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木崎原古戦場跡にいってみた、島津義弘が10倍もの兵力差をひっくり返した

宮崎県えびの市は、島津義弘(しまづよしひろ)ゆかりの地である。ここはかつての日向国真幸院(まさきいん)にあたる。永禄7年(1564年)から天正18年(1590年)にかけて、島津義弘は飯野城(いいのじょう、えびの市飯野)を居城として真幸院を治めていたのだ。

 

島津氏と伊東氏の決戦の地

日向国に大きな勢力を持つ伊東義祐(いとうよしすけ)も真幸院の支配を目指していた。伊東氏は真幸院の三山城(みつやまじょう、さんのやまじょう、宮崎県小林市)を前線基地とし、たびたび軍事行動を起こしていた。

元亀3年(1572年)5月4日、伊東氏が攻め寄せる。その兵力は3000ほど。一方の島津義弘(当時の名は島津忠平)は飯野城に300ほど、加久藤城(かくとうじょう、えびの市小田)に50ほどの兵力しか持っていなかった。伊東軍は加久藤城を攻撃するが落とせず、木崎原(きざきばる)へと軍を動す。島津軍は木崎原に兵を繰り出して激戦となった。そして、島津義弘(島津忠平)は大きな兵力差をひっくり返して勝利するのである。

これが「木崎原の戦い」である。詳細はこちらの記事にて。

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島津義弘像

「道の駅えびの」には島津義弘像がある。これは2018年に作られたもの。銅像の近くには、えびの市内の案内板もある。木崎原の戦いに関連した場所を地図で確認できるので、これを見てから散策するといい。

晴天の田園風景の中に立つ銅像

島津義弘像、その近くには案内地図もあり

 

戦国武将の銅像

采配を振るう、木崎原の戦いのどの場面だろう?


国道268号を「道の駅えびの」から2㎞ちょっと東へいくと、えびの市歴史民俗資料館がある。島津義弘や木崎原の戦いについての展示が充実している。周辺の史跡の行きかたなど情報を得られ、周辺の案内マップももらえた。こちらも立ち寄るべし。

 

 

木崎原古戦場跡

歴史民俗資料館から南へ2㎞ほど行くと、田んぼが広がる平地にこんもりとした叢林がある。そこが「木崎原古戦場跡」だ。広い駐車場もあるので、車を停めて徒歩にて周辺を散策できる。駐車場近くには、石造りの立派な記念碑も立つ。

田園地帯に叢林がある

木崎原古戦場跡

石造りの記念碑

木崎原古戦場跡碑

 

19世紀に薩摩藩が編纂させた地理誌『三国名勝図会』にも「木崎原」の絵図がある。このあたりの現代の様子と比べると、けっこう昔の姿が残っているみたいだ。絵図の左下が駐車場のあるあたり。

木崎原古戦場の絵図

『三国名勝図会』巻之五十三より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

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叢林の中には島津義弘が建てた六地蔵塔がある。木崎原の戦いでは伊東軍560余人、島津軍260余人の戦死者があった。これは双方の戦没者の供養のためのものだ。樹齢400年とされる杉の巨木があり、その枝葉が六地蔵塔を覆うような感じとなっている。

木々に囲まれた石塔

六地蔵塔

 

こちらは「腰掛石」。島津義弘が伊東新次郎(伊東祐信、いとうすけのぶ)との一騎打ちのあとに腰かけたと伝わる。

苔むした石がある

腰掛石

 

叢林のすぐ近くには「三角田」。その名の通り、三角形の田んぼである。ここが木崎原の戦いの激戦地である。

石碑と田んぼ

手前は「三角田」石碑

 

木崎原古戦場跡の一角には池島神社もある。このあたり洪水が多かったことから、「星の宮様」という水神が祀られている。社は別の場所にあったが、2003年に遷座した。池島神社には精矛厳健雄命(くわしほこいずたけをのみこと、島津義弘の神号)も合祀されている。

小さな社

池島神社

 


鳥越城跡

木崎原古戦場跡駐車場からちょっと南へ。こちらに見える山が鳥越城(とりごえじょう)跡だ。伊東軍は加久藤城攻めから撤退したあと、このあたりに駐屯したと伝わる。深夜の行軍で兵は疲れ、休息をとっていたとも。

山城跡はけっこうな広さがあり、現在は高速道路が城域を横切る。写真は東側の尾根の先のほうほうにあたる。

田んぼの中に山城跡

鳥越城跡、池島川方面から見る

 

首塚と太刀洗川

駐車場のある一角から南東方向へ500mくらい歩いていくと首塚と太刀洗川(たちあらいがわ、たっちゃらご)の碑がある。首塚は伊東軍の兵士の首が埋葬された場所とされる。太刀洗川は、戦いのあとに刀に着いた血を洗い流した場所である。『三国名勝図会』によると「平日水なし、夏四五月流水あり」としている。

森と石塔

首塚

白い標柱と石塔

太刀洗川、小さな石塔がある



元巣塚へ

木崎原古戦場跡の北側に「元巣塚(げんそうつか)」と呼ばれる供養塔もある。距離的にはすぐ近くなのだが、線路が横切っていいるために踏切のあるほうからぐるりと回り込んでいく。徒歩で5分ぐらいだろうか。

巨木の下の石塔

元巣塚、イチイカシの巨木のそばにある

石造りの供養塔

元巣塚

 

『三国名勝図会』にも「供養石塔」の名称で紹介されている。その由来はつぎのとおり。

木崎原の戦場跡、人民牛馬往来する者、妖気に中(あたり)て、卒死せしかば、地頭伊集院肥前入道元巣、諸所より出家を集め、戦亡の供養を修し、其石塔を立つ、是より其怪漸く少しといふ、一に元巣冢といふ。(『三国名勝図会』巻之五十二より)

戦死者たちの祟りがあり、これを鎮めるための供養塔であったのだという。慶長18年(1613年)に飯野地頭の伊集院元巣(いじゅういんげんそう)が建立した。

伊集院元巣は、伊集院久信(ひさのぶ)あるいは伊集院久春(ひさはる)の名で知られている。島津義弘の家老として活躍した人物である。

 

島津忠平(島津義弘)は伏兵をつかいながら、伊東軍を攻め立てる。みずからも先陣をきって一騎打ちで敵将を討ち取ったりもした。伊東軍は壊滅。大将の伊東祐安(いとうすけやす、伊東義祐の従兄弟にあたる)など有力武将の多くが戦死した。

 

 

飯野城跡、加久藤城跡についてはこちら。

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

ほか