ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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島津義弘の娘たち/御屋地と御下 戦国の世に振り回される

島津義弘(しまづよしひろ)の子は五男二女あり。二人の娘については「御屋地(おやぢ)」「御下(おした)」という名が伝わっている。ともに通称で本名は伝わっていない。この姉妹は戦乱のややこしい事情に巻き込まれ、家の事情に振り回された生涯だった。

なお、息子たちのほうは四人が早世。三男の島津忠恒(ただつね、のちに島津家久に改名)だけが残り、こちらは島津家の家督を継承。薩摩藩の初代藩主にもなっている。また、この姉と妹は、島津家久(島津忠恒)にとって軽く扱えない存在でもあったようだ。

 

なお、日付については旧暦にて記す。

 

御屋地と御下

 

長女/御屋地

母は北郷忠孝の娘

天文23年(1554年)生まれ。島津義弘(初名は島津忠平)にとっても最初の子である。幼名は「千鶴」。後年は「御屋地様」と呼ばれるが、これは晩年に住んだ屋敷にちなむもの。本名はわからず。この記事中では「島津忠平長女」「島津義弘長女」と呼ぶことにする。

 

母は北郷忠孝(ほんごうただたか)の娘。北郷忠孝は北郷忠相(ただすけ)の次男である。北郷氏は島津氏の一族で、日向国の庄内(宮崎県都城市や三股町など)を領している。

北郷氏は島津氏豊州家とも関係が深い。両家はお互いに嫁を送り込んでいて、血縁関係もかなり近い。豊州家は日向国飫肥・櫛間・志布志(宮崎県の日南市と串間市、鹿児島県志布志市)領する。北郷忠相の嫡男は北郷忠親(ただちか)といった。北郷氏の家督をついでいたが、豊州家に後継者が不在となったことから北郷家を抜けて豊州家の当主になり、「島津忠親」と名乗った。北郷家のほうは忠親の嫡男の北郷時久が家督を継承している。ちなみに、また、北郷忠相は母が豊州家初代の島津季久、北郷忠親(島津忠親)は母が豊州家2代目の島津忠廉である。

 

島津忠平(島津義弘)が北郷忠孝の娘を娶った時期や経緯は不明。ただ、豊州家・北郷氏との関係を強化するための政略結婚であったと思われる。北郷忠孝は島津忠親(豊州家)の弟であり、北郷時久の叔父にあたる。

なお、島津忠平(島津義弘)は島津貴久(たかひさ)の次男である。島津貴久も、もとは分家の相州家。守護の島津勝久(かつひさ)から惣領の座を奪ったという経緯がある。当初は北郷氏・豊州家は反発していたが、天文14年(1545年)に和睦。これ以降は、北郷忠相と島津忠広(ただひろ、忠親の先代の豊州家当主)は島津貴久を支持する。

島津忠平(島津義弘)は大隅国の岩剣城(いわつるぎじょう、鹿児島県姶良市平松)攻めで初陣を飾る。19歳であった。このときに長女も生まれている。

 

北郷氏の詳細はこちらの記事にて。

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島津氏豊州家の詳細はこちらの記事にて。

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島津義弘についてはこちら。

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両親が離縁

島津忠親(豊州家)が領する日向国の南部では、熾烈な勢力争いが展開される。北からは伊東義祐(いとうよしすけ)が攻め寄せ、南からは肝付兼続が侵攻してくる。豊州家と北郷氏は連携を取りながら応戦するも、苦しい状況であった。

永禄元年(1558年)3月に大隅国恒吉宮ヶ原(つねよしみやがはる、鹿児島県曽於市大隅町荒谷)で肝付兼続の軍勢と北郷氏・豊州家がぶつかる。結果は肝付方の大勝であった。同年11月には伊東義祐は飫肥の新山城(にいやまじょう、宮崎県日南市星倉)を攻めて陥落させる。この戦いで、北郷忠孝は戦死している。

永禄2年(1559年)6月に伊東義祐は飫肥に出兵する。島津貴久は島津尚久(貴久の弟)を援軍として送るが、豊州家は大敗した。

 

永禄3年(1560年)3月、島津忠親(豊州家)は島津忠平(島津義弘)を養子にとる。島津貴久との連携をより強化する狙いがあったのだろう。島津忠平(島津義弘)は飫肥に入り、伊東方と戦った。

