ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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鹿児島縣護國神社、幕末・維新の薩摩藩の殉難者を祀ったのがはじまり

鹿児島縣護國神社は鹿児島市草牟田に鎮座する。護国神社は全国にあり、英霊(国家のために殉難した人の霊)を祀る。鹿児島縣護國神社は鹿児島県出身の英霊が7万7000余柱を御祭神とし、郷土の守り神として崇敬されている。

 

なお、明治5年(1872年)以前の日付については旧暦にて記す。

 

 

明治天皇の思し召しがあり、島津忠義が創祀

慶応4年(明治元年、1868年)1月12日、鳥羽・伏見の戦いの直後のことである。薩摩藩主の島津忠義(ただよし)は勅書を授かる。明治天皇の思し召しにより、朝廷より戦没者あてに金500両が下賜され、勅書には「殉国戦死之者へ賜御金厚葬礼、設一社祭杷等之儀」と御沙汰があった。「神社を設けて祭祀しなさい」と。

島津忠義は鹿児島山之口馬場(現在の松原神社の近く)に霊社を造立。「靖献霊社(いさたまれいしゃ)」と名付けて同年7月6日より祭祀が施行された。戊辰戦争の戦没者をはじめ、幕末の殉難者をあわせて祀ることになった。これが鹿児島縣護國神社のはじまりである。

 

明治2年11月に靖献霊社は照國神社(てるくにじんじゃ)の隣地に遷座。その後、明治7年(1875年)に「鹿児島招魂社(かごしましょうこんしゃ)」に社号を改める。さらに昭和14年(1939年)4月に「鹿児島縣護國神社」と社号を変えた。

昭和22年(1947年)には「薩隅頌徳神社」に改号する。この頃は軍国主義に関わるものが廃される動きがあり、それを避けるためであった。

昭和23年(1948年)に現在地に新築遷座。昭和28年(1953年)2月に「鹿児島縣護國神社」に社号を戻した。

 

 

御祭神

鹿児島縣護國神社に祀る英霊については次のとおり。鹿児島縣護國神社のホームページより。

安政の大獄 2柱
桜田門外の変 2柱
寺田屋の変 15柱
禁門(蛤御門)の変 7柱
生野銀山義挙 1柱
薩英戦争 5柱
筑波山義挙 1柱
三田薩摩藩邸焼討事件 42柱
戊辰の役 631柱
佐賀の役 14柱
台湾の役 4柱
熊本の変 6柱
西南の役 243柱
竹橋事変 1柱
朝鮮事変 4柱
朝鮮動乱 3柱
明治23年事変(北清事変) 4柱
日清戦争 312柱
日露戦争 1835柱
第一次世界大戦 60柱
台湾治安維持関係 108柱
満州事変 3213柱
支那事変及び大東亜戦争 70836柱
警察官殉職者 58柱
消防士殉職者 94柱
自衛官殉職者 111柱

総計77612柱(令和4年1月時点)

 

鹿児島縣護國神社のホームページはこちら。

k-gokoku.or.jp

 

 

 

参詣する

国道3号からちょっと入ったところに参道口がある。広い駐車場もあって参詣しやすい。

鹿児島縣護國神社の入口の石段

参道口

 

鹿児島市街地に鎮座するが、境内は広くて静かな雰囲気。

鹿児島縣護國神社の鳥居

鳥居をくぐって奥へ

 

社殿。大きい。

鹿児島縣護國神社の拝殿

拝殿の前に

 

鹿児島縣護國神社の拝殿

どっしりとした感じ

 

拝殿の前には狛犬。昭和43年(1968年)に奉納されたものとのこと。

鹿児島縣護國神社の狛犬

狛犬

 

拝殿に向かって右のほうに遺徳顕彰館がある。御祭神の遺影や遺品が納められている。

境内の施設

遺徳顕彰館

 

境内の広場には慰霊碑や顕彰碑が並ぶ。記念樹も植えられている。春には桜が咲く。

顕彰碑などが並ぶ

境内の広場

 

参道口近くの石灯籠。大正6年(1917年)の銘がある。遷座のときに、石灯籠も移されてきたのだろう。

大正年間のもの

石灯籠

 

