大隅国末吉の平松城(ひらまつじょう)は国境の山城だ。城跡の現住所は鹿児島県曽於市末吉町南之郷。ちなみに小字は「陣ノ山」で、ここに陣取って戦ったことをうかがわせるものである。
このあたりは国合原(くにあいばる)と呼ばれ、大隅国と日向国が接するところである。別名に住吉原(すみよしばる)とも。平松城跡はその国合原(住吉原)の北辺に位置する。
平松城跡は県道109号沿いからもよく見える。ちなみに、この道路は鹿児島県と宮崎県の県境。下の写真は被写体が鹿児島県にあり、撮影者が宮崎県に立っているのだ。
国合原の戦い(住吉原の戦い)
国合原(住吉原)では、大きな戦いの記録がふたつある。
ひとつめは延文4年・正平14年(1359年)のこと。島津氏久(しまづうじひさ、島津氏6代当主)と相良定頼(さがらさだより)がここでぶつかる。この頃は南北朝争乱期。相良定頼は肥後国球磨(くま、熊本県人吉市のあたり)に本拠地を持ち、北朝方についていた。日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市)の周辺にも勢力を広げていた。一方の島津氏久は南朝方。庄内を奪い返すために出兵し、国合原で合戦に及んだのである。結果は、島津氏久の大敗だった。
もうひとつは元亀4年(1573年)のこと。この頃の国合原は北郷時久(ほんごうときひさ)が領していた。大隅北西部の覇権をめぐって、北郷氏は肝付(きもつき)氏と争っていた。肝付兼亮(きもつきかねあき)は一族の肝付竹友を大将として住吉原(国合原)に侵攻した。北郷軍は兵を伏せて、進軍してきた肝付軍を四方から攻め立てた。肝付軍は壊滅し、430人もの戦死者を出したのだという。肝付竹友も戦死する。この大敗で肝付氏の旗色は一気に悪くなった。しばらくのちに島津義久(よしひさ、島津氏16代当主)に降ることになる。
これらの決戦では、いずれも攻め込んだ側が大敗している。迎え撃つには有利な地形だったのかも。
平松城の記録は乏しく、詳しいことはわからない。元亀4年(1573年)の戦いの直前に北郷氏家臣の永井刑部が築いたとされる。一説によると、永井刑部は肝付氏の家臣とも。……って、どっちなの? ただ、状況から考えると北郷氏が築いたと考えるのが自然な感じがする。
ちなみに、平松城の遺構は道路建設工事の際に発見されたもので、1995年に発掘調査が行われている。土器片など縄文時代・弥生時代の遺物も出土している。山城としてけっこう古くから使われていたんじゃないか、という気もする。
連続した堀が阻む
平松城跡を散策してみる。県道109号沿いに山に入っていく道がある。看板も設置されている。城域には養鶏場もあって、もともとはそちらへ連絡する道のようだ。
途中までは舗装された道だが、養鶏場の入口付近で途絶える。砂利道が奥へと続いているので、そちらに入っていける。
ちょっと不安を感じつつ細い砂利道を奥へ。しばらく進むと道が左へ折れる。このあたりが大手口にあたる。空堀沿いに県道へとおりていける登山道もあるそうだが見当たらず。ロープが張られているところを見ると、行けなくなっているようだ。
広場に出た。「P」と書かれた看板も。ここが駐車スペースとなっている。この一帯は木が伐採されていて見通しがいい。曲輪の形状もなんとなくわかる。ここから看板をたよりに主郭のほうを目指す。
主郭方面へ入っていく。道中はくねくねと曲がり、堀が連続している。「敵の侵入させないぞ!」という意志が感じられる構造だ。堀には伐採した木が置かれている。これを取り除くと、もうちょっと堀の形状が見えるのだが……。
主郭方面へ。曲輪の段差が確認できる。登るとなかなか広めの空間が広がっていた。ここに城址碑や説明看板もあった。
引き返す。搦手方面にもちょっと足を伸ばしてみた。
北側から見た平松城跡。大淀川が水堀のような感じになっている。
平松城跡の北側には「柄基(つかもと、さかもと)」と呼ばれる場所もある。田んぼの中に突き出た小さな丘といった感じで、日本神話に登場する天橋立(あまのはしだて)の一部だと伝えられている。
南のほうには檍神社(あおきじんじゃ)が鎮座する。この一帯は「檍原(あおきがはら)」と呼ばれ、黄泉国(よもつくに)からもどってきたイザナギノミコトが禊を行なった地である、という伝承が残っている。
国合原の西には住吉山(すみよしやま)があり、ここには住吉神社(すみよしじんじゃ)が鎮座する。住吉山は、元亀4年の合戦で北郷氏が兵を置いたとも伝わる。また、住吉神社には島津義久や島津忠恒(ただつね、島津義弘の子、初代薩摩藩主)も参詣している。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(13) 平松城跡』
発行/鹿児島県立埋蔵文化財センター 1995年
ほか