いに参加した。

 

明治政府では海軍に入る。明治24年(1891年)には海軍省大臣官房主事に任じられる。明治27年(1894年)には海軍大臣副官に任じられ、日清戦争を戦った。

明治31年(1898年)には海軍大臣となる。明治37年(1904年)の日露戦争の際には、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命した。また、この頃に海軍大将にも任官する。

大正2年(1913年)から翌年にかけて内閣総理大臣を務める。その後、大正12年(1923年)にも内閣総理大臣に就任している。

 

 

武彦七と園田実徳

日本の近代競馬の草創期に関わった人物に武彦七(たけひこしち)がいる。武豊さんの曽祖父にあたる。武彦七は薩摩藩士の家の生まれだ。

武氏は、禰寝重俊が薩摩国鹿児島郡武(たけ、現在の鹿児島市武)の地を拝領したことにはじまるとされる。「武」は古くは「田毛」とも書き、稲田が広がる場所だった。なお、武(たけ)の地には建部神社も鎮座する。これは禰寝(根占)から遷したもの。

武重俊(禰寝重俊)は16世紀頃の人物で、禰寝清年の子である。島津氏に従い、武氏は江戸時代以降も薩摩藩に仕えた。


武彦七は、鹿児島城下の下荒田(しもあらた、鹿児島市下荒田)の園田(そのだ)家に生まれた。父は武(たけ)家から養子に入っていた。息子の彦七が武(たけ)家に戻り、そちらの家をつぐことになった。

実兄は園田実徳(そのださねのり)という。こちらは園田家をついでいる。園田実徳は北海道開拓使に出仕したのち、実業家に転身する。北海道函館の産業開発に手広く関わった。

園田実徳の事業のひとつに牧場経営もあった。明治20年(1887年)に渡島国亀田郡桔梗村(北海道函館市桔梗町)で「園田牧場」を開設。牛馬の生産を行うようになった。また、日本の近代競馬の草創期にも関わる。北海道共同競馬会社の発起人となったほか、日本競馬会の会長も務めた。

 

牧場経営は弟の武彦七に任された。園田牧場は北海道の畜産業の発展に貢献する。

 

 

加山雄三さんは池端氏

俳優の加山雄三さんの本名は、「池端」さんである。もともとは薩摩藩士の家柄で、祖父は軍人だったという。NHKの『ファミリーヒストリー』でも、そのルーツが紹介されていた。

池端氏は禰寝清種(池端清種)を祖とする。5代当主の禰寝清治の孫にあたる。「禰寝清種」の名は南北朝争乱期に確認できる。畠山直顕に従って各地を転戦している。

 

 

 

 

 

<参考資料>

『旧記雑録拾遺 家わけ一』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1987年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1972年

『島津国史』
編/山本正誼 発行/鹿児島県地方史学会 1972年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『旧記雑録拾遺 地誌備考 七』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 2020年

『大隅国建部氏系図考証(1)』
著/日隈正守 

『大隅国建部氏系図考証(2)』
著/日隈正守 

『平安後期から鎌倉期における大隅国正八幡宮の禰寝院支配』
著/日隈正守 2010年

鹿児島県史料集21『小松帯刀傳』『薩藩小松帯刀履歴』『小松公之記事』
編・発行/鹿児島県史料刊行会 1980年

『伯爵山本権兵衛伝』
編/伯爵山本海軍大将伝記編纂会 発行/原書房 1968年

『函館市史 別巻 亀田市編』
発行/函館市 1978年

ほか