 

鹿児島縣護國神社頓宮

頓宮は鹿児島市照国町にある。照國神社の横に広場があり、島津斉彬(照國神社の御祭神でもある)の像の横に頓宮がある。この地は鹿児島縣護國神社の旧社地。頓宮の建物は鹿児島縣護國神社の社殿でもあった。

 

社殿

頓宮の社殿

 

鹿児島縣護國神社頓宮

建物に歴史を感じる

 

頓宮の横には、島津斉彬像と並ぶように「戊辰之役戦士顕彰碑」が建てられている。

顕彰碑

戊辰之役戦士顕彰碑

 

 

 

御祭神、幕末・維新の殉難者から

鹿児島縣護國神社に祀られた英霊のうち、幕末・維新の人物について何人か紹介する。

 

日下部伊三次翼命

日下部伊三次(くさかべいそうじ)は「安政の大獄」により捕縛され、安政5年(1859年)に獄中で没した。

もともとは水戸藩士。父の海江田訥斎連は薩摩藩士であったが脱藩し、のちに水戸藩に仕えた。子の日下部伊三次もそのまま水戸藩士となった。ちなみに、海江田(かいえだ、かえだ)氏の本姓が「日下部」で、伊三次は本姓のほうを名乗りとした。

安政2年(1855年)に島津斉彬に声をかけられて薩摩藩士に復帰。薩摩藩と水戸藩とをつなぐ役割を担い、朝廷工作に深く関わる。安政5年(1858年)8月、孝明天皇が水戸藩に幕政改革のための勅書を出す。「戊午の密勅」と呼ばれるものである。この密勅を京から水戸へと運んだのが日下部伊三次だった。

幕府は「戊午の密勅」を水戸藩の策動ととらえ、関わった多くの者が処罰されるとになった。日下部伊三次も大獄で落命した。

 

なお、日下部伊三次の娘は、有村俊斎(ありむらしゅんさい)の妻となる。有村俊斎は婿養子として日下部伊三次の家督を継ぎ、海江田信義(かいえだのぶよし)と名を改める。

 

 

日下部裕之進信政命

日下部裕之進(くさかべゆうのしん)は、日下部伊三次の長男。父ともに朝廷工作に関わり、「戊午の密勅」を水戸へ届けた。捕縛されて遠島が言い渡されるが、安政5年(1859年)に獄中で病没した。

 

 

有村次左衛門兼清命

有村次左衛門(ありむらじざえもん)は、安政7年(1860年)の「桜田門外の変」で大老の井伊直弼を討った人物である。

鹿児島城下の高麗町の生まれで兄に有村俊斎(しゅんさい、海江田信義)・有村雄助(ゆうすけ)がいる。

 

鹿児島では西郷吉之助(西郷隆盛)・大久保一蔵(大久保利通)ら若手藩士が「精忠組(誠忠組、せいちゅうぐみ)」を組織していて、有村兄弟もこれに参加していた。

有村次左衛門は兄の雄助とともに薩摩藩を脱藩。勤皇志士として活動する。「安政の大獄」のあと、水戸藩士は大老襲撃を画策する。あわせて薩摩藩の挙兵上京も計画され、精忠組が準備を進める。有村兄弟は水戸と薩摩の連絡役を務める。

だが、薩摩藩では藩主の命で出兵を止められる。一方で、水戸藩士たちは大老襲撃を決行。ここに有村次左衛門も加わった。

 

安政7年3月3日の朝、水戸浪士(脱藩した)たちは江戸城の桜田門近くで井伊直弼の籠を襲撃。有村次左衛門が首級を取った。有村次左衛門は首を持って現場から離脱するも、重傷を負って自刃した。

 

 

有村雄助兼武命

有村雄助(ゆうすけ)は弟の次左衛門とともに大老襲撃計画に関わる。大老暗殺が成功すると、挙兵をうながすために仲間とともに京へ向かった。その道中で薩摩藩に捕縛され、薩摩へ護送されることになった。

 

