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薩摩の伴姓橋口氏について、橋口兼弘が戦国時代に活躍、樺山資紀もこの一族から

16世紀の薩摩国に橋口兼弘という人物がいる。名前の読みは「はしぐちかねひろ」か。島津貴久(しまづたかひさ)の配下として活躍した。この人物が、なんとなく気になったのである。調べてみた。

この橋口氏は伴姓で、肝付氏の庶流とされる。名乗りは薩摩国伊集院上神殿(かみこどん、かみこうどの、鹿児島県日置市伊集院町上神殿)の「橋口」に由来するという。

 

『三国名勝図会』巻之八の「伊集院」のところにて、「麦生田城」「石谷城」「八幡神社」に伴姓橋口氏の情報がある。おもにこちらの情報からまとめてみる。

なお、日付については旧暦にて記す。

 

 

 

 

肝付兼重の後裔を称する

橋口氏は肝付家8代当主の肝付兼重(きもつきかねしげ)の後裔を称する。

肝付氏については、大納言の伴善男(とものよしお)につながる系図が伝わっている。伴氏は10世紀頃に薩摩国に入ったとされる。安和2年(969年)に伴兼行(とものかねゆき)が薩摩国掾に任じられて下向し、その後裔が肝付氏につながるという。

伴兼貞(とものかねさだ、兼行の孫)が長元9年(1036年)に大隅国肝属郡の弁済使(べんざいし、荘園の管理者)に任じられ、肝属郡の高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)に入る。伴兼貞の嫡男は兼俊(かねとし)といった。この人物が「肝付」を名乗りとする。この肝付兼俊(かねとし)が肝付氏の初代とされる。

 

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肝付兼重は14世紀の人物で、肝付兼藤(かねふじ、7代当主)の次男である。もともとは日向国三俣院(宮崎県都城市高城・北諸県郡三股町)の領主で、「三俣」を名乗りとしていた。のちに本家の家督を継承した。

なお、肝付兼重は南北朝争乱期に三俣院で挙兵。日向国や大隅国で南朝方の中心人物として奮闘した。

 

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肝付兼重の家系は三俣においても系譜をつなぎ、こちらが伴姓橋口氏につながるという。つぎのとおり。

肝付兼重(三俣兼重)→兼幸→兼元→兼次→備前守清兼→橋口兼廣→

 

備前守清兼には3人の息子があった。長男は孫市郎兼如、次男は孫市左衛門尉。三男は出家して薩摩国伊集院の妙圓寺にあり、覺雲と称した。だが、長男は早世し、次男も文明18年(1486年)に日向国飫肥(宮崎県日南市)で戦死する。

備前守清兼は三男の覺雲に還俗して家を継ぐよう言うが、覺雲は応じなかった。父が亡くなったあと、妙圓寺の住職に説得されて還俗することに。備前守兼廣と名乗る。そして、伊集院の上神殿の橋口に住んだことから、名字を「橋口」に改めたという。

 

下の写真は上神殿城。地元の方は「城山」「橋口城」とも呼んでいた。橋口氏はここを居城とした。

田んぼの向こうに山城跡

上神殿城跡


橋口氏のその後の系譜はつぎのとおり。

橋口兼廣→兼令→兼吉→兼弘→兼元→兼持→兼延→兼薫→兼英→兼純→兼傳→

橋口兼廣の曾孫が、橋口兼弘である。

 

 

 

橋口兼弘の活躍

石谷城の戦い

天文5年12月(1537年1月)、相州家の島津忠良(ただよし)・島津貴久は伊集院の石谷城(いしたにじょう、鹿児島市石谷町)を攻めた。このときに活躍したのが橋口兼弘であった。

この頃、島津家では守護職にあった奥州家の島津勝久(かつひさ)が鹿児島を出奔。かわって薩州家の島津実久(さねひさ)が実権を握った。島津勝久は相州家と連携をとろうとする。これに相州家は応じ、薩州家との全面戦争に突入した。

石谷城は石谷忠栄(町田忠栄)の居城である。石谷氏は薩州家の支配下にあったが、島津忠良に内応する。島津実久(薩州家)は石谷氏の裏切りを疑い、配下の大寺資安を石谷城に入れていた。

12月7日、石谷忠栄は挙兵する。島津忠良は兵を率いて大寺資安に攻撃を仕掛ける。

また、島津貴久は「機密」を橋口兼弘に命じた(敵に悟られないように何かしらの作戦を実行させた、という意味だろう)。橋口兼弘は策を実行して勝機を引き出す。石谷忠栄は相州家方の兵を城に引き入れることに成功した。どんな策かは伝わっていないが、橋口兼弘の働きが功を奏した。

橋口兼弘は兵をすすめ、みずからも槍を手に戦った。敵軍を破り、そして、大寺資安を討ち取った。

茶畑と山城跡

石谷城跡

 

