ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

三俣院高城(月山日和城)跡にいってみた、群雄が奪いあった都城盆地の要衝

宮崎県都城市高城町大井手にある三俣院高城(みまたいんたかじょう)跡にいってみた(2021年10月訪問)。別名に月山日和城(がっさんひわじょう)とも。14世紀前半に肝付兼重(きもつきかねしげ)が築いたのが始まりとされる。この地は都城盆地の要衝であり、南北朝争乱期よりたびたび攻城戦が展開された。持ち主もころころと変わっている。

『三国名勝図会』(薩摩藩が編纂して地理誌)によると、池城・内城・中城・桶廣・本城・真城・樽原・取添などの曲輪があったという。山城跡は開発により一部のみが残る。現在は池の城(池城)・内の城(内城)・中の城(中城)を見学できる。

なお、日付は旧暦で記す。

 

山城跡を散策

高城町方面に車を走らせると、天守閣っぽいものが目に入る。そこが月山日和城(三俣院高城)跡である。ちなみにこの建物は、高城町郷土資料館である。資料館の駐車場に車を停めてのぼる。

山の上に城郭風の建物が見える

駐車場から見上げる、資料館も見える

高城歴史資料館の看板、通路の先に山城跡

資料館への登り口

資料館があるのは曲輪群南端の「池の城(池城)」にあたる。広場は芝生できれいに整備されている。なお、建物は復元というわけではない。ここは中世山城なので、こういった立派な天守閣はなかった。ちなみに、犬山城(いぬやまじょう、愛知県犬山市)がモデルになっているそうだ。

坂道の上に城郭風の建物

地形は山城の痕跡が

 

資料館にも入館。最上階の展望台まで上がると、周囲を一望できる。盆地地形がよくわかる。

城下を見渡す

資料館最上階の展望所

市街地の向こうに高千穂峰

霧島連山もよく見える

 

資料館の裏手にもうひとつ曲輪跡がある。なかなか広い。こちらが「内の城(内城)」だ。

芝生の広場

内の城、広場に忠霊塔がある

 

いったん麓に下りる。道路に出て北のほうを見ると赤い鳥居がある。高城神社(たかぎじんじゃ)のものである。神社の境内が「中の城(中城)」跡になる。こちらは城跡としての雰囲気はけっこう残っている。中の城の下をとおる道路は、空堀跡だと思われる。

山城跡

中の城跡

山中の神社

中の城には高城神社が鎮座

山道

空堀跡、中の城近くの道路

 

肝付兼重の奮闘

三俣院は日向国庄内のうちにあり、このあたりは島津荘(しまづのしょう)に属していた。鎌倉時代末期にこの地を治めていたのが肝付兼重であった。肝付氏は大隅国の高山城(こうやまじょう、鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点とする一族で、兼重は肝付氏庶流の家督をついでいた。その後、肝付氏本家の家督をついで8代当主となっている。

肝付兼重は三俣院兼重本城を築き、これが月山日和城(三俣院高城)のはじまりとされる。ただし、三俣院兼重本城は三俣城(石山城ともいう、都城市高城町石山)のほうだという説もある。

後醍醐天皇の号令のもとに鎌倉の幕府は倒され、元弘3年(1333年)に建武の新政がはじまった。しかし、新政権が短期間のうちに瓦解する。足利尊氏が反旗をひるがえし、南北朝の争乱に突入するのである。建武3年(1336年)、足利尊氏は京で敗走し、九州へと落ちのびた。ここで勢力を盛り返し、九州の領主たちの多くが足利尊氏に従った。そんな中にあって、肝付兼重は後醍醐天皇に忠誠を尽くす。これ以降、一貫して南朝方として戦うことになる。

立派な石碑と城郭風建物

池の城には、肝付兼重の顕彰碑もある

 

