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北山の梅北神社と下城跡、梅北国兼は叛逆者か? それとも忠臣か?

鹿児島県姶良市に北山というところがある。ここはだいぶ山深い感じだ。県道446号を走っていくと、森の中に忽然と参道口が現れる。梅北神社(うめきたじんじゃ)である。

山中に神社が見つかる

林道の中に鎮座

 

御祭神は梅北国兼(うめきたくにかね)。天正20年(1592年)に豊臣政権に対して反乱を起こした人物だ。この事件は「梅北一揆」「梅北国兼の乱」と呼ばれている。

北山はかつて大隅国山田のうちにあった。梅北国兼は山田郷の地頭を長年務めた。この地で神として祀られているのである。創建年代や祭祀が始まったいきさつなどは不明。

 

なお、日付については旧暦で記す。

 

 

 

 

 

梅北一揆

天正20年(1592年)、豊臣秀吉は朝鮮半島への侵攻を開始する。島津氏にも出兵命令が下される。

島津義弘(しまづよしひろ)は出兵に苦心ししていた。兵が揃わず、船の用意もできず。やっとのことで渡海し、同年5月3日に朝鮮半島に入る。すでに戦闘は始まっていた。このときの状況を島津義弘は「日本一之遅陣」とする。

また、当主である島津義久(しまづよしひさ)にも肥前国名護屋(なごや、佐賀県唐津市鎮西町)への参陣が命じられた。島津義久は6月5日に名護屋に参陣する。その直後に事件発生。梅北一揆が勃発するのである。

 

梅北国兼の軍勢は島津義弘と合流する予定であった。ところが、肥前国平戸(長崎県平戸市)のあたりで引き返し、肥後国の佐敷城(さしきじょう、熊本県葦北郡芦北町)へ向かう。田尻但馬・伊集院三河守・東郷重影・荒尾喜兵衛らもこれに加わり、佐敷で挙兵する。兵は2000ほどだったという。

佐敷城は加藤清正(かとうきよまさ)の所領で、城代は加藤重次(しげつぐ)であった。加藤重次は朝鮮に出陣していて不在。城を守る兵も少ない。6月15日、梅北国兼ら一揆勢は佐敷城を占拠した。

さらに一揆勢は、田尻但馬が八代城(やつしろじょう、麦島城、むぎしまじょう、熊本県八代市古城町)を攻める。こちらは小西行長(こにしゆきなが)の所領である。しかし、一揆勢は反撃にあって敗れた。

佐敷城では城下で同調者をつのったようだが失敗。6月17日には梅北国兼が討ち取られ、反乱は3日で鎮圧されたという。加藤方の留守居衆が酒肴を城中に贈り、酒宴で油断したところを討ったとも伝わる。梅北国兼の首は、豊臣秀吉のいる名護屋まで届けられた。

 

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梅北一揆が鎮圧されたあと、関わった者たちは厳しく処分された。さらに、豊臣秀吉は島津義久に対して島津歳久(としひさ、義久の弟)の討伐を命じる。島津歳久の配下の者が反乱に参加していたこともあり、梅北一揆への関与を疑われたのだ。天正20年7月18日、島津歳久は大隅国滝ヶ水(竜ヶ水、りゅうがみず、鹿児島市竜ヶ水)で討たれた。

 

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また、一揆の余波は島津家以外にも。肥後国の阿蘇惟光(あそこれみつ)が関与を疑われて切腹を命じられている。

 

 

 

 


梅北神社を参拝

県道沿いに「梅北神社」の看板と朱の鳥居がある。そこが参道口となる。神社のある場所は山城の曲輪を思わせる地形でもある。

県道沿いの神社

梅北神社


車の場合は神社北側の細い脇道を入る。裏側から境内に登れ、社殿脇に駐車できるスペースもある。

森の中に続く道

神社脇の小路、大きめの車はちょっと厳しいか

 

