天正3年(1575年)5月14日に島津家久(しまづいえひさ)は明智光秀と会う。翌日には居城にも招かれた。連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)は明智光秀と親交があり、二人を引き合わせた。
この二日間については、『中務大輔家久公御上京日記』でも詳しく記される。その書きぶりには、なんとも言えない熱量と緊張感がある。
前回の記事はこちら。
『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちらの記事にて。
史料は東京大学史料編纂所の翻刻より引用。
『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)
島津家久は島津貴久(たかひさ)の四男である。軍事に優れ、島津家の勢力拡大を牽引した。兄には島津義久(よしひさ)、島津義弘(よしひろ)、島津歳久(としひさ)がいる。
- 天正3年5月14日(その一)、滋賀へ出かける
- 天正3年5月14日(その二)、明智光秀が来た
- 天正3年5月15日(その一)、焼き討ち後の比叡山
- 天正3年5月15日(その二)、白湯を所望す
- 天正3年5月15日(その三)、第三句を詠まない
- 天正3年5月15日(その四)、坂本城を見学
- 天正3年5月15日(その五)、歌枕と若衆の舞
- 天正3年5月16日、この日は7文字だけ
- 明智光秀との面会について、いろいろ想像してみる
なお、日付は旧暦。

天正3年5月14日(その一)、滋賀へ出かける
十四日、紹巴同心にて志賀一見ニ罷越、白河を打過て、近江の中山茶屋にやすらひ、やかて風のかけたるしからみなとゝ読し所一見、儅、行て志賀の山越候へハ、なからの山・ひゑの山なと打詠て行けは、紹巴の迎とて明智殿よりそハ衆三人、各々馬にて来られ候、其馬に拙者乗へき由申され候へ共、斟酌仕候、
里村紹巴と一緒に近江国の志賀(現在の滋賀県大津市のあたり)へ出かける。白河(京都市左京区の岡崎や吉田や北白川のあたりか)を過ぎ、近江の中山の茶屋で休憩。地図を見ると山間部に中山(大津市中山町)というところがある。茶屋はここだろうか? そして、「風のかけたるしからみ」などと詠まれた場所を見る。こちらは「山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬもみぢなりけり」の歌のことだろう。春道列樹(はるみちのつらき)の作で、『古今和歌集』に収録。『小倉百人一首』にも選ばれている。
山越えでは長等山や比叡山も見える。これらをお題に歌を詠みつつ進んでいくと、明智光秀の家臣3人が馬をひいて「紹巴殿を迎えにきましたぞ」とやって来た。馬に乗るようすすめられるが、島津家久は斟酌した。「斟酌(しんしゃく)」は「遠慮した」というところか。
天正3年5月14日(その二)、明智光秀が来た
儅、から崎の一松一見し、坂本の町に一宿し、五月雨の晴まほと有て、月隈なく湖水に移風時雨に、なと申あへり処ニ、其うしろに舟さし着、明智殿参會有へき由有し間罷出、紹巴・行豊なと同舟、其儘明智殿城を漕まハりみせられ候、其舟ハたゝミ三重計の家を立られ候、面白くて其板ふきの上に登、猶廻り盃あくこなくこそ、儅、舟よりおり、明智殿へ同道にて舟の内みせられ候、
つづいて「唐崎の一つ松」を見る。唐崎神社(からさきじんじゃ、滋賀県大津市唐崎)の御神木で、景勝地とされていた。ここまた歌枕の地である。じつは、島津家久は3月23日の日記でも「唐崎の松」について触れている。安芸国宮島(広島県廿日市市)で立派な松を見て「から崎の松もかくこそあらめ(唐崎の松もこんな感じなんだろうね)」と言った、と。「唐崎の一つ松」は、島津家久が行きたかったところの一つだった、と思われる。
3月23日の日記はこちら。
なお、「唐崎の一つ松」は天正9年(1581年)に枯れてしまう。このことを残念に思った明智光秀が歌を詠んでいる。
我ならで誰かは植ゑむ一つ松 こゝろして吹けしがの浦風
と。
