白木神社(しらきじんじゃ)は鹿児島県伊佐市大口白木に鎮座する。かつての薩摩国牛屎院(うしくそいん)の羽月(はつき)のうち。国道447号沿いで看板が目に入る。まえまえから寄ってみたいと思っていた場所だ。
看板のあるところから脇道に入る。こちらの写真の奥のほうに見える山に白木神社がある。
白木観音堂
御祭神は白木姫尊(シラキヒメノミコト)。神社になったのは明治2年(1869年)のこと。もともとは寺院である。「白木観音堂」と呼ばれていた。廃仏毀釈での破壊を免れるために「白木神社」に改称。観音堂に納められていた聖観音像を御神体とし、こちらの像は「白木観音像」とも。
『三国名勝図会』には白木観音堂の絵図もある。
古くは白木山長福寺という寺院があり、白木の聖観音像を本尊としていた。『三国名勝図会』が編纂された19世紀の頃には観音堂だけが残っていて、長福寺はいつの頃か廃れてしまったのだという。
白木観音堂はそのまま白木神社の本殿となっており、聖観音像も御神体として残っている。聖観音像は持ち出されて熊本県の天草もあったが、明治25年(1892年)の戻された。
観音堂(白木神社社殿)は、応永15年(1408年)に建てられたものだという。
観音像の光背には次のように書かれている。
長福寺 応永十五年三月六日
元豊義明別当良達坊良清
本田三反良清子息羽州道仙嫡子次郎殿元忠代
本田三反良清
大導聖観音 白木山長福寺
行基菩薩御作也
応永十五年三月六日
また、応永15年の棟札には、こうあったとのこと。
太秦元豊義明政蔵御寄所並太秦元忠云々
応永15年の太秦元豊(うずまさもととよ)が別当の良達坊良清に三反の田を寄付したという。このときに長福寺に聖観音像が納められたのだという。
太秦元豊は牛屎(うしくそ)氏の一族。牛屎氏は太秦姓を称し、薩摩国牛屎院(うしくそいん)を領した。牛屎院は現在の鹿児島県伊佐市大口の一帯である。太秦元豊は牛屎元尚の次男で、牛屎院の羽月を与えられ、「羽月石見守元豊」と名乗った。また、太秦元忠(羽月元忠)は元豊の孫にあたる。
聖観音像は行基(ぎょうき)の作とも。ただ、行基は8世紀の人物で、この伝承は信憑性に乏しいと思われる。
茅葺の社殿
国道から脇道に入り、橋を渡るとすぐに鳥居が見える。
鳥居をくぐって参道をちょっとのぼる。破損した仁王像があり、こちらは寺院のものであろう。
社殿は茅葺。白木観音堂の建物をそのまま使っている。建物の様式は14世紀頃のものだという。永禄7年(1564年)と寛延2年(1749年)と天保15年(1844年)と三度の改修があったとされる。
社殿の中には内陣が設けられ、内陣に聖観音像が安置されている。参詣したときには中は見えず。高さ1.4mほどの立像で、ヒノキの寄木造であるという。制作年代は12世紀頃とも推測されている。
平家が都から持ってきた?
白木観音像(聖観音像)は、平清祖なる人物が京より持ってきたという言い伝えもある。平清祖は平宗盛の曽孫とされる。
じつは、牛屎氏は平家の遺児の末裔を称し、平重盛の曾孫が養子に入ったという系図が伝わっている。平清祖の伝承も、もしかしたら関わりがあるのかも。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
『大口市郷土誌 上巻』
編/大口市郷土誌編さん委員会 発行/大口市 1981年
『伊佐市ふるさと散歩』
編/伊佐市郷土誌編さん委員会 発行:伊佐市教育委員会 2024年
『鹿児島の文化財』
発行:南日本新聞社 1960年
ほか