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島津家久の上京日記【10】 賀茂の祭りとか、祇園あたりの見物とか/天正3年5月1日~5月5日

天正3年(1575年)5月、島津家久(しまづいえひさ)は上京中である。都はさすがに見どころが多く、名所まわりが続く。京滞在中は連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)の世話になっている。超一流の文化人である。そんな人物の案内で見物に出かけたりもしている。そのあたりのことが『中務大輔家久公御上京日記』に記されている。

 

前回の記事はこちら。

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『中務大輔家久公御上京日記』の解説はこちらの記事にて。

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史料は東京大学史料編纂所の翻刻より引用。

『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)

 

島津家久は島津貴久(しまづたかひさ)の四男。当主である兄の島津義久(よしひさ)のもとで活躍し、戦場での鮮烈な勝利が目立つ。詳しくはこちらの記事にて。

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なお日記の日付は、旧暦となっている。

 

賀茂社の祭りに超一流の芸能人

 

天正3年5月1日、賀茂社のお祭りへ

五月朔日、昌叱・心前同心にて賀茂の祭礼見物ニ罷出候、先正國寺、是ハ上総殿の定宿也、さて行て右方ニ御たかし川、たゝすの森、其次ニ賀茂川を渡、けい馬見物し、らちをいひて其内をのかれ候、儅、蝉の小川、石川同河也、やかて片岡の森、神山同所也、儅、賀茂の宮の邊にて京の代官村民其外いさなひて亂舞有、大鼓村井捨弟、小鼓天下一観世彦左衛門子、太鼓賀茂の社人西藤甚十郎、うたひ渋屋大夫藤内、狂言滿左衛門・よ左衛門、各々遊らんにも目をも慰め、さて帰りニしちくといへる村を通り、左に斎院・今宮、さて紫の一見、猶行て七野社、さて舟岡、其より天神の辻といへるロより京ニ入候、

 

里村昌叱(里村紹巴の娘婿)と心前(里村紹巴の門人)の案内で賀茂社の祭り見物に出かけた。賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ、上賀茂神社、京都市北区上賀茂)では5月に葵祭が催される。そのうちの賀茂競馬(かもくらべうま)の祭礼があり、これに関連して5月1日にもなんやかんやとあったようだ。

賀茂社へ詣でる前に「正國寺」の前を通る。これは相国寺(しょうこくじ、京都市上京区相国寺門前町)のこと。日記では「織田信長の定宿だ」ということにも触れる。相国寺前からしばらく行くと右手のほうに高瀬川があり、糺の森(ただすのもり)も見えた、と。そして鴨川を渡ったところで、競馬を見物する。本番前の足汰式(あしぞろえしき)が行われていたところか? そのあと、内埒のほうへ抜けて「蝉の小川(瀬見の小川)」。ここは「石川」とも呼ばれる。「糺の森」「瀬見の小川(石川)」は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ、下鴨神社、京都市左京区下鴨)の参道の森の中にあり、歌枕の地(若の題材となる名所)として知られる。わざわざ書いてあることから、島津家久の和歌好きがうかがえる。また、この日の競馬は賀茂御祖神社(下鴨神社)の近くで行われていたようだ。そのあとには「片岡の森(かたおかのもり)」にも触れる。賀茂別雷神社(上賀茂神社)のほうにあり、これもまた歌枕の地である。

 

賀茂宮に着くと役人も住民も入り乱れて踊っていた。この賀茂宮は賀茂別雷神社(上賀茂神社)のほうだ。大鼓(おおつづみ)を打つのは「村井捨弟」。織田信長は村井貞勝(むらいさだかつ)を京都所司代に任じているが、その弟の村井宗信(むねのぶ)も兄の政務をたすけていた。「村井捨弟」は村井宗信のことか? なお、鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』では村井貞勝その人であると解説が入っている。

小鼓は「天下一観世彦左衛門子」。この時代の観世流の小鼓の名人に観世豊次がいる。通称は「彦右衛門尉」。この人物か、あるいは関係者(息子とか)だと思われる。太鼓は西藤甚十郎が担当。この人物は賀茂社の社家であるとのこと。謡(うたい)は「渋屋大夫藤内」。能の謡の大家に渋谷氏(渋屋氏)があり、能の演者として「渋屋大夫」の名も残る。こちらの人物だろうか。狂言の「満左衛門」と「よ左衛門」も渋屋家や観世家の者だろうか。おそらく彼らは、猿楽で名の売れていた者たちだろう。当世一流の芸能を見て聴いて、日記には「目をも慰め」と記す。

 

賀茂別雷神社(上賀茂神社)から帰る。賀茂川を渡って南下して紫竹(しちく、京都市北区紫竹)を通り抜けると、左手に「斎院」と「今宮」。そして「紫」をちょっと見物したとも。「斎院」とは賀茂斎院(皇女が奉斎する)で、その御所が紫野(むらさきの)にあったという。また、「今宮」は今宮神社(京都市北区紫野今宮町)のことだろう。七野神社(ななのじんじゃ、京都市上京区社横町)をすぎ、船岡山(京都市北区紫野北舟岡町)の近くを通り、「天神の辻」から京の宿へと戻った、と。「天神の辻」は北野天満宮(京都市上京区馬喰町)の近くかな。

 

 

天正3年5月2日、里村紹巴は留守

二日、紹巴うちへ越候留主ニ、下京へまかり候、

 

里村紹巴を訪ねたけど、宇治に出かけていて留守。帰ったあとは、何をしたんだろう?