あらためて参道口から入りなおした。石段を登り、鳥居をくぐって境内へ入る。

木立の中の鳥居

鳥居と参道

 

木立の中に社殿が建つ。社殿前に掲げられているのは馬標だと思われる。

朱色の社殿

ひっそりと佇む

社殿前に掲げられる

馬標か


「梅北神社」と刻まれた碑。揮毫は西郷従徳(さいごうじゅうとく)。西郷従道(さいごうじゅうどう)の子である。

石碑

梅北神社の碑


拝殿前には古い石灯籠もある。手前のものには「元禄二年(1689年)」、もうひとつには「貞享四年(1687年)」の紀年銘がある。これらから考えると、17世紀以前には神社があった可能性もある。

神社の古い石造物

拝殿前の石灯籠

 

 


下城跡

梅北神社から北に1㎞ほどの場所に、下城(しもじょう)跡もある。こちらも県道沿いに白い標柱が立っている。14世紀~15世紀頃は、このあたりを治めた平山氏(ひらやま、紀姓)の城だったようだ。地頭となった梅北国兼もこの城を使ったとされる。

山城跡の入口

下城跡標柱、階段もある


標柱のある場所から階段をのぼる。山城の雰囲気がちょっと残っている。

山の中に続く階段

下城跡にちょっと入れる


下城は南北300m・東西150mほどの規模がある。城域を道路が横切る。道沿いの堀跡や曲輪跡なども確認できる。

山城の痕跡

道路沿いより、曲輪跡か

 


梅北氏とは

梅北氏は肝付(きもつき)氏の一族である。

肝付氏は伴姓で、大納言の伴善男(とものよしお)の後裔とも称する。安和2年(969年)に伴兼行(とものかねゆき)が薩摩国掾に任じられて薩摩国に入ったのがはじまりとされる。その後、伴兼貞(とものかねさだ、兼行の孫)が長元9年(1036年)に大隅国肝属郡の弁済使に任じられ、肝属郡の高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)を拠点に。その子の兼俊(かねとし)の代から肝付氏を名乗るようになったという。

 

梅北氏は梅北兼高にはじまるとされる。兼高は伴兼貞の四男で、肝付兼俊の弟にあたる。名乗りは日向国諸県郡梅北(宮崎県都城市梅北町)に由来する。

肝付氏は島津荘(しまづのしょう)と深く関わる。島津荘を開墾したのは平季基(たいらのすえもと)と伝わる。伴兼貞はその娘婿でもあったという。島津荘の管理を任され、肝付氏は南九州に繁栄していった。

平季基は梅北に神柱宮(かんばしらぐう)を創建。島津荘の総鎮守とした。神柱宮はJR都之城駅近くに鎮座しているが、これは明治6年(1873年)に遷座されたもの。かつての鎮座地は梅北であった。現在、黒尾神社がある場所がそこにあたる。梅北兼高は神柱宮の斎宮介であった。

 

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梅北国兼の人物像

16世紀前半に相州家(そうしゅうけ)の島津忠良(しまづただよし)・島津貴久(たかひさ)の配下に梅北一族の名が確認できる。相州家(そうしゅうけ)に仕えるようになったいきさつはわからない。

島津忠良はもともと伊作氏の嫡男で、相州家の家督もあわせて相続した。忠良の祖父の伊作久逸(いざくひさやす)は、日向国櫛間(くしま、宮崎県串間市)を拠点としていたことがある。この頃に梅北氏の一族が家臣となり、伊作久逸が旧領の薩摩国伊作(鹿児島県日置市吹上)に戻る際についてきた、と。そんな可能性もありそうだ。

あるいは、新納(にいろ)氏との関わりも考えられる。新納氏は日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市)を拠点とし、梅北も支配下に置いていた。梅北氏の一族が新納氏に仕えていた可能性もあるのだ。

島津忠良の母は、新納是久(これひさ)の娘である。甥にあたる新納忠澄(にいろただずみ)が相州家に仕え、島津忠良の学問の師となったとも。この新納忠澄とともに日向から梅北氏の一族がうつってきたことも考えられる。