坂本(大津市坂本)で宿をとり、「五月雨の晴れ間に月がくっきりと、それを湖水に映して風流なものだね」とみんなで話していると「あれ、なんか舟が来たぞ」と。なんと、明智光秀が舟で迎えにきたのである。里村紹巴と行豊(紹巴の連歌仲間か)とともに乗船。そのまま琵琶湖を漕ぎまわって、明智光秀が湖上から坂本城を見せてくれた。
舟には3畳ほどの屋形が設けられていた。板葺きの屋根の上にのぼって、そこで酒宴。その後、明智光秀は船内もいろいろと案内してくれた。酒宴のあとは、坂本の宿に帰ったものと思われる。
天正3年5月15日(その一)、焼き討ち後の比叡山
十五日、紹巴同心にて一見の所/\、猶坂本ひゑの山、ふもとにはし殿、其上に八王子、其下ニ大宮所、上七社・中七社・下七社とて跡有、さて遙にひらの高根、横川とてみえ侍り、其より真葛か原の松、昔をのこすかとみえたり、
里村紹巴らとともに滋賀の名所をまわる。坂本の町や比叡山の麓を見る。日吉大社の「はし殿」(大宮橋か)がかかり、上のほうには八王子山(日吉社の奥宮)があり、その下は大宮(本殿)があったところ。そして「上七社・中七社・下七社」の跡もある。なお、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちで境内は焼失している。
麓からは比良の山々や横川(延暦寺のあるところ)も見えた、と。「真葛か原の松」みたいに恨みを残しているようだ、というのが島津家久の感想。「真葛原」も歌枕である。円山公園(京都市東山区円山町)のあたりで、「恨む」という感情の歌が詠まれている。次のような歌がある。
わが恋は松を時雨の染めかねて
真葛ヶ原に風さわぐなり
(慈円僧正、『新古今和歌集』)
かれはてて言の葉もなきまくず原
何をうらみの野辺の秋風
(西園寺公経、『続後撰和歌集』)
いまぞしるまくずが原に吹く風の
うらみも恋にうくるものとは
(道智法師、『新拾遺和歌集』)
まくず原露のなさけもとどまらず
恨みし中は秋風ぞふく
(従三位忠兼、新後拾遺和歌集)
天正3年5月15日(その二)、白湯を所望す
それより始の宿に帰り候へハ、明智とのより、城に来るへく申され候へ共、斟酌候へハ、麓に明智との下候てめしたへさせられ候、儅、座の衆、紹巴・明智との・行豊・堺衆大炊助・拙者ともに五人、儅、種々の會尺、座ハ四帖半、茶をと候へ共、茶湯の事不知案内にて候まゝ、唯湯をと所望申候、さて庭の竹一むらの陰に莚を敷、それにて御酒肴有ニ、朝倉の兵庫助といへる人くハゝり候、数返、それよりよし簀とて水海の鮒・鯉・むつ・はヘなとを芦の中へ紐にてよせ、軈而竹あめるすをまろくたて、其中にて魚をくミあけ候ハ目さましき事也、
宿に帰ると、明智光秀から「坂本城へお越しください」と申し付けがあった。斟酌する(遠慮してお断りする)ことにしたが、明智光秀が城下まで迎えに来た。結局、坂本城に招かれ、食事をすることになった。座は里村紹巴・明智光秀・行豊・堺衆大炊助と島津家久の5人。四畳半の座敷に入り、まずは茶をすすめられる。島津家久は「茶湯の事不知案内にて候まゝ、唯湯をと所望(茶の湯はわからいから、ただ湯を所望したい)」と遠慮した、と。
そのあと庭の竹林のあるところに筵(むしろ)を敷いて酒宴。朝倉兵庫介は座に加わった。湖上では魚獲りの様子を見る。フナ・コイ・ムツ・ハエなどを紐で追い込んで、竹で編んだ簀(す)を丸めて立て、その中に魚を汲みあげる。豊漁だった。琵琶湖でやっている「エリ」と呼ばれる漁法らしい。
また、朝倉兵庫介なる人物が登場する。明智光秀の家臣だろう。こちらは朝倉景綱(あさくらかげつな)の可能性がある。朝倉景綱は越前国の朝倉義景(よしかげ)の一族で、織田城(福井県越前町)の城主。朝倉氏滅亡後は織田信長に仕えたが、天正2年(1574年)に一向一揆に織田城を落とされている。その後の動向は不明だが、ここに出てきた朝倉兵庫介が同一人物なら、明智光秀の与力か何かになっていたのだろうか。
天正3年5月15日(その三)、第三句を詠まない
さて明智殿ハ織田との東国の陣立の程なれハ、なくさミのためにハ如何候とて来られす候、さて其より風品の前に舟捍付候へハ、明智とのさし出られ、風品にてさうめん、始の鮒・鯉なと肴にて酒肴、儅、紹巴發句、四方の風あつまりて涼し一松、脇明智殿、濱邊の千鳥ましるかゐの子、拙者第三と候へ共、斟酌いたし罷立候、
