鹿児島県曽於市末吉町に鎮座する住吉神社(すみよしじんじゃ)を参拝した。御祭神は底筒之男命(ソコツツノオノミコト)・中筒之男命(ナカツツノオノミコト)・表筒之男命(ウワツツノオノミコト)。住吉三神である。
檍原の伝承地
この一帯は「檍原(あはきがはら、あおきがはら)」と呼ばれ、住吉神社のある場所はその西の端にあたる。檍原は『古事記』に記される「竺紫日向之橘小門之阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのおどのあはきがはら)」の伝承地。イザナミノミコトが黄泉国から戻って禊をした場所だと伝わっている。穢れを落とす過程で26柱の神々が生まれ、その中に住吉三神も含まれている。
檍原には、檍神社(あおきじんじゃ)も鎮座している。詳細はこちらの記事にて。
創建年代は不明。古代の創建とも伝わる。鎮座するのは住吉山の中腹。
このあたりは大隅国と日向国の国境にあたる。中世は大隅国囎唹(そお)郡に属していたが、古くは日向国諸県(もろかた)郡の内であったようだ。国と国が接する場所ということから、住吉山の麓は「国合原(くにあいばる)」とも呼ばれている。
ちなみに、住吉神社のあたりの地名は「二之方(にのかた)」という。昔は住吉山の山頂が国境であったとも。また、「にのかた」は「もろかた」にも意味的に通ずるところがありそうな気もする。
『三国名勝図会』にもいい感じの絵図が掲載されている。現在の境内の様子と見比べてみても、江戸時代から大きな変化はないようだ。
『三国名勝図会』は、19世紀半ばに鹿児島藩(薩摩藩)により編纂された地誌。詳細はこちらの記事にて。
境内をあるく
県道507号沿いに「国合原」の古戦場を解説する看板がある。その向かい側に見える脇道へと入る。道なりに行くと右側に石造りの鳥居が見える。ここが住吉神社の一の鳥居だ。
一の鳥居の向かって右手の道を車で入っていくと、二の鳥居近くまで行ける。駐車スペースもあった。
一の鳥居から二の鳥居まで、参道は長い直線。秋にはここで、流鏑馬(やぶさめ)も奉納される。『三国名勝図会』によると、流鏑馬神事は11月25日に行われていたとのこと。現在は11月23日(勤労感謝の日)を開催日としている。
二の鳥居(訪問日は改修中だった)をくぐると、直線の石段がせり上がる。その先に社殿が見える。石段は150段ほどある。登る。
石段の途中には門守神社(かどもりじんじゃ)もある。
社殿は立派だ。本殿は流造で、嘉永2年(1849年)に改築されたもの。
拝殿前には陶器製の狛犬。作成時期はわからない。なんとも愛嬌のある姿で、沖縄のシーサーのような雰囲気もある。
こちらは拝殿横の御神木のスギ。推定樹齢は800年以上とのこと
二の鳥居の近くには、稲荷神社も鎮座する。こちらも雰囲気がある場所だった。絵図と見比べると場所が違う。遷されている?
姥石
摂社の若宮神社の脇から住吉山へ登っていける。山頂は本殿の背後に位置する。そこには「姥石(うばいし)」があった。なぜ、そう呼ばれているのかはわからない。住吉山は「姥ヶ岳」ともいう。名の由来は姥石が先か? 姥ヶ岳が先か? 大隅国と日向国の境界を示す石とも。
住吉神社はこの「姥石」に向かって参拝する。磐座だろうか?
島津義久が戦勝祈願
慶長4年(1599年)、島津家中では伊集院忠真(いじゅういんただざね)が反乱を起こす。「庄内の乱」である。伊集院氏は日向国庄内(しょうない、宮崎県都城の周辺)を拠点にし、末吉もその支配下にあった。島津義久(しまづよしひさ、島津氏16代当主)と島津忠恒(ただつね、義久の甥で後継者にあたる)は伊集院氏の領内に兵を出す。
この際に島津義久は住吉神社に立ち寄り、戦勝を祈願したのだという。反乱平定直後の慶長5年3月29日(日付は旧暦)に島津義久は住吉神社を参詣。さらに、4月11日には島津忠恒を伴って再度の参詣している。
石段の登り口に歌碑がある。こちらは慶長5年に島津忠恒が参詣した際に詠んだもの。
行末もいまぞしらるる国々の
あまつ御神の恵みある世は
と刻まれている。
住吉神社は島津氏の崇敬が厚く、大事にされる。江戸時代には藩庁直轄となった。
庄内の乱については、こちらの書籍に詳しい。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
ほか