肝付兼重は三俣院を拠点として足利方に抵抗する。建武3年、足利尊氏は薩摩国守護の島津貞久(しまづさだひさ、島津氏5代当主)に肝付兼重の掃討を命じる。島津貞久は国人衆を束ねて三俣院を攻めるが、なかなか落とすことはできない。

京では足利尊氏が政権を樹立する。新たに光明天皇(こうみょうてんのう)を擁立して、後醍醐天皇を廃した。後醍醐天皇は京を脱出して吉野山(よしのやま、奈良県吉野郡吉野町)に入る。ここにもうひとつの朝廷を開いた。京の朝廷を「北朝」、吉野の朝廷を「南朝」と呼ぶ。

肝付兼重は南朝方として奮戦を続ける。その後、薩摩国でも南朝方の勢力が増したこともあって、島津氏はこちらの攻略に注力する。一方、肝付兼重の掃討は、足利一族の畠山直顕(はたけやまただあき)を大将として展開された。

暦応2年・延元4年(1339年)8月、畠山直顕は三俣院高城を陥落させる。肝付兼重は脱出して、高山城へ逃亡した。

その後しばらくは、畠山直顕の支配下となる。

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(1) 倒幕と建武政権崩壊

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(2) 後醍醐天皇は諦めない

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(3) 懐良親王が薩摩へ

 

rekishikomugae.net

 


南朝方が奪い返す

九州では南朝方が優勢だった。そこに足利氏の内紛(観応の擾乱)、島津氏と畠山氏の対立もからんで混沌とした様相となっていく。観応2年・正平6年(1351年)に島津貞久は南朝方に転じる。その後、いったんは北朝方に復帰するも、延文元年・正平11年(1356年)に再び南朝方に転じた。島津氏は南朝方諸将とともに畠山直顕を攻め、大隅国から追い出した。

さらに、延文3年・正平13年(1358年)11月には南朝方の菊池武光(きくちたけみつ)が日向国も攻める。畠山氏の支配下の城は落とされ、このときに三俣院高城も陥落した。畠山直顕は没落する。

畠山氏が去ったあと、三俣院高城は和田氏の居城となった。

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(5) 島津と畠山の抗争

 

その後、島津氏は九州探題の今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)と対立。永和4年・天授4年(1378年)から翌年にかけての蓑原合戦(みのばるかっせん、都城合戦)、明徳5年(1394年)頃の三俣院梶山城・野々美谷城の戦いなど、庄内は激戦の地となる。和田氏は島津方について戦っている。

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(7) 南北朝合一へ、されど戦いは続く

 

 

 


三俣院を伊東氏に割譲

15世紀の島津氏は混乱が続いた。分裂した宗家(奥州家と総州家)の争い、島津忠国(ただくに、9代当主)・島津用久(もちひさ、守護代)兄弟の対立、たびたび勃発する分家の反乱や国衆の蜂起など、ずっと戦乱の中にあった。11代当主の島津忠昌(ただまさ)の時代になると本宗家の権威は弱まり、領内の統制がとれなくなっていた。

この間、島津氏は伊東(いとう)氏とたびたびぶつかる。伊東氏は日向国都於郡(とのこおり、宮崎県西都市)を拠点に大きな勢力を持つ。日向国南部の領有をめぐって抗争を繰り返していた。

島津氏は伊東氏への備えとして、日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)・櫛間(くしま、宮崎県串間市)に分家の豊州家(ほうしゅうけ)を置いた。また志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)は新納氏(にいろ、島津支族)、庄内は北郷氏・樺山氏(ほんごう・かばやま、ともに島津支族)が守っていた。

島津本宗家の力が弱くなると、南日向の豊州家・新納氏・北郷氏・樺山氏は独自に動くようになる。そこに伊東氏も勢力を広げようと南下してくる。日向国南部は混沌とした状況となっていく。

