医王山正智院泰平寺(たいへいじ)は鹿児島県薩摩川内市大小路町にある。かつての薩摩国の高城郡(たきのこおり)の水引郷(みずひきごう)のうち。 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は島津氏を攻める。大軍勢を率いて薩摩国に入り、陣を置いた場所は泰平寺であ…
日本国内の物事を深く理解するためのヒントが、『古事記』にはたくさん詰まっている。 例えば、神社へお詣りすると、そこには神様が祭られている。「どんな神様なんだろう?」と思う。また、神話が絡んだ史跡であったり、地名であったり、といったものにも出…
霧島連山の南麓に中津川(なかつがわ)というところがある。ここを車で通った際に神社を見つけた。なんとなく気になる存在だな……と寄ってみることにした。 伊邪那岐神社(いざなぎじんじゃ)という。鎮座地は鹿児島県霧島市牧園町下中津川。かつての大隅国の…
薩摩国の設置は、『続日本紀』によると大宝2年(702年)のこととされる。国府が置かれたの薩摩半島西部の川内(せんだい)であった。川内には薩摩国分寺跡がある。国の史跡にも指定。「薩摩国分寺跡史跡公園」として整備されている。場所は鹿児島県薩摩川内…
薩摩半島の西側に川内(せんだい)というところがある。ここに天辰寺前古墳(あまたつてらまえこふん)がある。場所は鹿児島県薩摩川内市天辰町。 この古墳は2008年6月に発見された。区画整理工事の中で大きな石がでてきて、動かすと空洞になっていたという…
鹿児島市本城町は、かつての大隅国吉田(よしだ)のうち。ここに「下坊上山の五輪塔」と呼ばれるものがある。ちなみに「しもんぼううえやま」と読む。 山の中に五輪塔が2基。『三国名勝図会』によると、次のような伝承があるという。 本城村、下之坊阿彌陀薬…
霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)は宮崎県小林市細野に鎮座する。ここは夷守神社(ひなもりじんじゃ)でもある。両社は合祀され、夷守神社の旧社地を鎮座地としている。 御祭神は瓊瓊杵命(ニニギノミコト)・木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)…
鹿児島県内にはタノカンサァ(田の神)がやたらといる。田の神像が盛んに造られるようになったのは18世紀初めからで、島津氏領内(現在の鹿児島県と宮崎県の一部)で流行ったようだ。その形は多彩である。田の神舞の姿を模したものがよく見られるが、僧形の…
島津家久(しまづいえひさ)の戦績をまとめてみた。 島津家久は四兄弟の末っ子である。通称は「中務大輔」「又七郎」。兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。 この兄弟の中では島津義弘の知名度が圧倒的に高い。「…
山田川が蛇行するように流れている。そこには田んぼが広がっている。そんな風景を、タノカンサァ(田の神)が見守っている。「中川原の田の神」と呼ばれている。 場所は鹿児島県姶良市下名。「山田(やまだ)」と呼ばれている地区である。中川原自治公民館の…
島津貴久(しまづたかひさ)のいちばんの協力者は、樺山善久(かばやまよしひさ)であろう。 16世紀の南九州において、島津氏は一族どうしで覇権を争った。本家筋の奥州家と、分家の薩州家と相州家と。この中で抗争を制したのが相州家の島津貴久だった。樺山…
桜島のフェリー乗り場のすぐ近くに。鳥居が見える。月讀神社(つきよみじんじゃ)の参道口だ。鎮座地は鹿児島市桜島横山町。月讀神社は古くから桜島の惣社として崇敬されてきた。 桜島は活発な火山である。月讀神社は山の神威をびんびん感じるような……そんな…
桜島の東麓に「黒神(くろかみ)」というところがある。かつての東桜島村黒神。現在は鹿児島市黒神町となっている。 黒神には、埋もれた鳥居がある。腹五社神社(はらごしゃじんじゃ)のものだ。これは「黒神埋没鳥居」という史跡名でよく知られている。大正…
島津氏は、元亀2年(1571年)に島津貴久(しまづたかひさ)が没して代替わりをする。跡を継いだのは長男の島津義久(よしひさ)。そして、次男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)、三男の島津歳久(としひさ)、四男の島津家久(いえひさ)らが兄を…
鹿児島市の南の方に「谷山(たにやま)」というところがある。JR谷山駅の周辺にはタノカンサァ(田の神)の石像が多く残っている。駅のそばには「永田川」というけっこう大きな川が流れている。現在は都市化が進んでいるが、かつては田んぼが広がっていたの…
