2024-01-01から1年間の記事一覧
島津義久(しまづよしひさ)には娘が3人いる。長女は御平(於平、おひら)、次女は新城(しんじょう)、三女は亀寿(かめじゅ)と呼ばれている。 島津義久は島津氏の16代当主に数えられる。薩摩国・大隅国・日向国を制圧し、さらには九州全土へとその勢力を…
鹿児島市宇宿に天之御中主神社(あめのみなかぬしじんじゃ)が鎮座する。別称に妙見神社(みょうけんじんじゃ)とも。古くは妙見廟とも呼ばれていた。 このあたりはかつての薩摩国谿山郡宇宿のうち。『三国名勝図会』巻之十九で「妙見廟」について書かれてい…
JR南鹿児島駅前に「牛掛公園」というのがある。このあたりは「牛掛(うしかけ)」と呼ばれるところ。「牛懸」とも書く。あるいは「牛落」「牛下」とも。こちらの読みは「うしおろし」。 牛掛公園 鹿児島と谷山の間では、たびたび合戦があった。そのことも併…
中世の島津氏の惣領は奥州家(おうしゅうけ)である。そもそも奥州家とは何なのか? その始まりについて、ちょっと記事にしてみた。 島津氏が南九州の支配を確立するのは、南北朝争乱期のことである。その立役者となったのが島津氏久(しまづうじひさ)だっ…
加治木城(かじきじょう)は大隅国桑原郡加治木(「桑原郡」はのちに「始羅郡」)にあった。現在の鹿児島県姶良市加治木町である。「本城」や「古城」、「龍門ヶ城」とも呼ばれた。南九州の戦乱史において、加治木はたびたび戦いにさらされた。 長さ約1.2㎞…
「正宮山植杉記」碑というのが、鹿児島神宮の境内の杉林にある。 鹿児島神宮は鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座。旧称は「鹿児島神社」。八幡信仰も重ねられて「大隅正八幡宮」とも称した。 鹿児島神宮の社殿の裏には、末社の稲荷神社へと続く参道がある。こち…
島津義弘(しまづよしひろ)は「島津氏の17代当主」とされる。江戸時代に作成された『島津氏正統系図』ではそうなっている。 しかし、島津義弘は家督を相続した事実はないらしい。このことを理由に、「17代当主ではない!」という意見もあったりする。 なん…
戦国時代に活躍した島津氏の四兄弟。長男は島津義久(しまづよしひさ)、次男は島津義弘(よしひろ)、三男は島津歳久(としひさ)、四男は島津家久である。それぞれに、次のような評伝が広く知られている。 島津義久は「三州の総大将たるの材徳自ら備わる」…
島津(しまづ)氏は12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ)が南九州に所領を得て、その歴史がはじまる。日向国・大隅国・薩摩国にまたがる島津荘(しまづのしょう)を領したことから「島津(しまづ)」を名乗りとした。また、三ヶ国の守護職にも任じられ…
大隅国の一之宮の鹿児島神宮(かごしまじんぐう)にタノカンサァ(田の神)がいる。御神田を見守るように立っている。「宮内の田の神」とも呼ばれている。 タノカンサァ(田の神)は五穀豊穣や子孫繁栄の神様である。鹿児島県と宮崎県ではあちこちで見ること…
花尾神社(はなおじんじゃ)の記事の続きである。旧称は花尾権現社。鹿児島市花尾町に鎮座し、源頼朝・丹後局(たんごのつぼね)・永金(ようきん)を祭る。丹後局は島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)の母とされる人物だ。また、島津忠久は源頼朝の庶…
花尾神社(はなおじんじゃ)は、鹿児島市花尾町に鎮座する。旧称は「花尾権現社」「花尾大権現社」。この地は、薩摩国満家院(みつえいん)の厚地(厚智、あつち)というところであった。 御祭神は源頼朝と丹後局(たんごのつぼね)。従祀神に永金(ようきん…
龍門滝(りゅうもんのたき/りゅうもんだき)というのが、鹿児島県姶良市加治木にある。大きな滝で、けっこう遠くからも見える。高速道路(九州自動車道)を走っていると、加治木インターチェンジ近くで見ることができる。 昔から名瀑として知られていたよう…
「若き薩摩の群像」はJR鹿児島中央駅前の広場にある。 「若き薩摩の群像」 19人の像が並べられている。彼らは何なのかというと、慶応元年(1865年)に薩摩藩がイギリスに派遣した一団だ。「薩摩藩遣英使節団」と呼ばれている。外交使節3名と通訳1名、留学生1…
鹿児島縣護國神社は鹿児島市草牟田に鎮座する。護国神社は全国にあり、英霊(国家のために殉難した人の霊)を祀る。鹿児島縣護國神社は鹿児島県出身の英霊が7万7000余柱を御祭神とし、郷土の守り神として崇敬されている。 明治天皇の思し召しがあり、島津忠…