幕府の追求が薩摩藩に迫ると、藩は有村雄助に切腹を命じた。

 

 

 

 

有馬新七正義命

文久2年(1862年)4月23日、伏見(京都府伏見区)の寺田屋で薩摩藩士どうしが斬りあった。「寺田屋事件」「寺田屋騒動」と呼ばれている。

 

有馬新七(ありましんしち)は薩摩国伊集院(鹿児島県日置市伊集院)の生まれで、父が鹿児島城下の有馬家に養子に入ったことから加治屋町に移る。崎門学派の儒学を学び、江戸薩摩藩邸学問所教授や藩校の造士館の教師も務めている。勤皇志士と交流し、「桜田門外の変」の計画にも関わるが、薩摩藩が挙兵しなかったことに不満を持っていたという。

文久2年に島津久光(藩主の父で、藩の実権を握っている)が、幕政改革を訴えるために兵を率いて上洛する。有馬新七は精忠組の過激派志士を誘って、討幕に向けて決起しようとしていた。有馬新七らは関白と京都所司代の襲撃を計画し、そのあとに藩が討幕の兵を挙げることを狙っていた。

 

決起のために寺田屋に集まっていたところへ、島津久光は鎮撫使を派遣する。説得により思いとどまらせようとしたのだ。しかし、有馬新七は聞く耳を持たない。そして斬りあいが始まった。

有馬新七は刀が折れ、道島五郎兵衛(みちじまごろべえ)を押さえつけて「おいごと刺せ!」と叫んだ。これを聞いた仲間の橋口吉之丞が有馬と道島を刺す。有馬新七は絶命した。

 

 

柴山愛次郎道隆命

藩の記録所書記や造士館訓導(教員)を務めた。

文久2年(1862年)3月に江戸から大坂に入り、有馬新七と合流して、その計画に加わる。4月23日の寺田屋騒動で斬られて命を落とす。

ちなみに、のちに海軍大将となる柴山弥八は弟にあたる。また、従兄弟に元帥海軍大将の東郷平八郎がいる。

 

 

田中謙助盛明命

藩では造士館訓導などを務める。文久2年(1862年)の寺田屋騒動の頃は、大坂の藩邸に詰めていた。大坂藩邸を出て有馬新七と合流する。

鎮撫使の道島五郎兵衛と口論となり、田中謙助が上意討ちされたことから斬りあいが始まったという。田中謙助は命をとりとめるも、翌日に伏見の藩邸で切腹を命じられた。

 

 

弟子丸竜助方行命

寺田屋騒動で斬られる。弟子丸竜助(でしまるりゅうすけ)は、薬丸自顕流の達人だったという。文久2年(1862年)、江戸に詰めていたが大坂へ向かって有馬新七の決起に加わる。

 

 

西田直五郎正基命

寺田屋騒動で落命。文久2年(1862年)の頃は江戸藩邸に詰めていたが、柴山愛次郎ととも大坂へ。有馬新七の計画に参加した。

 

 

橋口壮助隷三命

寺田屋騒動で落命。橋口壮助(はしぐちそうすけ)は文武にすぐれ、造士館教導(教員)も務めた。文久2年(1862年)に江戸藩邸から大坂へ。有馬新七と合流した。寺田屋騒動で負傷し、翌日に伏見の藩邸で切腹。

 

父の橋口彦次は、明治になって鹿児島藩の参政や権大参事を歴任する。幕末の藩政においても重職を務める家系である。

道島五郎兵衛・有馬新七を刺した橋口吉之丞は弟。こちらは投降して、謹慎処分となった。

 

 

橋口伝蔵兼備命

橋口伝蔵(はしぐちでんぞう)は文久2年(1862年)の寺田屋騒動で落命した。江戸藩邸の記録書記の任にあったが、江戸を抜け出して大坂で有馬新七らと合流した。

父は藩の目付役を務めた橋口与三次。藩の重職を担う家柄であった。兄は橋口與一郎といい、明治の初めに鹿児島藩の参政・権大参事に任じられている。橋口壮介・橋口吉之丞の兄弟とも同族。

 

