船間島古墳(ふなまじまこふん)は鹿児島県薩摩川内市港町にあり。川内川の河口に船間島は位置する。もともとは島だったが、埋立工事により現在は陸続きに。島には高さ26mほどの小丘があり、その山頂に古墳がある。
古墳へ
船間島は川内港のすぐ近く。かつての薩摩国高城郡水引の内。川内川をはさんだ対岸の久見崎にはかつて島津家の軍港もあった。この地から外洋へつながり、そして川内川へ入って内陸のほうへも通ず。水運の要所である。

かつては「箱崎島」と呼ばれていた。『三国名勝図会』によると、承応2年(1653年)に「船津島」に改められ、さらに「船間島」とされたという。

『三国名勝図会』についてはこちらの記事にて。
川内河口大橋がかかっている。その北岸側に小丘がある。そこが船間島だ。道路沿いには「船間島古墳」の標柱。その標柱の向かって右側のほうに行くと古墳への参道口。



参道をちょっと登ると、盛り上がった地形。その上に小さな祠がある。そこが船間島古墳だ。築造時期は6世紀~7世紀頃と推定。被葬者が誰なのかは、とくに伝わっていない。
かつては「地下式板石積石室墓」と見られていた。これは薩摩の隼人の墓に見られるもので、ここもそうだと推測されていた。 1976年発刊『川内市史上巻』などではそう記されている。しかし、1986年から翌年にかけての発掘調査により、「竪穴式石室」のある「円墳」と改められている。そうなると、畿内型の古墳の影響がある、ということに。


直径は約17m。高さ2m。石室が露出する。板石が散乱し、石棺上に石蓋がかぶせられている。石棺内部は幅123㎝、奥行き103㎝、高さ78㎝。不整形であることから、半壊していたものを組みなおした可能性もあるとのこと。内部や蓋石には朱も塗られている。


なお、情報は鹿児島県立埋蔵文化財センターがホームページで公開している資料から。「先史・古代の鹿児島」で閲覧できる(もとは資料集等の書籍だと思われる)。以下のリンク先から。
石室の上には小さな祠がある。昔から祠があったとされる。現在のものは比較的新しめで、建て直されたものだろう。祠の中に石仏や石塔残欠などが祀られている。由緒はよくわからず。『川内市史 石塔編』によると、室町時代のものや江戸時代ものが混在しているとのこと。

川内には古墳が多い。こちらの記事もどうぞ。
臨江寺跡石塔
山の麓には「天徳山臨江寺関係石塔」という史跡もあり。

臨江寺は臨済宗の寺院で、本尊は薬師如来。もとは船間島からやや下流の京泊(きょうどまり)にあったが、こちらへ移されたのだという。明治2年(1869年)に廃寺。船間島古墳の祠に納められているものも、臨江寺にあったものかもしれない。
船間島神社
古墳のすぐ近くには船間島神社も鎮座。新田神社の境外末社である。古くは「十郎大夫祠」「海神宮」とも称された。御祭神は十郎大夫、あるいは御伴神(おとものかみ)。ニニギノミコトが千台(川内)に入る際に十郎大夫が道案内をした、という伝承もある。


また、久見崎の軍港から出向する際には、ここに神楽を奉納して航海の安全を祈願したとも。
旧日本海軍「震洋艇」特攻基地跡
船間島神社の参道口にはこんな標柱もある。近くには説明看板も。

太平洋戦争末期に「震洋(しんよう)」という特攻艇が採用された。ベニヤ板製のモーターボートで、爆薬を積んで体当たりをするというものだ。その基地は鹿児島県内にも多く、その一つが船間島にも置かれ、第131震洋隊が配属されていた。
<参考資料>
『川内市文化財要覧』
編/川内市歴史資料館 発行/川内市 1985年
『川内市史 上巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1976年
『川内市史 下巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1980年
『川内市史 石塔編』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1974年
鹿児島県立埋蔵文化財センターのホームページ
「先史・古代の鹿児島」より
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 発行/山本盛秀 1905年
ほか