島津豊久(しまづとよひさ)は16世紀末に活躍した人物である。漫画の主人公にもなったりして、知名度もそこそこあるんじゃないだろうか。島津豊久の戦績を追ってみると、その戦場はおそろしく厳しいものばかりなのだ。 串木野城で誕生、父は島津家久 弟と姉…
「こんなところがあるのか!」と、市街地から車で5分ほどの場所に。幸加木神社(こうかきじんじゃ)を参詣した。鎮座地は鹿児島市小野の山中。 御由緒 せせらぎの音を聞きながら 木村探元の墓 御由緒 『三国名勝図会』によると、かつては「高加木権現廟」と…
中世の薩摩国では、渋谷(しぶや)氏が大きな力を持っていた。島津氏と手を組んだり、あるいは対立したり。戦国時代には渋谷一族の入来院(いりきいん)氏・祁答院(けどういん)氏・東郷(とうごう)氏が島津貴久(しまづたかひさ)に抵抗した。 渋谷一族の…
夏に食べたいもの。それは、かき氷である。酷暑で熱の溜まった体を、内側から冷やしてくれるのだ。 で、よく食べるのがコレ。セイカ食品株式会社の『南国白くま』だ。鹿児島県ではスーパーなど売っているところは多い。夏の定番である。 パッケージデザイン…
種子島(たねがしま)は鹿児島県にある島だ。大隅半島の南のほうに浮かぶ。鹿児島港から高速船で1時間半くらい、フェリーで3時間半くらいで行き来できる。大きな島で、南北の長さは57㎞ほど。ちなみに島の北部の西之表港から南端までは車で1時間以上かかる。…
鹿児島県に「姶良(あいら)」という地名がある。 鹿児島湾の奥のほうには「姶良市」がある。「姶良郡」もある。現在の霧島市の一帯ももとは姶良郡だ。桜島の北側の湾は「姶良カルデラ」と呼ばれていたりもする。「姶良というと、あのあたりだな」と認識して…
祁答院(けどういん)の大村(おおむら)に馬頃尾(まころべ)というところがある。山あいに田んぼが広がる、いい感じの田舎の風景である。この地を見守るタノカンサァ(田の神)を二つ紹介する。 タノカンサァ(田の神)は農業の神であり、子孫繁栄の神であ…
16世紀半ばに、島津貴久(しまづたかひさ)は大隅国蒲生(かもう)を攻めた。この一帯での戦いは「大隅合戦」と呼ばれる。その中で激戦地となったのが松坂城(まつざかじょう)である。場所は鹿児島県姶良市蒲生町米丸。 松坂城跡は城域の一部を歩くことがで…
鹿児島県薩摩川内市の平佐(ひらさ)に、長照山梁月寺跡がある。平佐北郷家(ひらさほんごうけ)の菩提寺である。寺院跡には墓地があり、平佐北郷家の歴代当主の墓が並ぶ。 北郷氏は島津氏の一族で、中世から日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市のあたり)…
17世紀以降の島津氏の分家についてまとめてみた。 島津氏にはもともと分家が多い。鎌倉時代から続く歴史の長さに加え、子沢山な当主も多かったりする。そんなわけで、一族の枝葉をいっぱいに広げる。中世から続く家柄もあり、江戸時代に立てられた分家もあり…
のどかな山間の集落である。鹿児島県姶良市の蒲生(かもう)に「高牧(たかまき)」というところがある。そこに面白い雰囲気のタノカサァ(田の神)がいた。「高牧の田の神」と呼ばれている。「ベロ出し田の神さぁ」とも呼ばれる。 タノカンサァ(田の神)は…
鹿児島市の南のほうの谷山(たにやま)には、タノカンサァ(田の神)が多い。JR谷山駅の周辺を歩いていると、けっこうな数に出くわすのだ。そのうちの一つを紹介する。 タノカンサァ(田の神)の像は、鹿児島県内に大量にある。18世紀頃から島津氏領内で大量…
戦国時代の島津氏の配下には、伊集院(いじゅういん)氏が多い。 島津貴久(しまづたかひさ)が分家から覇権をとって薩摩国を平定する。子の島津義久の代になると大隅国・日向国を制圧し、さらに九州全域へと勢力を広げていく。そして、島津氏は豊臣政権下に…
照島神社(てるしまじんじゃ)は、鹿児島県いちき串木野市西島平町に鎮座する。 串木野は薩摩半島の西側に位置し、東シナ海に面している。「串木野港」という大きな港がある。ここは遠洋漁業の基地でもある。その串木野港のやや南に「島平港(しまびらこう)…
テレビが壊れた。13年くらい使っていたので、たぶん寿命であろう。テレビをそんなに見るわけでもないが、なきゃないでけっこう困る。 で、買い替えをすることに。……とはいうものの、かなりの金欠なのである。とくに春先は出ていくお金も多いのだ。家計にまっ…