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高山城跡にのぼってみた、肝付氏の栄華の地

鹿児島県肝属郡肝付町高山の高山城(こうやまじょう)跡にいってきた。訪問日は2021年3月某日。

 

 

大隅の覇者の本拠地

肝付(きもつき)氏は平安時代中期から戦国時代にかけて大隅国で強大な勢力を誇っていた。その本拠地が高山であった。肝付氏は伴姓(古くは大伴氏)を称する。安和2年(969年)に伴兼行(とものかねゆき)が薩摩国(鹿児島県西部)に下向したのがはじまりとされる。兼行の孫にあたる伴兼貞(とものかねさだ)が大隅国肝属郡の弁済使(べんざいし、荘園を管理する)となり、兼貞の子の兼俊(かねとし)の代から肝付氏を名乗るようになったという。

 

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高山城は広大な山城で、50haほどの規模であったと推測されている。別名に「高山本城」「肝付城(きもつきじょう)」とも。中世山城の風格がよく残っていて、国史跡にも指定されている。

緑に覆われた山城跡

高山城跡をふもとから

 

 

 

 

 

広大な山城へ踏み入る

高山城跡は高山の市街地からはやや離れていて、肝付町役場から南へ5㎞ほどいったところ。近くまで来ると県道561号沿いに「国指定 高山城跡」の文字が刻まれた古びた記念碑がある。ちなみに、記念碑には昭和28年(1953年)の建立と刻まれている。

城跡の石碑

「高山城跡」碑、背後の山が城跡

 

記念碑から200mほど離れたところに、地域のコミュニティセンターがある。その入口に「国指定史跡 高山城跡」の看板が見つかるので入る。車をここに停めて散策に向かう。

白い看板に「高山城跡」、右向きの矢印に従う

ここから入ると登山口

 

コミュニティセンターは小学校の跡地で、そのことを示す記念碑もあった。このあたりは高山城の三の丸にあたる。田地には馬乗馬場の痕跡も残っている。馬乗馬場に沿って山に向かうと登山口に到着。大手口だ。

平坦な馬場跡

三の丸の馬乗馬場跡

馬乗馬場に沿って山に向かうと登山口に到着。大手口だ。ここを入り、向かって左に行く。ちなみに右側に行けば湯沸場跡である(今回は寄らず)。

森の中に入る、道は二又に分かれる、案内板あり

大手口すぐ、看板がわかりやすい

 

しばらく歩くと鳥居が見えてくる。天槵津大来目命(アメノクシツオオクメノミコト)を祀る「大来目神社」だ。

「大来目神社」の標柱と朱の鳥居

大来目神社

 

肝付氏が氏神・軍神として崇敬し、「城之鎮神(しろのしずめがみ)」でもあったという。神社の奥には「球磨屋敷跡」。永正3年(1506年)に肝付氏が島津氏と戦った際に、肥後国球磨郡の相良氏が援軍としてかけつけて籠城した場所とのこと。

鳥居前の山道を登っていくと「大手門跡」。この先には曲輪を区切る堀切が続く。大手門から城内部に向かって左に「山伏城跡」、右に「二の丸跡」、奥が「本丸跡」である。

大手門の痕跡

大手門跡

 

山伏城跡は大手門跡近くに登り口がある。看経所(経典を読む場所)があったとも伝わるが、詳細はよくわからない。

杉木立の中の曲輪跡、標柱が木に寄りかかる

山伏城跡

 

大手門跡から奥へ進むと分かれ道。まずは左の本丸跡を目指す。その途中には枡形跡もある。枡の形(四角形)をした空間で、侵入した敵兵がここで立ち止まったところを攻撃するのだ。

「桝形跡」の看板もある

桝形跡

さらに奥へ。ようやく本丸跡に到着。面積は約5689㎡と高山城の曲輪の中ではもっとも広く、もっとも高い場所にある。曲輪のまわりには土塁も確認できる。

平坦に整えられた曲輪に「本丸跡」の看板がある

本丸跡

 

本丸を下りてきたところ。城跡はさらに奥へと続いている。時間に余裕がなくなってきたため、こちらは断念。

奥に道が続く、看板に「馬乗馬場跡・奥曲輪跡」

奥曲輪方面へ

来た道を戻って、分かれ道のもう一方へ。しばらすく進むと「搦手門跡」。向かって右の道を登っていくと「二の丸跡」だ。こちらは大手門跡からぐるりと螺旋状に道が続いている感じだった。二の丸の西側は崖になっていて、敵を見下ろせる。

搦手門跡をやや上から見る

搦手門跡

曲輪跡に「二の丸跡」標柱

二の丸跡

 

搦手門跡まで戻って降る道を行くと下山。搦手口から県道561号に出た。近くには「一騎通し跡」という場所も。一騎しか通れない搦手口へ続く狭い道とのことだ。

細い通路がある

搦手口の一騎通し跡

 

高山城はよく整備されていて、要所に看板もあり、散策しやすかった。山中を歩くと、シラス台地の自然地形を活かしてつくり上げた堅城という感じである。地図を見ると山を囲むように3本の川があり、これらが水堀の役目を果たしていたと思われる。

 

 

 

弓張城跡にもちょっと立ち寄る

鹿児島藩(薩摩藩)では外城制(とじょうせい)という仕組みがあった。各地に「麓(ふもと)」または「郷(ごう)」という武士の集落を置いた。麓を中心にその地域を統治したほか、敵に攻め込まれるなどの有事には軍事拠点とすることも想定されていた。「麓」「郷」は山城跡の麓に形成されることが多かった。

現在の肝付町役場の周辺が高山麓である。高山城ではなく弓張城(ゆんばりじょう)の麓にあった。弓張城は高山城の支城ともされている。高山市街地の中心部に「城山」と呼ばれる山がある。それが弓張城跡だ。現在、城山の南側には「やぶさめの里総合公園」が整備されている。城跡の一部は残っていて、登山道もある。国の重要文化財に指定されている「二階堂家住宅」の近くにも登山口がある。

茅葺屋根の武家屋敷と山城跡

弓張城を見上げる、茅葺屋根は「二階堂家住宅」


城山の麓には四十九所神社(しじゅうくしょじんじゃ)も鎮座する。社伝によると永観2年(984年)に伴兼行が伊勢神宮を勧請して創建。肝付氏の守護神・高山の産土神として崇敬されている。この神社では毎年秋に流鏑馬神事が行われていて、これは900年ほどの歴史があるのだという。

神社の前、奥に朱色の鳥居

四十九所神社

弓張城は、14世紀中頃に楡井頼仲(にれいよりなか)が居城としていた。楡井頼仲は日向国諸県郡救仁院(くにいん)の志布志城(しぶしじょう、現在の志布志市志布志町)を拠点とし、一時は大隅の南朝方を牽引する存在だった。北朝方と全面戦争を展開するが、正平6年・観応2年(1351年)に志布志城を落とされた。肝付氏をたよって高山に逃れ、弓張城に入ったのだという。その後、楡井頼仲は再び挙兵するも敗れ、正平12年・延文2年(1357年)に志布志で自害した。

四十九所神社の境内には「楡井頼仲公表忠碑」もある。昭和3年(1928年)に建てられたもので、揮毫は海軍中将の東郷吉太郎(とうごうきちたろう、東郷平八郎の甥)。

石造りの顕彰碑

楡井頼仲公表忠碑

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<参考資料>
『高山郷土誌』
編/高山郷土誌編纂委員会 発行/高山町長 栫博 1966年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

ほか