 

 

天正3年5月3日、松茸を振る舞われる

三日、紹巴帰り候て松たけ名物とてふるまハれ候、夜入候て下総の宿へ紹巴・昌叱同心候て酒たへ候、

 

また里村紹巴を訪ねる。この日は戻ってきていた。宇治の名物の松茸を振る舞われた。夜になって「下総」の宿へ里村紹巴・里村昌叱とともに行く。そして飲み食いした。

「下総」とは下総有馬勘解由のことだと思われる。4月24日に上京してきたことが日記にも書かれている。

 

 

天正3年5月4日、ご馳走になる、宇土殿といっしょに

四日、紹巴にて肥後の宇土殿、亦我々ニも食たへさせられ候、

この日も里村紹巴にご馳走になる。肥後の宇土殿も一緒に。「宇土殿」とは肥後国宇土(熊本県宇土市)領主の名和顕孝(なわあきたか)のことだろう。

二日続けての松茸パーティーか?

 

ちなみに、名和顕孝はのちに島津氏の傘下に入る。天正6年(1578年)の高城川の戦い(耳川の戦い)のあと、大敗した大友(おおとも)氏の肥後での影響力が弱まる。結果、肥後国は島津氏と龍造寺(りゅうぞうじ)氏の勢力争いの場となった。このときに名和氏は島津を頼ることになる。

余談だが、名和氏はもともと伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)に出自がある。南北朝争乱期に南朝方で活躍した名和長年の後裔である。名和顕興(長年の孫)が肥後に領地をもらって移り、名和家は九州で続いていた。

 

 

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天正3年5月5日、祇園とか霊山とか粟田口とか

この日はけっこうな長文なので、分割しながら解説する。

五日、紹巴の秘蔵穴住大師の御筆、小野の小町の繪像拝見、儅、未剋ニ紹巴同心にて先めやミの地蔵ニ参、さて祇薗、其より八坂の塔ニ参ミれは、正徳大師の御影とて拝見候ニ、御くしを打わりて玉眼をぬきけるとみえ侍るハいかなる者のしはさにや、おそろしくこそ、

 

里村紹巴が秘蔵する「穴住大師の御筆」を見せてもらった、と。鹿児島県史料『旧記雑録 続編一』では「空往大師」とあり、「弘法カ」と説明書きが添えられる。弘法大師つまりは空海の書であろうとのこと。小野小町の絵像も見せてもらう。こちらの由緒はよくわからないが、「秘蔵」というからには名品だろう。小野小町は六歌仙の一人にも数えられている。

 

未刻(午後3時前後)に里村紹巴の案内で祇園方面へ出かける。まず「めやみ地蔵」を参拝。これは寿福山仲源寺(京都市東山区祇園町南側)にある。「目疾地蔵」と書き、眼病治癒の霊験があるとされる。『伝説の都 祇園の巻 中巻』によると、つぎのような話が伝わっているとか。

安貞2年(1228年)に鴨川が氾濫したとき、防鴨河使の勢多判官為兼のもとに僧が現れて「鴨川東岸に禹王の廟を祭り、北岸に弁財天の社を祭るべし」と告げて地蔵堂へと消えた。その僧は地蔵菩薩の化身だと勢多為兼は思い、言われたとおりにすると雨は止み、洪水は治まった。それでこの地蔵を「雨止(あめやみ)地蔵」と呼ぶようになり、それが「目疾地蔵」に転じたのだという。

 

そのあと、「八坂の塔」へお参り。霊応山法観寺(京都市東山区八坂上町)のことである。「八坂の塔」というのは、法観寺の五重塔だ。法観寺は古くは八坂寺とも呼ばれ、聖徳太子の創建とも伝わる。寺院に納められた聖徳太子像を拝観すると、頭が壊されていた。「打わりて玉眼をぬきけるとみえ侍る」という様子を見て、「いかなる者のしはさにや、おそろしくこそ(誰がこんなことをしたのか! ひどいことだ)」と記している。

 

さて行て雲井の寺とて岩屋の内ニ地蔵まします、今ハ寺の形なし、さて霊仙ニ参、こく河の御堂拝見、帰りニかつらの橋を打過、やかて双村寺、其次ニ長楽寺、本尊観世音、其寺の脇に一向宗の村有といへ共今ハなし、是ハおさかより先ニ立し一向宗といへり、

