ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

牛根麓稲荷神社の埋没鳥居、桜島の大噴火の凄まじさを伝える

ここは桜島が近い。牛根麓稲荷神社(うしねふもといなりじんじゃ)は鹿児島県垂水市牛根麓に鎮座する。

桜島は日常的に噴火する活発な火山だ。大噴火の記録も残っていて、近い時代では大正3年(1914年)のものがよく知られている。大正大噴火では桜島の中腹から溶岩を噴出し、大量の火山灰も吐き出した。桜島東部の鍋山付近から出た溶岩流は海峡を埋め、大隅半島と陸続きになった。

大正噴火でつながったところは瀬戸(せと)と呼ばれるところ。牛根麓稲荷神社はそのすぐ近くだ。ここには大噴火で灰に埋もれた鳥居がある。

 

 

牛根麓稲荷神社の御由緒

創建は天正2年(1574年)9月13日(日付は旧暦)。

牛根はもともと肝付(きもつき)氏のものであった。天正2年1月に島津義久(しまづよしひさ)が牛根を攻め、入船城(いりふねじょう、牛根城)を守る安楽兼寛(あんらくかねひろ)を降伏させた。牛根は島津氏のものとなり、伊集院久道(いじゅういんひさみち)を地頭に任じてこの地を治めさせた。

伊集院久道は入船城の麓に稲荷神社を祀った。稲荷神(イナリノカミ、ウカノミタマノカミ)は島津氏の氏神である。民心の慰撫のため、そして島津氏の権勢を示すためでもあったという。

御神体は伊集院久道が奉納した掛け軸であったとされる。入船城にあった荒神も遷して合祀したとも。

 

 

埋没鳥居を見にいく

国道220号沿いに「牛根麓埋没鳥居展望公園」の案内看板がある。「道の駅たるみず」から西へ1㎞ほどの場所になる。案内板に従って細い道を入っていくと駐車場がある。ここに車を置いて、あとは徒歩で登る。

山を登っていく

稲荷神社への登山口

 

登山道の距離はそんなにない。5分くらいで埋没鳥居に到着する。

緑に覆われた遊歩道

登山道はこんな感じ


石造りの鳥居だ! 火山灰に埋もれている。現地看板によると、もともとはもっと深く埋まっていたそうで、1.45mの高さまで掘り出しているとのこと。

火山灰に埋まった鳥居

火山灰に埋没した鳥居

 

鳥居の笠木・島木はなかほどで割れて上下にずれている。噴火の際に発生した大地震でこうなったそうだ。貫や神額はない。落ちてしまったのだろう。ずれた断面の一部はぴったりとくっついたまま安定。100年以上経過しても離れないことにあやかって、埋没鳥居には良縁・夫婦円満・学業成就の御利益があるとも。

石造りの鳥居

ちょっと近づいて

笠木がずれた鳥居

割れて、ずれて、安定している

 


埋没鳥居からさらに上へ。稲荷神社の祠をお詣りする。「寛政六年(1794年)」と刻まれた石灯籠も見られる。

山中に祀られた祠

祠は新しめ

石灯籠に「寛政六年」の文字

そばにあった石灯篭


鳥居の近くには、視界の開けた広場もある。ここが展望広場だ。牛根の街並みの向こう側に桜島が見える。南岳火口・昭和火口もよく見える。

高台の展望所

展望広場、写真奥の山が入船城跡

海と桜島を高台から見る

桜島と瀬戸をのぞむ


ちなみに、大正噴火の埋没鳥居というと、桜島黒神(鹿児島市黒神町)の腹五社神社(はらごしゃじんじゃ、黒神神社)のものがよく知られている。ネット検索でもこっちのほうがよく引っかかったりする。

牛根麓稲荷神社の埋没鳥居も見応えがある。こっちももう少し知名度が上がってほしいな、と思う。

 

桜島や垂水に関する記事はこちらにも。

rekishikomugae.net

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島津と肝付の最終決戦の地

16世紀、島津氏は薩摩国から勢力を拡大。一方、肝付氏は大隅半島を制圧する。両者はぶつかり、南九州の覇権を争うようになった。牛根はその最終決戦地でもあるのだ。

青空と山城跡

入船城(牛根城)跡を見上げる

 

肝付氏は大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点とし、11世紀以前より大隅半島に根をおろした一族である。第16代当主の肝付兼続(きもつきかねつぐ)は一族の最盛期を築き上げ、肝付氏を戦国大名へと発展させた。

 

肝付氏の詳細はこちら。

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肝付兼続は島津貴久(しまづたかひさ、島津氏15代当主)の姉を妻とし、当初は島津氏と同盟関係にあった。しかし、両者は決裂。永禄4年(1561年)の廻城(めぐりじょう、鹿児島県霧島市福山町)の戦い以降は、激しく争うようになるのである。肝付氏は、同じく大隅半島の国人である禰寝重長(ねじめしげたけ)・伊地知重興(いじちしげきおき)と連衡して島津氏に対抗。また、日向国に大きな勢力を持つ伊東義祐(いとうよしすけ)とも結んだ。肝付兼続は永禄9年(1566年)に没するが、あとをついだ嫡男の肝付良兼(よしかね)もよく戦った。鹿児島湾の制海権も握り、島津氏を苦しめた。

元亀2年から天正2年にかけて(1572年~1574年)、肝付氏と島津氏は鹿児島湾沿岸で戦う。この頃は肝付良兼は没し、まだ若い肝付兼亮(きもつきかねあき、良兼の弟)が家督をついでいる。大隅勢(肝付・禰寝・伊地知)は水軍を繰り出して攻めかかると、島津側はこれを撃退する。そして、島津勢は渡海して大隅半島へ渡り、向島(むこうじま、桜島)や下大隅(しもおおすみ、現在の垂水市)に出征する。

元亀3年(1572年)に伊東氏が「木崎原の戦い」で大敗すると、大隅勢も苦しくなる。島津勢が連戦を制していく。そして、天正2年に島津義久は牛根を攻める。肝付氏も大軍を布陣して対抗する。戦いは島津軍が勝利し、入船城(牛根城)も開城した。

牛根での敗戦ののち、肝付氏は降伏勧告を受け入れる。

 

島津氏と肝付氏の戦いの詳細は、これらの記事にて

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『桜島町郷土誌』
編/桜島町郷土誌編さん委員会 1988年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

ほか