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麦生田を与えられる

相州家の島津忠良・島津貴久は伊集院の攻防戦を制する。さらに鹿児島をも制圧し、薩州家方を圧倒していく。そして、島津貴久は覇権を握る。

橋口兼弘は恩賞として、伊集院の麦生田(むぎうだ、日置市伊集院町麦生田)を与えられた。居城も麦生田城に移す。麦生田城跡は国道3号沿いの山塊にあたる。

国道沿いの山城跡

麦生田城跡

 

木崎原の戦い

永禄7年(1564年)、島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ、島津貴久の次男)が日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)に入ることになった。伊東義祐(いとうよしすけ)は真幸院の東側(宮崎県の小林市のあたり)を勢力下に置いていて、この地は島津氏と伊東氏とがにらみ合う場所であった。

島津忠平(島津義弘)は智勇の士を60人選んで、真幸院に連れていったという。この中に橋口兼弘も含まれていた。

元亀3年(1572年)、伊東義祐は真幸院の島津氏領内に軍勢を送り込む。兵数は3000ほど、一方、島津忠平(島津義弘)の手勢は300ほどだった。「木崎原の戦い」である。島津軍は寡兵ながら伊東軍を壊滅させた。

島津側の戦死者も多かった。橋口兼弘は一隊を率いて奮戦するも戦死した。

 

古戦場の記念碑

木崎原古戦場

 

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橋口兼元と橋口兼持

橋口兼弘の子は、兼元という。天正14年(1586年)に島津義久(よしひさ、貴久の嫡男)は大友氏を攻める(豊薩合戦)。島津家久(いえひさ、貴久の四男)を大将として九州北部に侵攻する。橋口兼元も従軍した。

天正14年12月12日、島津家久は豊後国の鶴賀城(つるがじょう、大分市上戸次)を攻撃。城攻めで橋口兼元は大いに活躍し、多くの敵を討ち取ったという。だが、橋口兼元も戦死する。その後、鶴賀城を救援しようと仙谷秀久(せんごくひでひさ)が率いる豊臣軍が動き、決戦となった(戸次川の戦い)。

 

橋口兼元の子は、兼持という。慶長4年(1599年)の庄内の乱の際に戦功を挙げたという。

橋口兼持は島津忠恒(ただつね、島津義弘の子、初代薩摩藩主となる)より鹿児島に屋敷を与えられ、移り住んだ。

江戸時代の薩摩藩の家臣の名前を調べてみると、伴姓橋口氏と思われる人物はけっこう多い。

 

 

八幡宮に大友皇子を祀る

麦生田城の西側の中腹には、かつて八幡宮が鎮座していた。橋口兼弘が肝属郡より御神体を遷して創建したものだという。八幡宮は応神天皇や神功皇后などを祀るものである。だが、ここは違っていた。大友天皇(大友皇子、弘文天皇)を御祭神とした。

肝付氏には、大友天皇(大友皇子)につなげる系図も伝わっている。こちらとの関連性もうかがえる。

 

『三国名勝図会』によると、慶長7年(1602年)に橋口兼持が境内を改造とある。また、慶安3年(1650年)に住民が改造とも。その後、廃れたものの享保元年(1716年)に橋口兼英が再興したという。

これらの情報は『伊集院由緒記』に見える。こちらを『三国名勝図会』も参考にしていると思われる。

 


『伊集院由緒記』にある情報もいくつか抜き出してみる。

 

◆棟札に慶安3年(1650年)「八幡大菩薩春日大明神」造立の棟札あり。記名は永田喜左衛門とある。藩主の島津光久の息災延命と子孫繁栄を祈願して奉納したものだという。

 

◆御厨子内に「橋口藤蔵伴兼純」の記名あり。宝暦11年(1761年)に納められたもので、享保元年(1716年)に橋口兼英が再興したことも書かれている。。

 

◆神額には、安永2年(1773年)に「橋口藤蔵伴兼傳」「橋口小平次伴兼慶」が奉納したことが記される。

 

◆鍔口に享和3年(1803年)の紀年銘と、「橋口醺々斎伴兼儔」「橋口善兵衛伴兼古」「橋口善藤次伴兼彬」「橋口辰治」の記名あり。


橋口氏の当主は通称に「藤」の字を使うことが多かったようだ。「兼英」「兼純」「兼傳」「兼慶」「兼彬」といった名も確認できる。

また、鹿児島へ移住してからも伊集院との関係が続いていたこともうかがえる。

 

 

 

『三国名勝図会』の編纂者

『三国名勝図会』は、薩摩藩主の島津斉興(しまづなりおき)の命令で編纂が始まった地理誌である。序文によると完成は天保14年12月(1844年1月)のことだ。

橋口兼古を総裁とし、五代秀堯(ごだいひでたか)を副裁としてして編纂が始まった。事業の半ばで橋口兼古が没したため、五代秀堯が総裁となって事業を継続。編纂には橋口兼柄と五代友古も加わった。