また、橋口伝蔵の弟は覚之進といい、こちらは樺山家に養子入り。樺山資紀(かばやますけのり)と名乗り、のちに海軍大将・警視総監などを歴任する。

 

 

森山新五左衛門永治命

森山新五左衛門(もりやましんござえもん)は文久2年(1862年)の寺田屋騒動に関与。鎮撫使との戦いで重傷を負い、翌日に切腹を命じられた。

父は森山新蔵(もりやましんぞう)。森山家は豪商で、藩政改革などに功があって士分に取り立てられた。森山新五左衛門は薬丸自顕流の達人でもあったという。

 

 

道島五郎兵衛正邦命

道島五郎兵衛(みちじまごうろうべえ)は文久2年(1862年)に鎮撫使の一人として寺田屋に乗り込んだ。薬丸自顕流の達人で、剣の腕がたつことから鎮撫使に選ばれた。

有馬新七に押さえつけられ、「おいごと刺せ」でともに闘死する。

 

 

山本四郎義徳命

脱藩して京や大阪で活動。勤皇志士と連絡をとりあっていた。文久2年(1862年)4月23日の寺田屋騒動の当日は病のために伏見の藩邸で療養していた。藩から帰国命令が出るが従わず、4月27日に自害した。

 

 

美玉三平親輔命

本名は高橋祐次郎。清河八郎(きよかわはちろう)と交流があり、尊王攘夷の過激派が集まる「虎尾の会」にも名を連ねた。

文久2年(1862年)の寺田屋騒動では、2階にいたために1階での戦闘には関わらず。逃亡する。

 

文久3年(1863年)、平野国臣(ひらのくにおみ)や河上弥市(かわかみやいち)らとともに但馬国生野(兵庫県朝来市生野町)で挙兵。「生野の変」「生野義挙」と呼ばれる事件である。反乱は鎮圧され、美玉三平は戦死した。

 

 

是枝柳右衛門貞至命

是枝柳右衛門(これえだりゅうえもん)は谷山の商家の生まれ。学問にすぐれ、士分ではないものの勤皇の士から一目置かれていたという。有馬新七とも親交が深い。尊王攘夷運動に身を投じていくことになる。大老の暗殺計画を画策するが、「桜田門外の変」の報を聞いて遅れをとった悔しがったとも。

文久2年(1862年)に有馬新七と共謀し、討幕計画を進める。田中河内介とともに公家への根回しなどに奔走する。

寺田屋騒動ののちに是枝柳右衛門と田中河内介は薩摩藩に捕縛される。田中河内介は薩摩へ護送する途中で斬殺された。是枝柳右衛門は屋久島に配流。元治元年(1864年)10月に島で没した。

 

 

森山新蔵永賀命

森山新蔵は商人から士分に取り立てられた。精忠組に参加し、活動のための資金を出したりもしている。

文久2年(1862年)の島津久光の上洛の際には、西郷吉之助(西郷隆盛)・村田新八と行動を共にしていた。

西郷らは島津久光から長門国下関(山口県下関市)で待機するよう命じられていたが、有馬新七らの動きを察知。その計画を止めるために京へ向かった。この行動が島津久光から命令違反と咎められる。3人は捕縛され、鹿児島へ護送された。

処分が決まるまで3人は山川港(鹿児島県指宿市)沖の船上で待機させられた。森山新蔵は船中で自害。長男の森山新五左衛門が寺田屋騒動で死んだことを知ってのことだった。

 

 

 

児玉雄一郎命

児玉雄一郎(こだまゆういちろう)は藩の小納戸役。江戸の三田(東京都港区三)の薩摩藩邸の目付役を務めた。

 

慶応3年12月25日(1868年1月)、徳川方が江戸の薩摩藩邸を襲撃した。このときに児玉雄一郎は捕えられ、小伝馬町の牢で斬られた。

これより少し前に将軍の徳川慶喜は大政奉還し、討幕への動きを抑える。薩摩藩などの倒幕派は挙兵の大義名分を失っていた。そこで、徳川方に手を出させようと画策する。薩摩藩邸に浪士を集めて挑発行為を行わせた。ついには挑発に乗った徳川方は薩摩藩邸を攻める。

