ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

牧園町中津川の伊邪那岐神社、もともとは妙見神社だった

霧島連山の南麓に中津川(なかつがわ)というところがある。ここを車で通った際に神社を見つけた。なんとなく気になる存在だな……と寄ってみることにした。

伊邪那岐神社(いざなぎじんじゃ)という。鎮座地は鹿児島県霧島市牧園町下中津川。かつての大隅国の踊(おどり)のうちである。

 

道路沿いに立派な鳥居が見える。そこから石段が続いている。

 

石段と鳥居

伊邪那岐神社の参道口

 

 

 

 

 

 

もともとは「妙見神社」

創建年代は不明。御祭神は伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)・天日鷲命(アメノヒワシノミコト)。

じつは、「伊邪那岐神社」という社号は明治時代になってからのものである。それ以前は「妙見神社(みょうけんじんじゃ)」だった。明治時代初めの神仏分離により、仏教的な要素のある妙見信仰が否定されて神社のあり方も変えられたようだ。

もともとは北斗星を祭る。妙見信仰というのは、仏教の妙見菩薩信仰と道教の北辰(北斗七星・北極星)信仰が習合したものである。

 

妙見菩薩は天御中主神(アメノミナヌシノカミ)と同一ともされた。そのため、神仏分離により天御中主神を祭る神社に変わり、社号も「天御中主神社」「天之御中主神社」としている場合が多い。

こちらの妙見神社は「伊邪那岐神社」に。もともとイザナギノミコト・イザナミノミコトもいっしょに祭られていたのだろうか?

また、御祭神の一柱であるアメノヒワシノミコトの存在も気になる。こちらは阿波国(徳島県)の忌部氏と関わりのある神でもある。

 

妙見神社(伊邪那岐神社)は、かつて踊郷の中津川と巣窪田(すくぼた、宿窪田)の境に鎮座していた。天降川に中津川が合流するところで、その場所は「妙見崎」と呼ばれている。

妙見崎にあった神社は、現在地から南西に100mほどのところに遷された(時期は不明)。大雨で境内が土砂に埋もれてしまったことから、天正13年(1585年)に現在地に遷座してきたという。

 

 

 

「妙見温泉」はこの神社に由来

伊邪那岐神社から南西に2.5kmほどのところに「妙見温泉」がある。渓流沿いに旅館が並ぶ人気の温泉地である。「妙見温泉」と命名されたのは明治時代のこと。その由来は、妙見神社(伊邪那岐神社)の旧社地に湧いたことによる。

妙見温泉のあたりが「妙見崎」なのだ。

 

 

 

石段を登って

『三国名勝図会』にはかつての妙見神社の絵図もある。境内の雰囲気は、現在もあまり変わっていない。

 

妙見神社の絵図

『三国名勝図会』巻之四十より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

『三国名勝図会』についてはこちら記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

参道口のすぐ前には公民館がある。公民館の駐車場に車を停めさせてもらって参詣する。参道口から両部鳥居をくぐって石段を登っていく。

 

鳥居と石段

奥へ吸い込まれそうな感じ

 

 

鳥居近くには何かの石像。タノカンサァ(田の神)だと思われる。

 

田の神像

上半身は欠けている

 

まっすぐに伸びる参道。いい雰囲気だ。

 

木立の中に続く石段

伊邪那岐神社の参道

 

石段の脇に祠があった。宮司さんの話によると、こちらに北斗星(妙見菩薩)が祭られているとのこと。本来の御祭神なのだがひっそりと。神仏分離の影響もあるのだろうか?

 

参道脇に祠がある

妙見様を祭る摂社

 

さらに登ると仁王像が出迎えてくれる。寛文8年(1668年)の銘がある。この仁王像は近隣に埋まっていたものとのこと。妙見神社(伊邪那岐神社)のものだという可能性もあるが、由緒はよくわかっていない。

 

参道の仁王像

仁王がいる

 

鹿児島県内では明治初めに壊された仁王像が多いが、ここにある仁王像はかなり状態が良い。

 

仁王像

仁王、吽形

 

仁王像

仁王、阿形

 

石段をのぼりきったところにやや広い空間。ここに社殿がある。訪問したときに宮司さんが掃除で集めた落ち葉を燃やしていて、境内には煙がたちこめていた。

けむる神社

伊邪那岐神社の拝殿前

 

宮司さんに「拝殿にもあがっていいよ」と促されて、あがらせてもらった。神様に近寄って、お詣りする。撮影の許可もいただいた。

 

参拝する

拝殿

 

本殿をおがむ

拝殿内、奥に本殿

 

御神木のクスノキも存在感あり。木の近くには摂社もある。若宮神社と大己貴神社が祭られている。

 

拝殿と御神木

大きなクスノキも

 

 

 

大関霧島の力石

拝殿前には、「奉納 大関霧島 力石」なるものがある。

 

大関霧島の力石

力石だ

 

大相撲の「霧島」関というと、2023年の大関昇進を機に「霧島」を襲名した2代目が活躍しているが、伊邪那岐神社にあるのは初代(2024年現在は陸奥親方)のものだ。

霧島(初代)は、伊邪那岐神社のある地域の出身。奉納の際には、霧島みずからが力石を持ち上げて運び、ここに据え付けたとのこと(宮司さんの話による)。

 

 

 

税所氏の棟札、伊集院氏の棟札

『三国名勝図会』によると、永享9年(1437年)に「税所介敦武」の新建の棟札、元亀2年(1571年)の「地頭伊集院下野入道久通」の修営の棟札もあったとのこと。

税所(さいしょ)氏は、古くから大隅国囎唹郡(そおのこおり)を領した一族。中津川の領主でもあった。妙見神社(伊邪那岐神社)には税所氏が深く関わっていることがうかがえる。

 

税所氏についてはこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 


もう一つの棟札に名のある伊集院久通(いじゅういんひさみち)は、島津貴久(しまづたかひさ)・島津義久(よしひさ)に仕えた人物だ。ここの地頭であったということは、元亀2年(1571年)時点で島津氏が中津川を押さえていたことがわかる。

 

 

 


<参考資料>
『牧園町郷土誌』
発行:牧園町 1981年

『三国名勝図会』
編/橋口兼古、五代秀尭、橋口兼柄、五代友古 出版/山本盛秀 1905年

ほか