 

梅北国兼は通称を「宮内左衛門尉(くないさえもんのじょう)」という。生年は不明。『西藩烈士干城録』によると、もとの名を「宮原景法」といった。天文7年(1538年)の薩摩国加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)の戦いで、梅北宮内左衛門が戦死。後継者がなかったことから、宮原景法が家督を継承して「梅北宮内左衛門尉国兼」と名乗ったのだという。この情報をもとにするなら、梅北国兼の生年は1515年~1525年頃であろうか。

宮原氏というのは加世田に古くから住む一族らしい。出自については文徳天皇の後裔を称する。相州家には初代の島津友久の頃から仕えているという。梅北氏と宮原氏の関係性は不明。島津貴久・島津義久のもとで活躍した人物として宮原景種(みやはらかげたね)がいる。こちらの生年は永正12年(1515年)。「景」の通字(とおりじ)から、宮原景法(梅北国兼)もこちらの一族であろう。宮原景種とはほぼ同年代である。兄弟であった可能性もなくはない。

ちなみに宮原景種は佐敷の地頭を務めた。天正15年(1587年)に豊臣政権による九州攻めの際に戦死する。そういった因縁もある。

出自については、あくまでも推測の域を出ない。ただ、梅北国兼は相州家時代から仕える古参の家臣であるというのは確かだ。

 

梅北国兼は天文年間に侍大将として頭角をあらわす。武勇に優れた人物だったという。

天文23年(1554年)から始まる大隅合戦でも大いに活躍。岩剣城の戦いから蒲生城陥落まで、梅北国兼は島津忠平(しまづただひら、島津義弘)とともに行動することが多かった。初陣の島津忠平(島津義弘)の補佐役を任されていたと思われる。大隅合戦ののち、弘治3年(1557年)には大隅国山田の地頭に任じられた。

その後も、島津家の主要な戦いに参加。大隅牛根の戦い、日向攻略、高城川の戦い(耳川の戦い)、肥後攻略などで活躍した。

天正8年(1580年)には大隅国湯之尾(ゆのお、鹿児島県伊佐市菱刈川北)の地頭に任じられている。

 

真相はよくわからない

梅北国兼がなぜ反乱を起こしたのか? 謎だ。一般的には、豊臣政権に対する不満から、と言われたりする。あるいは、朝鮮出兵への反発からとも。

梅北国兼は島津家の忠臣であった。そんな人物が、島津家を潰しかねないような事件を起こした。そこにも違和感がある。

そして、梅北神社の存在も不思議である。『本藩人物誌』では、「国賊伝」の中に梅北国兼の記事がある。一揆により島津家は窮地に追い込まれ、かなりの犠牲もあった。梅北国兼は叛逆者として名を残す。それなのに神として祀られているのである。

 

佐敷城占拠まで手際がよく、計画的に実行された印象もある。なお、島津義弘は企てを察知していたようである。家老宛てに送った天正20年5月5日付けの書状で「逆心之者供より仕崩さるる迄ニ候、逆心ヲ企候者之事、後日顕然可申候事者」と述べている。

島津家の命令で動いていた可能性もありそうな気もする。だが、そんな記録はない。仮にそうであったとしたら、都合の悪いことはことごとく秘匿されているだろう。

討たれた島津歳久は、実際に計画の首謀者であったかもしれない。もしかしたら、島津義久もその計画に関与していた可能性もなくはないと思う。

 

天正20年時点で、梅北国兼は70歳前後だろうか。島津家の「捨て石」となったのかも。

 

 

<参考資料>
『梅北一揆の研究』
著/紙屋敦之 発行/南方新社 2017年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集50『西藩烈士干城録(二)』
編・発行/鹿児島県立図書館 2011年

鹿児島県史料集51『西藩烈士干城録(三)』
編・発行/鹿児島県立図書館 2012年

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