領内の統制に苦心する島津忠昌は、明応4年(1495年)に伊東尹祐(いとうただすけ)と和睦する。このときに三俣院1000町を割譲した。高城(月山日和城)も伊東氏のものとなった。伊東氏はここを拠点に都城盆地に勢力を広げていく。

 

rekishikomugae.net

 

 

北郷忠相が三俣院を奪う

伊東氏に押されて、北郷氏は衰退。都之城(みやこのじょう、都城市都島町)と安永城(やすながじょう、都城市庄内町)のみを領するまでその勢力は縮小していた。そんな状況にあった永正14年(1517)に、北郷忠相(ほんごうただすけ)が家督をついだ。大永元年(1521年)には野々美谷城(ののみだにじょう、都城市野々美谷町)の樺山氏が大隅国へ転封となり、この城の北郷忠相に任された。北郷忠相は都之城・安永城・野々美谷城の3つの城で、伊東氏と対峙することになる。

 

北郷氏や庄内についてはこちらの記事に詳しい。

rekishikomugae.net

 

大永2年(1522年)に伊東尹祐が大軍を率いて北郷氏を攻める。『日向記』によると伊東氏の兵力は1万。日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市・小林市)の北原氏も攻め手に加わる。一方の北郷氏の兵力はわずかに800ほどであった。

伊東・北原連合軍は野々美谷城を攻め、大永3年(1523年)11月に陥落させた。しかし、落城同日に伊東尹祐も陣中で急死する(戦死か?)。当主の死もあって伊東軍は撤退した。その後、北郷忠相は伊東氏・北原氏と和睦した。

北郷忠相はひとまず伊東氏と結び、新納氏や本田氏など敵対勢力を倒し、足場をかためていった。

【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(1)島津忠良が実権をつかむ、宗家を乗っ取る!?

 

天文元年(1532年)11月、北郷忠相は豊州家・北原氏とともに伊東祐充(すけみつ、尹祐の子)に決戦を挑む。三俣院高城を攻めた。この戦いの最中に伊東祐充が病死。伊東氏に家督争いが起こった。そして、天文3年(1534年)1月には三俣院高城を陥落させた。三俣院のほかの城の城兵たちも逃げ去った。

北郷忠相は三俣院高城をとったあと、豊州家の島津忠朝(しまづただとも、忠相とは従兄弟)に譲った。天文7年(1538年)に梅北城との交換で、三俣院高城は北郷忠相のものになった。その後、北郷忠相は都城盆地を制圧する。

戦国時代の南九州、激動の16世紀(2)薩州家の急襲、島津勝久の心変わり

 

rekishikomugae.net

 


その後の庄内

島津本宗家では一族の内紛が続き、相州家(そうしゅうけ、分家のひとつ)の島津貴久(しまづたかひさ)が当主の座を手にする。北郷忠相はこれと敵対するが、天文14年(1545年)にその傘下に入った。

北郷氏は一時的に庄内を離れる。文禄4年(1595年)に薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町)に転封となり、庄内には伊集院忠棟(いじゅういんただむね)の所領となった。伊集院忠棟は島津氏の家老だが、豊臣秀吉から大名として扱われた。

慶長4年(1599年)、島津忠恒(ただつね、のちに島津家久、初代薩摩藩主)が伊集院忠棟を殺害するという事件が起こる。これに対して、伊集院忠真(ただざね、忠棟の子)が反乱を起こす。これは庄内の乱と呼ばれている。

庄内の乱の鎮圧に北郷氏は大いに活躍した。そして、戦後には庄内の地が再び北郷氏に与えられた。北郷氏は、島津氏の有力一門として江戸時代末までこの地の領主であり続けた。

なお、慶長20年(1615年)の一国一城令により三俣院高城は廃城となった。

 

 

 

 


<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『【新版】都城市の中世城館』
編集・発行/都城市教育委員会 文化財課 2019年

『都城の世界・「島津」の世界』
著/山下真一 発行/鉱脈社 2011年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

ほか