ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

加久藤城跡にのぼってみた、大軍から城を守りきって木崎原の決戦へ

加久藤城(かくとうじょう)は宮崎県えびの市小田にあった山城である。「覚頭城」と書かれる場合もある。永禄7年~天正18年(1564年~1590年)に島津義弘(しまづよしひろ)がこの地を領有。元亀3年(1572年)の「木崎原の戦い」の緒戦は、この城であった。

城域は東西320m、南北270mほど。比高は50mほどで、シラス丘陵に築かれている。周囲は断崖で、いかにも堅固な感じである。本城のほかに新城・中城・小城が連なり、防御力をさらに高めてある。

 

なお、日付は旧暦で記す。

 

 

 

 

 

伊東軍のしくじりのはじまり

現在の宮崎県えびの市・小林市の一帯は、かつての日向国真幸院(まさきいん)にあたる。薩摩国・大隅国(現在の鹿児島県)から勢力を広げつつあった島津貴久(たかひさ、島津氏15代当主、義弘の父)と、日向国で強大な地盤を固めつつあった伊東義祐(いとうよしすけ)とが、永禄年間(1560年代)からこの地を巡って争うようになった。

真幸院西部の飯野・加久藤(いいの・かくとう、えびの市)は島津氏がおさえて、島津忠平(ただひら、島津義弘の名乗りは後年になってから)がこの地の守りを任される。一方、伊東氏側は真幸院東部の三山(みつやま、小林市)や高原(たかはる、宮崎県西諸県郡高原町)を勢力下に置き、西側への侵攻を狙っていた。

 

元亀2年(1571年)6月に島津貴久が没すると、伊東義祐は積極的に動く。そして、元亀3年5月3日に伊東軍は真幸院西部に向けて侵攻を開始する。兵力は約3000。伊藤祐安(すけやす)・伊東祐信(すけのぶ)・伊東祐青(すけはる)などを大将とし、伊東氏配下のおもだった武将も多数参加した。

伊東軍は守りの薄い加久藤城に夜襲をかける。5月3日夜から翌朝にかけて攻城戦が展開されるのである。

 

加久藤城に島津忠平(島津義弘)は妻を住ませていた。その妻は「実窓夫人(じっそうふじん)」「広瀬夫人(ひろせふじん)」「宰相殿(さいしょうどの)」といった名で知られている。そして、家老の川上忠智(かわかみただとも、島津支族川上氏の庶流)を城代として守らせる。城兵はわずかに50ほどだった。

島津忠平(島津義弘)は、加久藤城から東へ5㎞ほど離れた飯野城(いいのじょう、えびの市原田)にいた。こちらの兵力も少なく、300ほどだった。加久藤城の変事を知ると、こちらも行動にうつる。遠矢良賢(とおやよしかた)に50余の兵をあずけて加久藤城の救援に向かわせた。また、兵を分けて伏兵を配置し、島津忠平(島津義弘)本隊130余も二八坂(にはちさか、えびの市大明司)に陣取った。

伊東軍は加久藤城を大軍で囲むが、難所である搦手の鑰掛口(かぎかけぐち)から攻めかかった。暗いうえに地理にも疎く、こちらからの攻城を選んでしまう。島津側から「鑰掛口が弱点」という嘘の情報を流した、とも。伊東軍は搦手近くの樺山浄慶(かばやまじょうけい)の屋敷を城の一角だと勘違いして攻撃。樺山浄慶は山伏で、息子が2人いた。親子3人は奮戦して伊東軍を苦しめるが、討ち死にする。兵士がいると思わせるように「者ども続け!」と叫びながら戦ったとも伝わる。

川上忠智が指揮する城兵は崖上から伊東軍を攻撃する。遠矢隊などの援軍も駆け付けて挟み撃ちとなり、伊東軍は城を落とすことができなかった。伊東軍はいったん兵を退く。

島津方は擬兵の策もめぐらしていた。あちこちに幟旗を立てて、伏兵がいるように見せかけたのである。伊東軍は伏兵をおそれて退路を変え、引き返し、加久藤城南の木崎原(きざきばる、えびの市池島町)に駐屯する。

 

兵たちは夜襲と行軍で疲弊している。そこへ、島津軍が攻めかかる。両軍入り乱れての大激戦となった。

島津軍は兵を分けて敵を取り囲むように攻撃。伏兵の働きも大きかった。伊東軍は敗走する。多くの兵を失い、伊藤祐安・伊東祐信・伊東祐青ら大将も討たれ、有力武将の多くが命を落とした。