じつは明智光秀は出陣の準備で忙しい。5月21日に織田信長は三河国長篠(愛知県新城市長篠)で戦っている。「長篠の合戦」である。島津家久が坂本城に招かれたのは、その直前のことだったのだ。
明智光秀は「陣立てをしなきゃいけなくて、あまり遊んでいるわけにもいかないので」と言って別れることに。だが、舟が風呂(原文では「風品」)につくと、明智光秀もこれに付き合う。「遊んでいられない」と言っていたはずななのに。風呂では、そうめんやフナやコイなどを肴にして酒を飲んだ。
ここで里村紹巴が発句。
四方の風あつまりて涼し一松
と。
これを受けて明智光秀が詠む。
濱邊の千鳥ましるかゐの子
と。
そして、第三句を振られた島津家久は、斟酌して(遠慮して)詠まず。
なぜ、詠まなかったのか? 上手く詠んでも気まずいし、下手だと興がさめるし、と思ったのか? あるいは、ほかに思うところがあったのかもしれない。
天正3年5月15日(その四)、坂本城を見学
其より和田玄蕃なと同心候て、亦城の内一見、さて城のたくハへ、其/\の倉、薪なとまて積置候事、言の葉におよハす候、さて舟ニ乗、明智殿いとまこひ仕、元の宿のうしろに舟おし着、少やすらふところに、明智殿より紹巴まてとて、拙者ニかたひら三ツ、宇治の名布とてもたせられ候、きなれ衣の旅やつれを見およはれ候かとこそ、
和田玄蕃の案内で坂本城を見学する。倉の蓄えが多く、薪も高く積み上がっていた。「言の葉におよハす」と島津家久は感心しきり。たぶん、「籠城したら落ちそうにないな」と分析したことだろう。
ここに登場する和田玄蕃は明智光秀の家臣か。和田氏は近江国甲賀和田谷(滋賀県甲賀市甲賀町)の土豪で、一族の和田惟政は足利義輝の家臣として活躍している。たぶんのこの和田氏の者だと思われる。
坂本城をあとにして帰る。宿の近くに舟をつけてしばらく休んでいると、明智光秀からの贈り物が届く。帷子(からびら)3枚と上等な宇治の布をいただく。「旅やつれの服装を見ての心遣いだろう」というのが島津家久の感想だ。明智光秀の心遣いの細かさが垣間見える。あるいは「都ではそれなりの人物に会うのだから、ちゃんとした格好をしてね」とい暗に伝えてきたのかも。
天正3年5月15日(その五)、歌枕と若衆の舞
儅、舟出候へハ、跡にかたゝ其前ニ真のゝ入江、さてむかへ鏡山、三上のたけ、水莖の岡、やすの川、山田、やはせ、儅、あハ津の森の前ニ舟をさしよせ候へハ、其所の人々紹巴へすゝをもたせ来たつさひ申候、さてせたの長橋、亦から橋ともいへり、其次ニ舟橋、軈而石山世尊院へ参、風品ニ入、あるしまうけ様/\、夜入て兒若衆こうたなとうたひ、酒宴あるに、十ニ三計の若衆、小哥なとを舞廻られ、其興をもよほされ候、
再び船を出す。琵琶湖を航行して堅田(大津市堅田)、真野の入江(大津市真野)、対岸のほうには鏡山や三上山(ともに滋賀県野洲市)が見える。水莖の岡(みずくきのおか、滋賀県近江八幡市)、野洲川(河口は野洲市)、山田や矢橋(ともに滋賀県草津市)を見てまわった。粟津の森(大津市粟津)の前に船を寄せると、その土地の人が里村紹巴に酒と肴をもってきた。瀬田の長橋(瀬田の唐橋、大津市唐橋町・瀬田にかかる)を見て、次に舟橋(詳細わからず)を見て、石山世尊院(大津市石山寺)へ参拝。
島津家久が見た場所として記されているのは、歌枕の地ばかりでもある。
風呂に入ったあと、夜にはまた酒宴。座では12歳~13歳の少年たちの小唄や舞も楽しんだ。
天正3年5月16日、この日は7文字だけ
十六日、世尊院連歌興行、
明けて5月16日はわずかに7文字。長くて濃すぎる前日の日記とは対照的だ。石山寺の世尊院で連歌興行を行ったことだけが記される。
里村紹巴が滋賀に出向いたのは、この連歌興行のためだったようだ。そして、島津家久もこれに同行したというところか。
明智光秀と島津家久のやりとりは漫画『センゴク権兵衛』でも描かれている。
明智光秀との面会について、いろいろ想像してみる
5月14日と15日の日記からはいろいろなことが想像される。そのへんのことを、ちょっと考察してみたい。繰り返しになるが、あくまでも想像である。
政治的な意味合いは?