永禄4年(1561年)5月、今度は肝付兼続と島津貴久が戦う。大隅国廻(めぐり、鹿児島県霧島市福山町)で合戦となり、肝付方が勝利する。廻を押さえられ、豊州家は島津貴久の支援を期待できなくなる。同年6月、島津忠親(豊州家)は伊東氏と和睦し、飫肥を明け渡す。また、肝付氏とも和睦して志布志を割譲した。

島津忠平(島津義弘)は養子縁組を解消し、永禄5年春に鹿児島へ帰る。このときに北郷忠孝の娘とも離縁した。

 

その後、島津忠親(豊州家)は飫肥を取り返すが、伊東氏・肝付氏との戦いは劣勢が続く。永禄11年(1568年)6月には飫肥が陥落、7月には櫛間も奪われる。島津忠親(豊州家)はすべての所領を失い、息子の北郷時久のもとに身を寄せた。

 

 

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北郷家へ、兄と結婚

北郷忠孝の娘は、北郷時久と再婚。継室として迎えられた。時期は不明。島津忠平長女も北郷家に入り、北郷時久の娘として扱われた。

北郷時久は正室(本田薫親の娘、早世か)との間に長女と長男と次男を設けている。長女は島津以久(島津貴久の弟の島津忠将の子)に嫁いでいる。長男は北郷相久(すけひさ)といい、時久の後継者とされた。また、次男は北郷忠虎(ただとら)といった。

北郷忠孝の娘は、北郷時久の次女と三男と四男を生む。次女は比志島義智(ひしじまよしとも、比志島義基とも)の正室で、のちに離縁。三男は北郷三久(みつひさ)、四男は北郷久村という。この三人は島津忠平長女にとっては異父妹・異父弟にあたる。

そして、島津忠平長女は北郷相久の正室となる。兄との結婚となるが、この二人は父も母も違う。

 

 

離縁、北郷相久の死

島津忠平長女は北郷相久と離縁する。

天正7年(1579年)に北郷相久は廃嫡され、日向国安永の金石城(宮崎県都城市庄内町)を囲まれて自害した。北郷時久と北郷相久の不和によるものとされるが、詳細は伝わっていない。この事件は天正9年の説もあり。

 

廃嫡にともなう離縁であったのか、離縁後の廃嫡だったのか、その前後関係はわからない。

 

 

再婚、豊州家へ

島津忠平長女は島津朝久(ともひさ)と再婚。天正10年(1582年)に長男が生まれているので、そのちょっと前に嫁いだのだろう。

島津朝久は島津忠親(豊州家)の次男。北郷時久の実弟でもある。豊州家は領主としての地位を失っていたが、島津義久(よしひさ、島津貴久の長男で当主)から領地を与えられて再興。さらに、島津忠平(島津義弘)の配下となった。

島津忠平(島津義弘)はかつて豊州家を守ることができなかった過去を持つ。島津朝久を引き立て、娘を娶せ、豊州家の再興を後押しした。

 

島津忠平長女は一男二女を生む。長男は島津久賀という。長女は島津忠倍(ただます、宮之城島津家)に嫁ぐ。次女はのちに松平定行の正室となる。

 

島津朝久は島津義弘に従って転戦し、武功をあげる。しかし、文禄2年(1593年)に朝鮮の陣中で没した。豊州家の家督は島津久賀が継ぐ。島津久賀は14歳で朝鮮に渡海し、島津義弘のもとで戦った。

島津久賀は慶長12年(1607年)に大隅国帖佐(鹿児島県姶良市の帖佐)の地頭を任される。帖佐は豊州家の旧領でもあった。のちに、薩摩国祁答院黒木(鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木)を与えられ、豊州家はこちらの私領主として続く。

 

 

帖佐の御屋地に住む

島津義弘は文禄4年12月(1596年1月か)から慶長11年(1606年)にかけて、大隅国帖佐に住んだ。帖佐館は「御屋地」とも呼ばれた。そして、島津義弘は加治木に移住したあと、帖佐館(御屋地)には長女を住ませた。住まいにちなんで「御屋地様」と呼ばれるようになる。

 

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次女が松平定行に嫁ぐ

御屋地の次女(島津朝久の娘)は、島津家久(島津忠恒)の養女とされる。人質として江戸に滞在した。そして、徳川家康の命令で、慶長10年(1605年)に松平定行(まつだいらさだゆき)に嫁いだ。

