ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

肝付一族についてまとめてみた、南九州に伴氏が根付き、そして枝葉を広げた

南九州の歴史を見ていくと、肝付(きもつき)一族の存在感がすごく大きいのだ。その歴史はかなり古い。

支流氏族もかなりある。萩原(はぎわら)・安楽(あんらく)・和泉(いずみ)・梅北(うめきた)・救仁郷(くにごう)・北原(きたはら)・川路(かわじ)・検見崎(けんみざき)・岸良(きしら)・野崎(のざき)・津曲(つまがり)・鹿屋(かのや)・頴娃(えい)・橋口(はしぐち)・薬丸(やくまる)など。鹿児島県内でちょくちょく見かける苗字も。それぞれの支族にさらに分家もあり、肝付一族にルーツを持つ苗字はとてつもなく多い。

ちなみに通字(とおりじ)は「兼」である。南九州の歴史を見ていく中で、名前に「兼」の字が入るとかなりの確率で肝付一族だったりする。

 

肝付一族についてまとめてみた。各氏の由緒についても記す。

 

 

 

 

 

伴姓を称する

肝付氏は伴(とも)姓である。

伴氏は、もともと大伴(おおとも)氏を名乗った。古代においてはヤマト王権の中枢にあり、とくに軍事を担った氏族である。大伴室屋(おおとものむろや)・大伴金村(かねむら)などはかなりの権勢を誇ったとされる。

8世紀の大伴旅人(たびと)・大伴家持(やかもち)は歌人としても知られる。この父子は南九州とも縁がある。大伴旅人は養老4年(720年)に征隼人持節大将軍に任命され、大隅隼人の反乱の鎮圧にあたった。大伴家持は政争に巻き込まれて失脚し、薩摩守に左遷されている。

また、大伴弟麻呂(おとまろ)は延暦13年(794年)に征夷大将軍に任命されている。これが最初の「征夷大将軍」である。

9世紀半ばには伴善男(とものよしお)が大納言まで出世する。しかし、貞観8年(866年)の応天門の変で失脚。伴善男が伊豆国に配流となるなど、一族は処罰された。子の伴中庸(なかつね)は隠岐国に流されたあと、石見国に移されたという。

その後の伴氏は勢いがなくなっていき、やがて中央政界から姿を消す。

 

 

伴善男の後裔?

肝付氏の初代は肝付兼俊(きもつきかねとし)とされる。この人物は大納言の伴善男の後裔とされる。伝わっている系譜によるとつぎのとおりである。

伴善男→伴中庸(伴仲用)→伴仲兼→伴兼遠→伴兼行→伴行貞→伴兼貞→伴兼俊(肝付兼俊)

 

安和2年(969年)に伴兼行(とものかねゆき)が薩摩国掾に任じられて下向したという。もとは大宰府(だざいふ)の大監(だいじょう、だいげん)だったとも。この人物は伴善男の玄孫とされる。

伴兼行は薩摩国鹿児島郡神食(かんじき、現在の鹿児島市伊敷)に居住し、その居館を「伴掾館(ばんじょうかん、ばんじょうのやかた)」と呼んだ。伴掾館は伊邇色神社(いにしきじんじゃ、鹿児島市下伊敷町)の近くにあったとされる。

 

その後、伴兼貞(とものかねさだ、兼行の孫)が長元9年(1036年)に大隅国肝属郡の弁済使(べんざいし、荘園の管理者)に任じられ、肝属郡の高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)に入ったとされる。

伴兼貞は平季基(たいらのすえもと)の娘を妻にしたという。平季基は万寿年間(1024年~1028年)に島津荘を開拓した人物である。平季基は娘婿である伴兼貞に大隅国肝属郡や日向国三俣院(みまたいん、宮崎県北諸県郡三股町と都城市の一部)など、広大な荘園を任せることに。そして、兼貞の子の兼俊の代から「肝付」を名乗るようになったとされる。


弘文天皇(大友皇子)の子の余那足が伴姓を賜り、その後裔とも伝わる。ただ、さすがにこちらはだいぶあやしい感じがする。

また、伴善男につながる系譜も鵜呑みにはできない。伴兼行よりも前の系図は無理やりつなげた感じもある。伴氏の傍流の者が、著名な伴善男の後裔を仮冒した可能性もあるかもしれない。