この江戸薩摩藩邸襲撃事件をきっかけに畿内で開戦。鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へと突入した。

 

 

益満休之助行武命

益満休之助(ますみつきゅうのすけ)は勤皇志士として活動。「虎尾の会」にも名を連ねている。

慶応3年12月(1868年1月)、西郷吉之助(西郷隆盛)の命で、徳川方への挑発工作を実行する。浪人を江戸三田藩邸に集めて、市中で乱暴をさせるなどした。そして、徳川方が藩邸を襲撃した。

 

12月25日の襲撃の際に、益満休之助も捕らえられる。処刑されるところを、勝海舟が何を思ったのか身請けする。勝海舟の預かりとなった。その後、益満休之助は大きな仕事をすることになる。

慶応4年(1868年)3月、西郷隆盛が率いる新政府軍が江戸に迫る。このときに勝海舟の命で、幕府の使者の山岡鉄舟(山岡鉄太郎)を西郷のもとへ案内した。ちなみに山岡鉄舟とは「虎尾の会」でつながりがある。山岡鉄舟と西郷隆盛の面会が実現し、その後の西郷と勝の会見へとつながる。その結果、江戸総攻撃は中止となり、江戸城が開城された。

益満休之助は慶応4年5月に没する。戦場で被弾し、その傷がもとでの病死だったという。

 

 

中原猶介尚男命

中原猶介は蘭学者・兵学者・砲術家。名前の読みは「ゆうすけ」とも「なおすけ」とも。鹿児島縣護國神社では「ゆうすけ」としている。

 

嘉永2年(1849年)に藩命で長崎へ出張し、オランダ人より蘭学を学ぶ。嘉永4年(1851年)に島津斉彬から帰国が命じられ、集成館事業(薩摩藩の近代的工業コンビナート)に従事。電気、電信、ガス、ガラス(薩摩切子)などの研究に携わる。また、軍艦建造や反射炉築造、電気水雷の開発などを手掛けた。

安政5年(1858年)に島津斉彬が没すると、藩の方針が変わって中原猶介は仕事がなくなる。江戸に出て江川英龍(えがわひでたつ)に学び、塾頭にもなった。

文久3年(1863年)の薩英戦争では、中原猶介が完成させた電気水雷も使用される。ただし、イギリス艦隊は電気水雷のない場所を通り、爆破はしていない。薩英戦争のあとに中原猶介は海軍の再整備、砲台の改善など仕事をこなす。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」では軍賦役として部隊を指揮する。

 

慶応4年(明治元年、1868年)には海軍参謀として戊辰戦争に出征。しかし、7月に越後長岡(新潟県長岡市)の戦いで負傷する。そして8月7日に没した。

 

 

 

 

西郷吉二郎隆廣命

西郷吉二郎(さいごうきちじろう)は鹿児島城下加治屋町の生まれ。西郷吉兵衛隆盛の次男である。

慶応4年(明治元年、1868年)に番兵二番隊監軍として戊辰戦争に出征。8月2日に越後国の曲渕村五十嵐川(新潟県三条市)の戦いで負傷。14日に柏崎(新潟県柏崎市)の病院で亡くなった。

 

西郷家の長男は吉之助(西郷隆盛)、三男は信吾(西郷従道)、四男は小兵衛である。兄の西郷吉之助(西郷隆盛)は出世して国事に奔走したり、遠島になったりと家を空けていることが多かった。西郷家は次男の吉二郎が守っていた。

 

 

 

 

 

<参考資料>
『霊山祭神の研究 続編一 薩摩藩』
発行/財団法人霊山顕彰会 1987年

鹿児島県史料『忠義公史料 四』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1977年

鹿児島県史料『忠義公史料 五』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1978年

鹿児島県史料『忠義公史料 六』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1979年

鹿児島県史 第3巻
編・発行/鹿児島県 1941年

『さつま人国誌 幕末・明治編』
著/桐野作人 発行/南日本新聞社 2009年

『明治産業発生史』
著/神長倉真民 発行/ダイヤモンド社 1936年

ほか