松平定行は遠江国掛川藩(静岡県掛川市)の松平定勝(さだかつ)の世子。松平定勝は徳川家康の異父弟にあたる。松平姓を与えられ、「久松松平家」と呼ばれる。その後、松平定行は家督を継承。伊勢国桑名(三重県桑名市)、伊予国松山(愛媛県松山市)と転封される。伊予松山藩は幕末まで続いていく。

 

御屋地の次女(島津朝久の娘)は一男一女を生み、長男の松平定頼(さだより)は久松家の世継ぎとなった。

元和4年(1618年)、御屋地の次女(島津朝久の次女)は早世する。

 

 

長寿をまっとう

寛永12年(1635年)、北郷忠孝の娘が亡くなる。天文23年(1554年)に御屋地を生んでいることから考えると、100歳前後か。すごく長命だった。

寛永13年(1636年)11月11日、御屋地が亡くなる。享年83。前年に亡くなった母ほどではないものの、こちらも長生きした。法名は「実清正真」。墓所は帖佐の龍護山総禅寺跡(姶良市鍋倉)にある。

 

御屋地さまの墓

御屋地の墓所、帖佐の総禅寺跡にあり

 

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次女/御下

姉の30歳年下

島津義弘の次女は天正12年(1584年)の生まれ。姉の御屋地との歳の差は30歳もある。幼名は「千鶴」。姉と同じなのでややこしい。のちに「御下」と呼ばれる。島津忠恒の正室(島津義久の三女)が「御上(おかみ)」と呼ばれていて、こちらと対になっているのかもしれない。

 

母は園田清左衛門の娘。園田清左衛門は鹿児島小野(鹿児島市小野町)領主の園田実明か? 広瀬氏養女とも伝わるが、詳細はよくわからない。島津義弘からは「宰相殿」と呼ばれていた。のちに、法号から「実窓院」「実窓夫人」とも。

島津義弘は北郷忠孝の娘と離縁したあと、相良晴広(さがらはるひろ)の娘を継室としている。肥後国の相良氏との政略結婚であったが、島津氏と相良氏の関係が悪化して離縁している。そして継々室となったのが宰相殿であった。こちらは政略結婚ではない。もともとは側室であったのかもしれない。

宰相殿は6人の子を産むが、4人は早世。比較的長生きできたのは、島津忠恒(島津家久)と御下の二人だけである。

 

 

伊集院忠真の正室に

正確な時期は不明だが、島津義弘次女は伊集院忠真(いじゅういんたださね)に嫁ぐ。伊集院忠真は、島津家の筆頭家老の伊集院忠棟(ただむね)の嫡男である。

婚姻の時期ははっきりしないが、慶長3年(1598年)頃と思われる。ちなみにこの頃の伊集院忠真は朝鮮へ出陣。泗川の戦いでも大いに武功をたてている。

伊集院忠棟は島津家の家老でありながら、豊臣政権の直参の大名として扱われている。文禄4年(1595年)に島津氏領内では豊臣秀吉の命令で一斉に所領替えが行われた。石高を減らす家が多かった中で、伊集院忠棟は日向国庄内から大隅国囎唹にかけての地域を賜る。その領域は現在の宮崎県都城市や鹿児島県曽於市にまたがり、8万石の所領を得た。

ちなみに、日向国庄内は北郷氏が13世紀より領していた地である。

島津義弘としては、家臣でありながら大きな力を持つ伊集院家との関係を強化する狙いもあったはず。また、伊集院忠真も将来を期待されていたのだろう。

 

 

庄内の乱

慶長4年(1599年)2月、島津忠恒は島津義弘より家督を継承。島津氏の当主となる。そのうぐあとの3月9日、事件が起こる。島津忠恒が京伏見の屋敷に伊集院忠棟を斬殺した。茶席にて斬殺する。「叛意あり」として、成敗したのである。

同年閏3月、事件を知った伊集院忠真は庄内で反乱を起こした。同年6月に島津忠恒・島津義久は庄内へ出兵する。ただ、伊集院氏の反乱軍は強く、戦いは長引いた。慶長5年(1600年)3月に伊集院忠真は降伏。徳川家康の仲介もあり、ようやく説得に応じた。伊集院氏は薩摩国頴娃(えい、鹿児島県南九州市頴娃)へ転封。石高は1万石に減らされるも、家は残った。