 

肝付氏は高山城(こうやまじょう、鹿児島県肝属郡肝付町新富本城)を拠点とした。

山城の大手門跡

高山城跡

 

高山城には、大来目神社(おおくめじんじゃ)が鎮座する。御祭神の天槵津大来目命(アメノクシツオオクメノミコト)は久米氏の祖神だ。久米氏は大伴氏と関わりのある氏族、あるいは同族と考えられている。

赤い鳥居と石碑

高山城の大来目神社

 

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島津荘についてはこちら。

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肝付氏(嫡流)

肝付氏は大隅国肝属郡高山を拠点に、広範囲に勢力を有した。平安時代末期(12世紀末)には南九州に強固な地盤を築いていたと考えられる。

しかし、鎌倉に武家政権が成立すると、幕府は守護・地頭を任命して地方統治を行うようになる。一方で、郡司や弁済使といった在地豪族も併存している。土地の所有権をめぐるいざこざも多発した。

在地豪族である肝付氏は、島津氏をはじめとする鎌倉御家人系の領主たちと対立した。のちに大隅国・日向国の守護職は北条氏のものとなり、こちらとも揉める。元亨3年(1323年)には肝付兼藤(かねふじ、6代当主)が北条方に殺害されるという事件も起こっている。

南北朝争乱期になると、肝付兼重(かねしげ、8代当主)は日向国三俣院で挙兵。南朝方で奮戦する。北朝方(幕府方)の島津貞久(しまづさだひさ、島津氏5代当主)や畠山直顕(はたけやまただあき)と激闘を繰り広げた。

 

下の写真は三俣院高城(みまたいんたかじょう、宮崎県都城市高城町)。別名に月山日和城(がっさんひわじょう)ともいう。肝付兼重が拠点とした場所とされ、城跡には肝付兼重の顕彰碑もある。

城跡から街並みを見下ろす

三俣院高城(月山日和城)跡

 

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15世紀以降は島津氏と協力したり、あるいは敵対したり。大隅国に勢力を保った。そして、16世紀には肝付兼続(きもつきかねつぐ)・肝付良兼(よしかね、兼続の嫡男)が一族の最大版図を築く。当初は島津貴久(たかひさ)と同盟関係にあった。しかし、肝付氏と島津氏は袂を分かち、南九州の覇権を争うようになる。

肝付氏は日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)と連携し、島津氏に対抗する。一進一退の攻防が長く続くが、伊東氏の勢いが弱くなると島津氏が押し気味となる。そこに肝付良兼の死も重なった。天正2年(1574年)、肝付兼亮(かねすけ、兼続の子、良兼の弟)は島津義久(よしひさ)に降る。

 

その後、当主の肝付兼亮は追放され、肝付兼護(かねもり、良兼・兼亮の弟)が当主に立てられた。天正8年(1580年)には薩摩国阿多郡(現在の鹿児島県南さつま市金峰町)に所領替え。先祖伝来の高山の地を離れた。

肝付兼護は慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いに従軍。島津義弘の配下として奮戦するも討ち死にする。肝付兼幸(かねゆき、兼護の子)が家督を継ぐが、その兼幸も慶長15年(1611年)に船の事故で亡くなる。兼幸に子はなく、肝付氏本家の血統は途絶えた。その後は遠縁の新納(にいろ)氏より養子を迎えて家名を保った。

 

肝付氏嫡流については、こちらの記事でも。

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萩原氏(はぎわら)

萩原弁済使となった萩原兼任にはじまるとされる。兼任は伴兼貞の二男で、肝付兼俊の弟にあたる。萩原というのは日向国三俣院のあたりである。伴兼貞は大隅国肝属郡を長男に任せ、日向国三俣院を次男に任せたようだ。名乗りは三俣院を流れる萩原川からとったとも。

萩原兼春にはじまる家系もある。兼春は肝付兼経(かねつね、嫡流2代目)の子。こちらも三俣院と関わりがあったと考えられる。

 

 

安楽氏(あんらく)

安楽俊貞にはじまるとされる。俊貞は伴兼貞の三男で、肝付兼俊の弟にあたる。日向国救仁院(くにいん)の安楽(鹿児島県志布志市志布志町安楽)の弁済使となったことから、安楽氏を名乗った。