編纂者の橋口兼古と橋口兼柄は親子である。出自ははっきりしないが、伴姓橋口氏である可能性は高いと思う。名前には肝付一族の通字の「兼」の字も入っている。

 

ちなみに『三国名勝図会』では、伴姓橋口氏についてやたらと詳しかったりもする。橋口兼古・橋口兼柄の家系がそこと関わっていることを匂わせる。

 

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ほかの史料も見てみる。『種子島家譜』(鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ八』に収録)や『島津家国事鞍掌史料 斉彬公史 内証紀』(『旧記雑録拾遺 島津斉彬公史料四』に収録)などで橋口父子の名が確認できる。ちなみに通称はいずれも「今彦」という。

 

『種子島家譜』によると、文化9年(1812年)に伊能忠敬(いのうただたか)が種子島の測量を行っている。薩摩藩からも測量部隊が派遣され、この中に御記録奉行の「橋口今彦」の名もある。これは橋口兼古だと思われる。

同じく『種子島家譜』から。文政7年(1824年)に「橋口今彦」が種子島で山水・神社仏閣・名所などの調査にきたという記録がある。肩書は「名勝誌再選方掛町奉行」。つまり『三国名勝図会』編纂のためである。これも橋口兼古であろうか。あるいは、橋口兼柄であったかも。

島津斉彬(しまづなりあきら)の事績を記した『島津家国事鞍掌史料 斉彬公史 内証紀』によると、弘化3年(1846年)2月16日に御記録奉行の「橋口今彦兼柄」が御納戸奉行に任じられたことが記されている。

嘉永4年(1851年)2月3日には、御記録奉行・御納戸奉行の「橋口今彦兼古」が小納戸頭取になったとも。こちらも橋口兼柄のことだろう。名前については誤記か、あるいは父と同じ「兼古」に名乗りを変えていた可能性も考えられる。

さらに、嘉永5年(1852年)1月15日には、「橋口今彦兼古」(橋口兼柄か)は御側役に昇進している。

橋口兼柄は島津斉彬の側近として仕えた。

 

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橋口伝蔵・橋口壮介・橋口吉之丞

文久2年(1862年)4月の寺田屋騒動に関わった人物に橋口伝蔵・橋口壮介・橋口吉之丞がいる。いずれも伴姓であるという。伊集院から出た橋口氏との関係性はよくわからない。

 

有馬新七(ありましんしち)らが倒幕に向けて挙兵を計画し、京伏見の寺田屋に過激派志士が集まっていた。薩摩藩はそこに鎮撫使を派遣。結果、斬り合いとなった。橋口伝蔵は鎮撫使に討たれ、橋口壮介は負傷して翌日に切腹した。

有馬新七は鎮撫使の道島五郎兵衛を組み伏せて「おいごと刺せ」と叫んだという。そして、刺したのは橋口吉之丞だった。騒動のあと橋口吉之丞は投降し、謹慎となった。


橋口伝蔵は諱を「兼備」という。父は橋口與三次で、こちらの諱は「兼器」。藩の重職を務める家柄で、当主は代々「與三次」を名乗っていたようだ。なお、寛政年間(17世紀末頃)の藩の御留守居にも橋口與三次の名がある。

橋口伝蔵は三兄弟の次男である。兄は橋口與一郎という。諱は「兼三」。そして弟は覚之進……こちらについては後述する。

 

橋口壮介と橋口吉之丞は兄弟である。父は橋口彦次で、こちらの諱は「兼柱」。

なお、橋口彦次と橋口與一郎は、明治時代になって鹿児島藩の参政、のちに権大参事に任じられている。

橋口與一郎(橋口兼三)は、さらに美々津県参事や貴族院議員なども歴任する。

 

 

樺山資紀

橋口覚之進は文久3年(1863年)に樺山家(庶流)の養子に入り、こちらの家督をつぐ。そして「樺山資紀(かばやますけのり)」と名乗った。のちに海軍大将となった。

樺山資紀は文久3年(1863年)の薩英戦争、慶応4年(1868年)からの戊辰戦争に従軍。明治政府では陸軍に入る。明治10年(1877年)の西南戦争では熊本鎮台の参謀長として活躍した。その後は海軍に転身する。

また、海軍大臣・警視総監・台湾総督・内務大臣・文部大臣などを歴任した。

 

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料拾遺15『伊集院由緒記』
編/塩満郁夫 発行/「鹿児島県史料拾遺」刊行会 1974年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ 二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 出版/鹿児島県 1991年

『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

『旧記雑録拾遺 家わけ八』 ※『種子島家譜』を収録
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 2000年

『旧記雑録拾遺 島津斉彬公史料四』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年

『旧記雑録 追録七』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1977年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集 第6集『諸家大概・職掌紀原・別本諸家大概・御家譜』
発行/鹿児島県史料刊行会 1966年

『鹿児島県史 第3巻』
編・出版/鹿児島県 1941年

『「さつま」の姓氏』
著/川崎大十 発行/高城書房 2001年

ほか