この騒ぎの最中のこと、2月18日に島津義弘次女は娘を生んでいる。幼名はまたも「千鶴」。母や伯母と同じでややこしい。

 

 

伊集院忠真が誅殺される

慶長7年(1602年)8月17日、伊集院忠真が誅殺される。この日、伊集院忠真は島津忠恒に同行。日向国野尻(宮崎県小林市野尻)で狩りを催したが、この最中に伊集院忠真は射殺された。また、伊集院忠真の家族をはじめ、一族はことごとく粛清された。

御下とその娘は、粛清されることはなかった。島津義弘の娘と孫、当主である島津忠恒の妹と姪ということから、さすがに命を奪うわけにはいかなかったのだろう。そして、御下が兄をものすごく恨んだであろうことも想像される。

伊集院家と縁を切った母娘は、島津義弘のもとに引き取られたようである。

しばらくは同行不明。島津義弘の住む大隅国加治木(鹿児島県姶良市加治木)で暮らしていたと思われる。なお、慶長12年(1607年)には母の宰相殿が亡くなっている。

 

伊集院氏についてはこちら。

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人質として江戸に住む

慶長18年(1613年)に幕府の命令で、江戸行きを命じられる。6月に加治木を発ち、11月に江戸に入った。

翌年には兄の島津家久(島津忠恒)から2000余石の領地を賜る。江戸住みの功を労ってのことだった。

帰国は元和5年(1619年)のこと。島津家久三男(のちに島津忠朗)が人質となり、御下はその役目を終える。同年末に国許へ帰る。なお、この年の7月に島津義弘は没している。

帰国後には人質の功で3000石に加増。所領は薩摩国祁答院佐志(けどういんさし、鹿児島県薩摩郡さつま町の佐志)

 

 

娘が松平定行に嫁ぐ

元和4年(1618年)に桑名藩主の松平定行の正室が亡くなる。翌年、その後妻として千鶴(御下の娘/伊集院忠真の娘)が嫁ぐことが決まった。千鶴は島津家久の養女という扱いであった。

先室は御屋地の次女。御下の姪にあたり、千鶴と従姉妹の間柄である。

 

 

再婚、島津久元に嫁ぐ

元和7年(1622年)、島津家久に命じられて御下は島津久元(ひさもと)と再婚する。

島津久元は薩摩国宮之城(鹿児島県薩摩郡さつま町)の領主。兄は島津忠倍。島津忠良の三男の島津尚久から続く家で、「宮之城島津家」と呼ばれる。分家の中でも重用され、島津久元は家老も務めている。

島津久元にはすでに正室がいた。この女性は新納忠増(にいろただます)の娘で、新納忠元(にいろただもと)の孫にあたる。島津久元は離縁し、再婚することになった。

 

御下は島津久元との間に男子一人(島津久近)を生むが、この息子は寛永13年(1636年)に15歳で早世している。

御下は慶安2年(1649年)8月17日に没する。享年46。法号「虚窓従白庵主」。

 

 

佐志島津家

御下は慶安2年(1649年)8月17日に没する。享年46。法号「虚窓従白庵主」。

 

遺領3000石は、島津光久(島津家久の子、藩主)の四男の島津久岑が継承することになった。だが、島津久岑は19歳で早世し、その後嗣には島津光久十一男の島津久當が入る。

この家の当主は薩摩国佐志(鹿児島県薩摩郡さつま町広瀬)に住み、「佐志島津家」と呼ぶようになる。佐志家は島津家の三男家として扱われ、薩摩藩の家老も出している。

 

現在の佐志交流館のあるところが佐志島津家の御仮屋跡。そのすぐ近くにあったは松尾山浄菩提院興全寺は佐志島津家の菩提寺とされた。御下の墓所は興全寺跡にある。

 

御下さまの墓

御下の墓所、興全寺跡にあり

 

 

 

 

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<参考資料>

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1990年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編三』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1983年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編四』
編/鹿児島県歴史資料セソター黎明館 発行/鹿児島県 1984年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編五』
編/鹿児島県歴史資料セソター黎明館 発行/鹿児島県 1985年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編六・附録一』
編/鹿児島県歴史資料セソター黎明館 発行/鹿児島県 1986年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集6『諸家大慨・別本諸家大慨・職掌紀原・御家譜』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1966年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年

ほか