16世紀においては、肝付氏嫡流の家臣として安楽氏の名が多く出てくる。とくに安楽兼寛(あんらくかねひろ、安楽氏の第20代とされる)は大隅国牛根の入船城(いりふねじょう、鹿児島県垂水市牛根麓)を守り、島津義久に攻められて1年以上にわたって籠城した。

天正2年(1574年)に安楽兼寛は降伏勧告を受け入れ、入船城を明け渡す。この敗戦が島津と肝付の戦いに終止符を打った。その後、安楽氏は島津氏に仕えた。

 

緑に覆われた山城跡

入船城跡

 

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梅北氏(うめきた)

梅北兼高にはじまるとされる。兼高は伴兼貞の四男で、肝付兼俊の弟にあたる。名乗りは日向国諸県郡梅北(宮崎県都城市梅北町)に由来する。梅北兼高は神柱宮(かんばしらぐう、神柱神社)の斎宮介となり、梅北の地に居住した。

神柱宮は島津荘の総鎮守で、平季基が創建したとされる。現在はJR都城駅近くに鎮座しているが、明治6年(1873年)にここへ遷った。それまでは、梅北に鎮座していた。梅北の黒尾神社がもともと神柱宮あった場所である。

梅北氏は三俣院の弁済使を世襲するなど、この地に栄える。しかし、14世紀中頃に畠山直顕に押領されたという。

16世紀には梅北国兼(うめきたくにかね)が島津貴久に仕える。天文23年(1554年)から弘治3年(1557年)にかけての大隅合戦で活躍し、大隅国始羅郡(しらぐん)の山田(鹿児島県姶良市の山田地区)の地頭などを任された。その後も島津氏の多くの戦いで功を挙げる。

天正20年(1592年)、梅北国兼は反乱を起こす。「梅北一揆」「梅北国兼の乱」と呼ばれる事件である。朝鮮に出征する途上で肥後国の佐敷城(さしきじょう、熊本県葦北郡芦北町)を占拠。さらに八代(やつしろ、熊本県八代市)にも攻めかかった。だが、反乱は鎮圧され、梅北国兼も討たれた。

 

 

 

 

和泉氏(いずみ)

和泉行俊にはじまるとされる。行俊は伴兼貞の五男で、肝付兼俊の弟にあたる。薩摩国和泉郡(鹿児島県出水市)の弁済使を任された。和泉氏はのちに、椙(すぎ)・出水(いずみ)とも称する

南北朝争乱期には一族の椙保末・椙保三の名が確認できる。島津貞久に従って転戦したという。

 

 


救仁郷氏(くにごう)

救仁郷兼綱にはじまるとされる。兼綱は肝付兼俊の二男にあたる。大隅国救仁郷の蓬原城(ふつはらじょう、 鹿児島県志布志市有明町蓬原)を拠点とした。救仁郷は現在の志布志市南部と大崎町にまたがる地域で、救仁郷氏はこの一帯を領した。

延文4年・正平14年(1359年)に島津氏久(うじひさ、島津氏6代、奥州家初代)は国合原(くにあいばる、鹿児島県曽於市末吉町南之郷)で戦う。その際に蓬原城の救仁郷氏に援軍を求めた。救仁郷氏はこれを断る。その後、蓬原城は島津氏によって攻め落とされた。

 

救仁郷氏はのちに源姓を称する。これは渋川満頼(しぶかわみつより)の子を婿に迎えたことによるという。渋川満頼(しぶかわみつより)は応永3年(1396年)に九州探題に任じられて九州入り。渋川氏は足利氏の一族である。

 

 

北原氏(きたはら)

北原氏は本家に匹敵するほどの大勢力を築く。最盛期には日向国真幸院(まさきいん)や大隅国栗野院(くりのいん)・桑原郡(くわばらぐん)などを領する。その範囲は現在の宮崎県えびの市・小林市・高原町、鹿児島県湧水町・霧島市(横川・牧園・日当山など)に及んだ。

 

初代は北原兼幸。肝付兼俊の三男とされる。長寛2年(1164年)に日向国串良院の弁済使となったと伝わる。北原城(木田原城、きたはらじょう、鹿児島県鹿屋市串良町細山田)を築いて居城としたことから、「北原」を名乗ったという。

