荒田八幡宮(あらたはちまんぐう)は鹿児島市下荒田に鎮座する。このあたりはかつての薩摩国鹿児島郡荒田村のうち。この荒田村には「荒田荘」という荘園があった。
建久8年(1197年)の『薩摩国図田帳』には「大隅正八幡宮御領二百二十五町内」の「一円御領荒田庄八十町」とあり。荒田荘は大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮、鹿児島県霧島市隼人町内)の荘園だったことがわかる。
そして、荒田八幡宮は荒田荘の鎮守だったと思われる。
御由緒
御祭神は応神天皇・玉依姫尊・神宮皇后の三座。
創建年代は不明。社伝によると和銅年間(708年~715年)とも。また、大隅正八幡宮領荒田荘の成立(時期不明)にともなって、大隅正八幡宮から勧請されたとも。
古くから産土神があり、そこに正八幡宮の神様が重ねられたのかな? という想像もさせられる。
市街地の中の境内
荒田八幡宮は鹿児島市の中心市街地にある。ビルが立ち並ぶところで、交通量のかなり多い道路に面している。周囲の喧騒が嘘みたいに、境内は静かな雰囲気。大きな木の枝が空を覆い、ここだけちょっと涼しげな感じがする。
境内はけっこう広く、車で入っていける。また、鹿児島市電の「荒田八幡」電停がすぐ近くにある。とても参詣しやすい神社だ。

電停から鳥居が見える。そこが参道口だ。

ちなみに鳥居の前は「八幡様通り」と呼ばれる。ここの通りには、じつは荒田川が流れている。現在は暗渠になっていて、道路の下を川が流れている。昭和50年代の頃はまだ川が見え、護岸には柳の枝が揺れていたことを記憶している。
鳥居の両脇には門守神社がある。門番の神様だ。それぞれ櫛石窓神(クシイワマドノカミ)、豊石窓神(トヨイワマドノカミ)を祭る。

鳥居をくぐると巨大なクスノキがある。御神木がビルと高さを競っている。


参道を奥へ。社殿がある。神社の方の話によると、拝殿・幣殿は昭和58年(1983年)に建てられたもの、本殿は江戸時代中期頃のものとのこと。


神様がたくさんいるぞ
荒田八幡宮には摂社も多い。ほかにも神様がいろいろ。境内に誰かが祭ったものであったり、地域の神様が移されたりしたものだろう。
本殿の向かって右側のほうにも小さな鳥居。ここに神様が並ぶ。

龍神。躍動感がある。腕利きの石工の作だろうか。

写真左が三宝荒神。竈や火伏の神様である。写真右は恵比寿。こちらは豊漁や商売繁盛の神様。ちなみに荒田八幡宮は海からも近い。

こちらは水神や地神など。

タノカンサァ(田の神)だ。

こちらは由緒を記した石碑がある。これによると、もともとは大隅国にあったものらしい。これを鹿児島に持ってきた、と。豊作の土地から田の神を盗むという風習がある。「オットイ(おっ盗り)」という。田の神像は元の土地に返すことになっているが、盗まれっぱなしのものもけっこうある。荒田八幡のタノカンサァもそうしたものらしい。経緯はよくわからないが、河野主一郎(こうのしゅいちろう)の邸宅にあった。それが荒田八幡宮に移されたのだという。
荒田八幡宮の田の神については、こちらの記事でも。
社殿の向かって左側の森の中にも神様がたくさんいる。
こちらにもタノカンサァ(田の神)。アゴヒゲが印象的。

写真の右手前から馬頭観音(ばとうかんのん)・根占家祖先・宇気母智神(ウケモチノカミ)。

馬頭観音は家畜の守護神だ。また、ウケモチノカミは食料の神様。いずれも農耕と関係あり。
「根占家祖先」というのは根占(ねじめ)家が祀ったものだとは思われるが、由緒がよくわからない。喘息や百日咳を治す神様とのこと。
さらに奥のほうへいくと稲荷神社。こちらは摂社かな。豊受大神(トヨウケノオオカミ)・倉稲魂大神(クライナタマノオオカミ)を祭る。

写真左が蛭児神社(ひるこじんじゃ)。蛭児命を祭る。写真右が祖霊社。天照大神(アマテラスオオミカミ)・産土大神(ウブスナオオカミ)を祭り、「皆様方の御先祖がお集まりになる御社です」と説明あり。

大隅正八幡宮領荒田荘
南九州には巨大荘園が二つあった。一つは島津荘(しまづのしょう)、そしてもう一つが大隅正八幡宮領である。大隅正八幡宮は大隅国の一之宮で、大きな力を持っていた。
建久8年(1197年)の『大隅国図田帳』によると、大隅正八幡宮領は合計で1296町余。これは大隅国の4割ほど。また、『薩摩国図田帳』には前述のとおり225町で、このうちの80町が荒田荘である。
大隅正八幡宮は豊前国の宇佐宮(宇佐神宮、大分県宇佐市)との関わりが深いと推測されるが、荘園の本家は山城国の石清水八幡宮(京都府八幡市)。中世においては石清水八幡宮の影響が強くなっていることもうかがえる。
11世紀末頃に石清水八幡宮から行賢という僧が下向し、大隅正八幡宮の執印職(しゅういんしき、神社の管理者)を任されたとされる。この行賢があちこちの土地を入手したという記録も。大隅正八幡宮領の規模拡大に関わっていると考えられる。荒田荘の成立も、この頃という可能性もある。
大隅正八幡宮(鹿児島神宮)についてはこちらの記事にて
荒田八幡宮の随神が東西南北に配置されている。
「東随神」は下荒田の天保山中学校の近くで、武村の飛地の天保山や塩屋村との境にあたる。
「北随神」は上之園町の甲南高等学校の近くで、武村との境。
「西随神」は田上の城之平にあり、田上村との境。
「南随神」は荒田にあって、中村との境。
随神に囲まれた一帯が、荒田荘の範囲だと考えられる。
かつて、三年ごとの神事に「八幡境廻り」というものもあった。春の彼岸の頃に神輿を担いで四つの随神をまわったという。その様子については、『三国名勝図会』に絵図がある。

『三国名勝図会』については、こちらの記事にて。
社宝が海中に沈む
『三国名勝図会』にはこんなことも記されている。
元亀二年四月下大隅賊徒、武村に襲ひ来て合戦あり、當社を亂妨し、神寶を奪ひ、舟に乗て歸りしが、暴風發りて舟危く、寶物皆海に投しけるとなん (『三国名勝図会』巻之三より)
元亀2年(1571年)11月に大隅国の肝付兼亮(きもつきかねすけ)・伊地知重興(いじちしげおき)・禰寝重長(ねじめしげたけ)が、水軍で鹿児島の島津義久(しまづよしひさ)を急襲した。『三国名勝図会』では「四月」とするが、たぶんこの戦いのことだと思われる。
大隅勢は荒田八幡宮の社宝を奪い取って舟に積み込んだ、と。そして、暴風に見舞われて宝物は海に投げ捨てられた、と。
元亀2年の戦いについては、こちらの記事にて。
蝮虵の鎮符(まむしのおまもり)
荒田八幡宮の神様はマムシを深く嫌うとされ、荒田荘ではマムシを見かけることがなかったのだという。
むかしから荒田八幡宮の社殿下の砂はマムシ除けに。持ち歩くとマムシの害にあうことがなく、砂をまけばマムシを退治できる、という霊験があるとされる。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『鹿児島市史 第三巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 発行/鹿児島市 1971年
ほか