これはあったと思う。
島津家久の上京の目的の一つに「織田家との関係づくり」もあったと思われる。
織田信長が京での覇権争いを制し、将軍の足利義昭も追放。自身の武家政権を築きつつあるというのが、天正3年(1575年)の頃である。島津家は都から遠いものの、そんな情報を得ていたと考えられる。近衛家とつながりがあり、文化人との交流もある。商人や僧・修験者の行き来もあり、情報はけっこう入ってくる。
織田信長もまた、近衛家をはじめとする公家衆や商人から島津家の情報を得ていたことだろう。
織田信長のほうも島津家との関係づくりに興味を持っていたのではないだろうか。南九州は都から離れた僻地ではあるが、海外への航路としては重要な場所だ。例えば、鉄砲も宣教師もこっちから入ってきたものでもある。交易に目を向ける織田信長にとっては、島津家を味方につけておきたいという思いもあったかもしれない。
里村紹巴は織田家とも島津家とも親交がある。両家の間を取り持つ役割を担っていたのではないだろうか。島津義久から「織田家へつないでくれ」と依頼があった可能性もあるし、逆に織田信長から「島津家へつないでくれ」と依頼があった可能性もあるかも。仮に後者であるとしたら、織田家から相談を受けた里村紹巴が島津家に働きかけて、そして島津家久が都に送られた、と。関係づくりを前向きに検討しつつもまずは調査から、という印象も受ける(あくまでも個人的な感想)。
そして、織田家では島津家との外交を明智光秀に担当させたのだろう。長篠の戦いの出陣直前という忙しい時期にも関わらず、明智光秀は丁寧に接待している。里村紹巴を仲介役として、段取りもしてあったことだろう。
外交の話をしたのか?
これはなかったと思う。
たぶん、島津家と織田家のファーストコンタクトだったのではないだろうか。さすがに、いきなり具体的な話をすることはないかと。
島津家久と明智光秀のやり取りには、独特の緊張感がある。お互いに腹の探りあいをしている。
茶の湯の席でのこと、連歌の第三句を遠慮したといったことも書かれているが、相手がどんな反応をするのかお互いに見定めているような感じも受ける。
島津家と織田家の関係、その後は?
島津家久のあとに、兄に島津歳久も上京している。島津歳久が何をしたのかは、記録がないのでよくわからない。
ただ、島津歳久が織田家とのなんらかの交渉をして、良好な関係をつくることができたんじゃないだろうか(あくまでも想像)。天正9年(1581年)6月に島津義久が大友義統(おおともよしむ)と和睦するが、このときは織田信長が仲立ちとなっている。
島津家と織田家との関係は、明智光秀の謀叛により終わる。織田信長の政権がなくなってしまうのだ。大友家との和睦も破綻した。そして、織田信長に代わって天下人となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)とは、島津家は敵対する。
つづく……。
<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録
鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年
『都名所図会 本編』
編/秋里籬島 校訂/原田幹 発行/人物往来社 1967年
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