北原氏の出自には諸説あり。北原兼幸は救仁郷兼綱の曽孫とも。

康永4年(1345年)頃に北原兼幸が日向国真幸院に移ったとされる。こちらは初代と同名の別人か? 系図が混乱しているような感じもある。もしかしたら、北原兼幸は14世紀の人物で、北原氏の出自を肝付氏嫡流の古いところに強引につなげた可能性がありそうにも思える。

 

南北朝争乱で嫡流の肝付兼重は南朝方につくが、庶流の北原氏は北朝方(幕府方)の畠山直顕についたようだ。その後も北原氏は本家の影響をほとんど受けず、独立した勢力となっていく。

15世紀から16世紀にかけては、周囲の伊東氏・相良(さがら)氏・北郷(ほんごう)氏・新納(にいろ)氏・本田(ほんだ)氏・菱刈(ひしかり)氏などと対峙しながら、勢力を広げていった。

16世紀半ばに当主となった北原兼守(きたはらかねもり)の時代に、北原氏は全盛期を迎える。日向の伊東義祐(いとうよしすけ)と薩摩の島津貴久(しまづたかひさ)は勢力を広げてやがてぶつかる。地理的にその間にあった北原兼守はうまく立ち回って勢力を保っていた。だが、北原兼守が永禄元年(1558年)に病没。後継となる男児がなかった。そこに伊東義祐が介入してくる。

北原家では北原民部少輔(兼守の叔父の北原兼孝か)に北原兼守の娘を嫁がせて、家督を継承することした。伊東義祐がこれに待ったをかけた。北原兼守の妻は伊東義祐の娘であった。伊東義祐は未亡人となった娘を、北原氏庶流の馬関田右衛門佐(苗字は「まんがた」と読む)に再嫁させてこちらを擁立しようとする。そして、北原民部少輔を殺害し、伊東義祐が北原家を乗っ取った。

北原氏の家臣は島津貴久を頼る。そして、肥後国球磨(くま、熊本県人吉市のあたり)の相良氏のもとに身を寄せていた北原兼親(かねちか)を担ぎ出す。相良義陽(さがらよしひ)も島津氏と同調。島津・相良連合軍は伊東氏を攻め、北原氏領の多くを奪い返した。そして北原兼親が当主となり、飯野城(いいのじょう、えびの市原田)に入った。

山城の曲輪跡

飯野城跡

 

その後、相良氏が裏切って伊東氏と組む。島津貴久は北原兼親では守り切れないと判断する。飯野城に二男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)を入れ、真幸院や栗野院を守らせることとした。

北原兼親は薩摩国伊集院神殿(いじゅういんこうどの、鹿児島県日置市伊集院町上神殿・下神殿)に領地を与えられて移住した。

 

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川路氏(かわじ)

北原氏の一族とされる。永禄5年(1562年)の北原氏の動乱において、横川城主の北原伊勢介(北原兼正か)は伊東方についた。横川城は島津方に落とされる。この城を逃れた者は、大隅国蒲生(鹿児島県姶良市蒲生)に移住し、「北原」から「川路」に名乗りを変えたという。その後、川路氏は薩摩国比志島(ひしじま、鹿児島市皆与志町)に移る。

明治政府で初代の大警視となった川路利良(かわじとしよし)はこの一族。

 

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検見崎氏(けんみざき)

祖とされる検見崎兼友は、肝付兼俊の四男にあたるという。高山の検見崎城(けんみざきじょう、鹿児島県肝属郡肝付町後田)に入り、検見崎氏を名乗る。一族は肝付氏嫡流に仕えた。

時代は下って、文政13年(1830年)に検見崎兼明が肝付本家の家督をついだという。

 

 

岸良氏(きしら)

岸良兼基にはじまるという。兼基は肝付兼員(かねかず、4代当主)の二男。名乗りは大隅国内之浦の岸良(鹿児島県肝属郡肝付町岸良)の弁済使に任じられたことから。肝付氏没落後は島津家に仕え、鹿児島城下に移る。岸良氏のなかには島津忠長(しまづただたけ)の家臣になった者もあり、宮之城島津家に代々仕えた。

一族からは、明治政府で大審院長などを歴任した岸良兼養(きしらかねやす)などが出ている。

 

 

野崎氏(のざき)