「『信長の野望』でいちばん面白かったのは、どれ?」と聞かれたら、私はこれを挙げる。ニンテンドーDSでコーエー(現在はコーエーテクモゲームス)から発売された、ちょっと昔のゲームだ。 『国盗り頭脳バトル 信長の野望』ニンテンドーDS/コーエー/2008…
島津義久(しまづよしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)の四兄弟の進撃は、島津氏の最大版図を築く。九州の大部分を制圧しようとしていた。 そして天正14年(1586年)、島津と大友が全面抗争へ。島津氏は大友氏領内…
補陀山慈眼寺(ほださんじげんじ)は薩摩国谿山郡谷山郷下福元村(鹿児島市下福元町)にあった。その跡地は慈眼寺公園として整備されている。 慈眼寺跡の紅葉 鹿児島藩(薩摩藩)の初代藩主の島津家久(しまづいえひさ、島津忠恒、ただつね)は法号を「慈眼…
天正14年(1586年)から翌年にかけて、九州の情勢は大きく動く。島津氏は大友氏領内へ侵攻。大友氏の本拠地である豊後国(現在の大分県)の制圧を目指した。この争いに豊臣秀吉が介入。大友氏の救援要請を受けて、大軍を九州に送り込んでくる。 この一連の攻…
安良神社(やすらじんじゃ)は鹿児島県霧島市横川町上ノに鎮座する。創建は和銅元年(708年)と伝えられている。なかなかに古い神社だ。御祭神は安良姫命(ヤスラヒメノミコト)。 安良姫の伝説 安良岳の麓に 安良神社の歴史 もう一つのヤスラ神社 「和銅」…
鹿児島市の北部に東佐多町というところがある。江戸時代には薩摩国鹿児島郡吉田郷東佐多村であった。この地にある鎮守神社に、タノカンサァ(田の神)がいる。「東下(ひがしもと)の田の神」と呼ばれている。 タノカンサァ(田の神)は18世紀以降に島津氏領…
宮崎県西諸県郡高原町に狭野神社(さのじんじゃ)が鎮座する。狭野尊(サノノミコト、神武天皇)を御祭神とする。この元宮とされるのが皇子原神社(おうじばるじんじゃ)だ。 狭野神社の西側には丘陵地形がある。皇子原(おうじばる)と呼ばれる。この地には…
高原(たかはる)の狭野神社(さのじんじゃ)を参詣した。鎮座地は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田。小字は「狭野(さの)」という。 鎮座地は高千穂峰(たかちほのみね)の東麓。山頂から5㎞ほど東に位置する。そして、狭野の地には神武天皇の伝説が残っていて…
谷山神社(たにやまじんじゃ)は鹿児島市下福元町に鎮座する。御祭神は懐良親王。14世紀の南北朝争乱期に征西大将軍として九州に入った人物だ。 名前の読みは「かねながしんのう」とも「かねよししんのう」とも。谷山神社では「かねながしんのう」のほうをと…
鹿児島県姶良市鍋倉は、かつての大隅国始羅郡(しらのこおり)の帖佐(ちょうさ)のうち。この地には平山城(ひらやまじょう)という山城があった。別名に帖佐本城(ちょうさほんじょう)ともいう。 この平山城跡に向かう山道の途中に、高尾城(たかおじょう…
鹿児島市冷水町に鹿児島市営の「興国寺墓地」がある。ここにはかつて太平山興国寺があった。興国寺は明治の初めに廃寺となった。その境内はかなりの広さがあり、現在も古い墓石や石造物が残っている。 興国寺墓地(興国寺跡) この興国寺跡に、薩州家(さっ…
霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田に鎮座する。高千穂峰(たかちほのみね)の山頂に近く、古代の山岳信仰の雰囲気が感じられる。また、山岳仏教の霊場としても大事にされてきた場所である。 すてきな神社である。【前編】記…
高千穂峰(たかちほのみね)は存在感がある。山容もさることながら、大きな噴火もしばしば。古代から人々が崇める山であり、恐れる山でもある。その東麓に御池(みいけ)という火口湖がある。 御池と高千穂峰 この池の東側に、霧島東神社(きりしまひがしじ…
島津(しまづ)氏の一族に北郷(ほんごう)氏がある。「北郷」とは日向国島津院(庄内)の北西部。現在の宮崎県都城市庄内町や山田町のあたりである。この地を島津資忠(しまづすけただ)が領したことから、「北郷」を名乗るようになった。北郷氏は江戸時代…
鹿児島湾岸の国道10号沿いに茅葺屋根の民家がある。江戸時代末期のものが復元されている。ここは「西郷隆盛蘇生の家」と呼ばれている。 国道から線路を挟んで茅葺屋根が見える 安政5年(1858年)、冬の鹿児島湾に西郷吉之助(当時の諱は西郷隆永、のちに西郷…