 

「雲井の寺」とは「雲居寺」のことか。ちなみ「うんごじ」と読む。もしかしたら「くもい」とも読んだのか? 日記にもあるとおり、当時はすでに寺がない(跡地は京都市東山区高台寺下河原町のあたり)。岩屋に地蔵が納められていという。雲居寺は大仏のある古刹であったが、応仁の乱(1467年~1477年)で焼失している。現在は鷲峰山高台寺がある。高台寺は慶長11年(1606年)に高台院(北政所)が豊臣秀吉の菩提を弔うために創建したもの。

 

「霊仙ニ参、こく河の御堂拝見」とは、霊山正法寺(りょうぜんしょうほうじ、京都市東山区清閑寺霊山町)に参ったということ。「こく河」とは国阿(こくあ)で、正法寺を再興した時宗の僧である。こちらの寺も戦乱で荒廃していたが、当時は再建されつつあった頃か。

正法寺から降りて「かつらの橋」(詳細不明)を過ぎて、「双村寺」に至る。これは雙林寺(そうりんじ、京都市東山区鷲尾町)か。こちらも国阿が再建した寺院で、応仁の乱で荒廃。後年になるが、天正13年(1585年)に羽柴秀吉が本堂を再建している。つづいて黄台山長楽寺(京都市東山区円山町)に至る。ここもまた国阿が入った寺院である。本尊は観世音とする。長楽寺の脇には一向宗の村があったとも記す。京の一向宗は、大坂の一向宗よりも古いとか。

 

さてあハたロ、劔を作し水有、今もしめ縄を引、おろかならす、是もよしミつと也、銘ニハ吉光と也、儅、智恩院とてほうねん上人の御堂有、亦一心院とて浄土の本寺有、参ミれは僧たち餘多ましまして、息の内にて念佛、静なる躰無申計候、其御堂の縁に六七年ほと無言する者有、

 

華頂山知恩院(京都市東山区林下町)のほうへ行く。そこに粟田口の刀匠が鍛冶に用いた水源があったという。注連縄がつけられていたとも、知恩院の境内に「小鍛冶の井戸」と呼ばれる史跡があり、これのことだと思われる。粟田口の名工の三条宗近(さんじょうむねちか)が使った水らしい。11世紀頃の人物で「小狐丸」「三日月宗近」の作刀で知られる。また、粟田口で作られた銘刀「吉光」にも日記で触れている。

知恩院には法然上人の御影堂があり、一心院とともに浄土宗の総本山だ。たくさんの僧がいて「息の内にて念佛」と状況を説明している。「呼吸そのものが念仏」というような意味で、「生きていることが念仏を唱えることに同じ」といったところ。「静なる躰無申計候(なんとも言えない静寂さ)」という感想も。6年~7年くらい無言の行をしている者もあるとか(息の内にて念仏で)。

 

さて青連院とのゝ御舘一見、皆荒終候、今は其邊に少菴をむすひおハしまし候、さてあハたロニ見猿,きかさる・いハさるとて石に作て有といへとも今ハなし、さて其口を打過て弁慶石と石といへる所にて、紹巴よりもたせられ候酒たへ候、其より紹巴の舘へかへり申候、

 

粟田口の青蓮院殿の屋敷を見にいく。ただ、ここも戦乱で荒廃。青蓮院は法親王(ほっしんのう、皇族出身の高僧)などが門跡を務める格式の高い天台宗寺院である。この頃の青蓮院門跡は尊朝法親王といい、近くに小庵を結んで住んでいたという。

 

粟田口には「見ざる聞かざる言わざる」の三猿の石像かあったと聞いているが「今はなし」と。その後、弁慶石で酒宴。そして里村紹巴の屋敷に戻っていった。

なお、弁慶石は京都市中京区弁慶石町にある。明治26年(1893年)にこの地へ移されたもので、天正3年当時はもうちょっと東のほうの誓願寺(中京区桜之町)に置かれていたようだ。

 

 

 

 

『中務大輔家久公御上京日記』はなかなかに詳しく書いてる。戦国時代の京の様子がわかる、すごくいい史料だとあらためて感じる。島津家久の京滞在はまだだ終わらない。

 

つづく……。

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<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録

鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

『出雲のおくに その時代と芸能』
著/小笠原恭子 発行/中央公論社 1984年

『伝説の都 祇園の巻 中巻』
著/石井琴水 発行/史跡伝説研究会 1936年

『京都ふしぎ民俗史』
著/竹村俊則 発行/京都新聞社 1991年

『応仁記・応仁別記』(古典文庫第381冊)
編/和田英道 発行/古典文庫 1978年

ほか

各寺院の公式ホームページなども参考にしました。