肝付兼員三男の兼広を祖とする。高山の野崎(のざき、肝付町野崎)・波見(はみ、肝付町波見)を領した。野崎にあった和田城を居城としたという。

 


津曲氏(つまがり)

肝付兼員四男の兼行(助兼とする資料もある)、あるいはその子の兼亘が津曲氏を称したのがはじまりとされる。名乗りは高山の野崎村津曲(肝付町野崎の津曲地区)から。

天正年間(1573年~1592年)には、島津義久の包丁人として津曲但馬の名がある。

 

 

鹿屋氏(かのや)

肝付兼石(かねいし、5代当主)三男の宗兼にはじまるという。萩原氏より鹿屋弁済使を継承し、大隅国鹿屋院(かのやいん、鹿児島県鹿屋市)を領したことから鹿屋氏を称するようになった。鹿屋城(亀鶴城、鹿屋市北田町)を居城とした。

鹿屋氏の所領は広く、大きな力を持っていたと思われる。14世紀末頃の鹿屋兼忠は、島津元久(もとひさ、島津氏7代)の国老も務めた。

応永18年(1411年)、島津氏では内訌がある。強引に家督を継承した島津久豊(ひさとよ、島津氏8代、元久の弟)に対して伊集院頼久が反乱を起こし、薩摩・大隅は大乱となった。その中で肝付兼元が叛き、鹿屋に侵攻する。鹿屋兼忠は島津久豊の援軍とともにこれを撃退している。

16世紀には鹿屋氏は肝付兼続に従っている。肝付氏と北郷時久がぶつかった住吉原(すみよしばる、国合原、くにあいばる、鹿児島県曽於市末吉町南之郷)の合戦で、鹿屋兼豊と鹿屋兼任の親子が戦死して所領を失ったという。この出来事は『本藩人物誌』で「弘治二年」としているが、元亀3年(1572年)から翌年にかけての住吉原の戦い(国合原の戦い)のことだと思われる。

 

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頴娃氏(えい)

頴娃氏は肝付一族でありつつも、半分は島津一族のような感じである。

名乗りは薩摩国の頴娃郡(鹿児島県南九州市頴娃・指宿市開聞)に由来する。古くは頴娃郡に河邊一族(薩摩平氏)の頴娃氏があった。

15世紀の初め頃に頴娃郡は島津元久の支配下に入り、元久は弟の島津久豊に頴娃を任せた。その後、島津久豊は日向国穆佐(むかさ、宮崎市高岡町)に移り、頴娃の地は、頴娃氏(薩摩平氏)の一族に再び与えられた。島津久豊は兄の急死のあとに家督をつぎ、8代当主となる。頴娃氏(薩摩平氏)は反乱を起こし、応永27年(1420年)に島津久豊に攻め滅ぼされた。

島津久豊は肝付兼元(かねもと、嫡流11代当主)二男の肝付兼政を養子として迎え入れ、島津忠豊と名乗らせる。忠豊は島津本宗家の三男家として遇された。そして、島津忠豊に頴娃の地を与えた。その後、島津忠豊は「島津」を返上し、伴姓に復するとともに「頴娃兼政」と名乗るようになる。

14世紀末頃の肝付氏は島津氏に従い、両氏の関係も良好であった。肝付兼政(頴娃兼政)の島津家への養子入りからもそんな状況がうかがえる。ちなみに、兼政の父の肝付兼元の名は、島津元久から「元」の字を与えられてのものである。

頴娃氏(肝付氏庶流)は頴娃郡に加えて揖宿郡(鹿児島県指宿市)も領した。肝付一族でありながら島津家一門のような存在で、島津氏の家臣として重きをなすようになる。

16世紀初め頃、頴娃氏の家督は島津本宗家から入った養子がつぐ。島津忠昌(ただまさ、島津氏11代当主)の三男で、名を忠兼という。しかし、島津本宗家では当主の死が相次ぐ、頴娃氏に出されていた忠兼は本家に戻され、14代当主となった。島津忠兼(のちに島津勝久と改名)である。

島津忠兼に代わって、頴娃氏には肝付氏本家から養子が入った。頴娃兼洪(かねひろ)と名乗る。頴娃兼洪は肝付兼興(かねおき)の弟で、肝付兼続の叔父にあたる。

 

頴娃兼洪は島津忠良(ただよし、島津貴久の父)と対立するが降伏する。これ以降、頴娃氏は島津忠良・島津貴久・島津義久の重臣となる。とくに頴娃久虎(ひさとら)は戦場で活躍。日向攻略戦・高城川の戦い(耳川の戦い)・沖田畷の戦い・根白坂の戦いなどを転戦する。

頴娃久虎は30歳の若さで急死する。その後の頴娃氏の家督継承は、だいぶややこしい感じになる。

久虎の子は頴娃久音(ひさぶえ)という。頴娃久音は所領替えとなり、石高も大幅に減らされた。さらに頴娃久音は朝鮮に出征して16歳で陣没する。その後、頴娃氏の家督は島津義虎(よしとら、薩州家)の五男がつぐ。頴娃久秀(ひさひで)と名乗る。しかし、その久秀は入来院(いりきいん)氏に養子入り、こちらの家督をついで名も入来院重高(しげたか)と改めた。頴娃久秀(入来院重高)のあとは鎌田政近の四男が頴娃氏の家督を継承し、頴娃久政(ひさまさ)と名乗った。


頴娃久政は大隅国の高山・日当山(ひなたやま、鹿児島県霧島市隼人日当山)・薩摩国伊集院などの地頭を務め、藩家老にもなる。その後も、頴娃氏は島津氏に仕えた。

 

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橋口氏(はしぐち)

薩摩国伊集院(鹿児島県日置市伊集院)に根づいた伴姓の橋口氏がある。肝付兼重の後裔を称する。

伊集院の妙圓寺に覺雲という僧がいた。肝付清兼の三男が出家していたが、兄が相次いで亡くなったことから父から後継者に指名される。父の死後に覺雲は還俗。伊集院の上神殿(かみこどん、かみこうどの、日置市伊集院町上神殿)の「橋口」を拠点として、橋口兼廣を名乗った。これが橋口氏のはじまりだという。

16世紀には橋口兼弘(はしぐちかねひろ)が島津貴久(しまづたかひさ)の配下として活躍。薩摩国の石谷城(いしたにじょう、鹿児島市石谷町)攻めで功があり、麦生田(むぎうだ、日置市伊集院町麦生田)を与えられる。ここに移り住む。

その後、島津忠平(ただひさ、島津義弘、よしひろ)に従って、橋口兼弘は日向国真幸院(まさきいん)に移る。元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで戦死した。

橋口兼持(兼弘の孫)は島津忠恒(ただつね)より鹿児島に屋敷を与えらて移り住んだ。その後、伴姓橋口氏には薩摩藩の要職を務めた者も多い。

 

文久2年(1862年)の寺田屋騒動に関わった橋口壮介・橋口吉之丞・橋口伝蔵もこの一族である。

また、海軍大将の樺山資紀(かばやますけのり)は橋口氏から養子に入った。橋口伝蔵の実弟である。

 

『三国名勝図会』の編纂者には橋口兼古・橋口兼柄の名がある。系図についてはわからないが、おそらくは伴姓橋口氏だろう。肝付氏の通字である「兼」も入っている。

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加治木肝付氏/喜入肝付氏

肝付兼光(かねみつ)にはじまる一族である。

肝付兼忠(嫡流12代)の息子たちが争った。長男は肝付国兼(くにかね)、次男は肝付兼連(かねつら)、そして三男が肝付兼光(かねみつ)である。兼忠と国兼は不仲で、これに乗じて兼連が兄を追放。家督を奪った次兄に肝付兼光は従わず、本家を出奔した。

肝付兼光は日向国大崎城に入った。そして島津家に仕える。文明18年(1486年)、肝付兼固(かねかた、兼光の子)は島津忠昌より大隅国溝邊(みぞべ、鹿児島県霧島市溝辺町)に領地を与えられ、大崎よりこちらに移る。そして、肝付兼演(かねひろ、兼固の子)は島津忠兼(島津勝久)の国老となった。

 

大永6年(1526年)に島津忠兼(島津勝久)の後継者に島津貴久が立てられ、さらに薩州家によって状況がひっくりかえされる。島津勝久が当主に復帰し、薩州家と相州家(島津忠良・島津貴久)も抗争を繰り広げた。この争いは相州家が制し、島津貴久が覇権を握る。正式に守護職にもついた。

肝付兼演は天文3年(1534年)に大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)を与えられる。加治木城を居城とし、「加治木肝付氏」と呼ばれるようになる。


天文10年(1541年)、肝付兼演は島津貴久に叛く。島津貴久が当主となったことに反発する十三人衆のひとりとして兵を挙げた。大隅国の生別府城(おいのびゅうじょう、霧島市隼人町小浜)の戦いにはじまり、その近くの加治木や溝邊も戦場となる。

天文18年(1549年)にも肝付兼演は島津貴久と戦う。加治木の黒川崎で島津方と肝付方が対峙する。攻防は半年ほど続いた。その後、肝付兼演は島津氏と和議を結ぶ。肝付氏にとって有利な条件であった。加治木の安堵に加え、新たに領地が割譲された。これ以降、加治木肝付氏は島津貴久の重臣となる。

川沿いの岬

加治木の黒川崎

 

肝付兼演は、蒲生茂清(かもうしげきよ)・祁答院良重(けどういんよししげ)と結んで島津氏に抵抗していた。蒲生氏は蒲生(かもう、姶良市蒲生町)、祁答院氏は帖佐(ちょうさ、こちらも姶良市)を領する。3氏ともに島津氏と和睦するが、肝付兼演だけが優遇されていた。

天文21年(1552年)に肝付兼演は没し、肝付兼盛(かねもり、兼演の子)があとをついだ。同じ頃に、蒲生氏も蒲生範清(のりきよ、茂清の子)に代替わりしている。

天文23年(1554年)、蒲生範清と祁答院良重は再び叛く。入来院氏・菱刈氏・北原氏なども同調する。肝付兼盛は島津方にある。反乱軍は加治木城を囲んだ。島津貴久は加治木城の救援に動く、兵を出すと岩剣城(いわつるぎじょう、姶良市平松)を囲んだ。加治木城の囲みは解かれ、岩剣城の周辺が主戦場となった。肝付兼盛も島津方の軍に加わる。


島津貴久は岩剣城を落としたあと、帖佐を制圧して祁答院氏の勢力を追い出す。さらに弘治3年(1557年)には蒲生城も陥落させる。大隅国西部の始羅郡(しらぐん、現在の姶良市一帯)を掌握した。

加治木肝付氏はその後も島津貴久・島津義久の配下として転戦する。文禄4年(1595年)には薩摩国喜入(きいれ、鹿児島市喜入)を与えられてこちらに移った。江戸時代は「喜入肝付氏」と呼ばれる。引き続き島津家の重臣であり、藩家老を出す家柄でもあった。


幕末に藩家老となった小松清廉(こまつきよかど、小松帯刀、たてわき)は、喜入肝付家の出身である。小松家に養子に入るまえは、肝付兼戈(きもつきかねたけ)という名であった。

 

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薬丸氏(やくまる)

肝付氏庶流とされるが出自は不詳。戦国時代に薬丸兼将(かねまさ)は肝付兼続の家老として活躍。肝付良兼や肝付兼亮にも仕えた。

 

一族の薬丸兼成(やくまるかねしげ、兼将の孫とも)は島津氏に召し抱えられ、朝鮮での戦いや関ヶ原の戦いで武功を挙げた。

南九州に下向した伴兼行は野太刀(のだち)の名手であったという。これを家伝の剣術として肝付氏では継承し、薬丸氏はその使い手であった。薬丸兼成も剣術に優れていた。

のちに示現流(じげんりゅう)を創始する東郷重位(とうごうしげかた)は、初陣で薬丸兼成を親分(親代わりの世話役)とした。そんな縁もあって、薬丸兼陳(けんちん、かねのぶ、兼成の孫)は東郷重位の高弟となる。薬丸兼陳は示現流の要素を家伝の剣術に取り入れて「野太刀自顕流(のだちじげんりゅう、薬丸自顕流)」をつくり上げた。

野太刀自顕流(薬丸自顕流)は江戸時代において薩摩藩内に浸透する。この剣術を体得した者が、幕末の多くの出来事にもからんでいたりする。

 

 

 

 

 

<参考資料>

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ 二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 出版/鹿児島県 1991年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集 第6集『諸家大概・職掌紀原・別本諸家大概・御家譜』
発行/鹿児島県史料刊行会 1966年

『「さつま」の姓氏』
著/川崎大十 発行/高城書房 2001年

ほか