島津氏にとっては大きな兵力差をひっくり返しての勝利であった。

 

木崎原の戦いに関する記事はこちら

rekishikomugae.net

rekishikomugae.net

 

 

加久藤城を散策

国道268号沿いに「加久藤城跡」の看板がある。そこから細い道を北に向かう。正面にちょっとした山が見える。それが加久藤城跡だ。小路を入るとすぐに、鶴寿丸(つるひさまる、島津義弘の長男)の墓もある。

「加久藤城跡」と「鶴寿丸の墓」の案内看板

「えびの市松原」信号近くに看板あり

 

しばらく進むと加久藤城本城の全体がわかる。写真の右側が大手口、左側が伊東軍が攻めた搦手だ。城跡散策は大手口のほうから登る。

田園風景の向こうに山城跡

加久藤城跡を麓から

 

加久藤城跡へ行く前に、えびの市歴史民俗資料館に寄るといい。入館は無料だ。「木崎原の戦い」に関する展示が充実していて、加久藤城への行きかたも教えてもらえる。

加久藤城本丸跡には神社があり、ここまで車で行けるとのこと。だが、それはオススメできない。というのも、登り口のあたりがすごく狭く、軽自動車でもここを抜けるのは困難なのだ。挑戦してみようと思ったが、現場を見てすぐに諦めた。車はどこかに置いて歩いたほうがいい。えびの市歴史民俗資料館の駐車場に置いて歩くのもあり。2㎞ほど離れていてやや遠いが、兵士たちが見た風景の中を行くのもイイ感じなのだ。

山城の大手門跡

大手門跡、白い標柱もあった

山道へ入っていく

登城口、車だとヘアピンカーブが難所に

 

山道を登っていく。歩きながらまわりを見ると、曲輪の痕跡や人工的に掘り込んだであろう箇所が確認できる。本丸までは写真を撮りつつで、10分ほどだった。

山道の整地されたところ

これも曲輪の痕跡か

 

途中に「加久藤城跡」の標柱があった。ここから上を見ると本丸跡への虎口だ。城跡の説明看板も設置されている。

白い標柱に「加久藤城跡」

山道にも標柱

掘り込んである山道を

本丸の虎口跡

 

虎口の手前にはこんな地形も。坂道を上に行くと本丸へ。写真の左側のほうへ行くと搦手だ。この辺りには畑があり、私有地っぽかったので搦手方面には行かず。

坂道と段差がある

左側に搦手へつながる曲輪

 

本丸には竈門神社(かまどじんじゃ)が鎮座する。御祭神は火武主比神(ホノムスビノカミ)・奥津日子神(オキツヒコノカミ)・奥津比売神(オキツヒメノカミ)。カマド神の三柱である。神社の境内のほか、曲輪の一部は梅園となっていた。

山中に白い鳥居

広めの虎口に立派な鳥居が立つ

山の中の神社

竈門神社の境内

山中の土塁の痕跡

拝殿の背後のほうに土塁らしきものも

 

本丸と続きで二ノ丸もあるようだが、そちらは整備されていなかったので無理はせず。本丸だけの散策なら、距離もそれほどなく気軽に山城の雰囲気を楽しめる。

 

 

初代薩摩藩主の生まれた城

真幸院は古くは日下部(くさかべ)氏が治め、14世紀から北原(きたはら)氏が支配した。中世までの歴史については、こちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

加久藤城は北原氏が築いたとされる。もともとは久藤城(ひさふじじょう)と呼ばれており、近隣にあった徳満城(とくみつじょう、えびの市東川北)の支城であった。島津忠平(島津義弘)が真幸院の領主になったあと、久藤城のまわりに新城・中城などを加えて守りを強化し、「加久藤城」と呼ぶようになったのだという。

島津忠平(島津義弘)は若い頃から政略結婚が続き、正室(北郷忠孝の娘)も継室(相良晴広)も同盟の破綻などで離縁している。3人目の妻となった実窓夫人(広瀬夫人、宰相殿)は園田実明(そのださねあき)の娘とされる。

ちなみに園田実明は島津氏の家臣で、薩摩国鹿児島郡小野(おの、現在の鹿児島市小野)に領地を与えられていた。大永7年(1527年)に急襲された島津貴久(たかひさ、島津氏15代当主、島津義弘の父)を鹿児島から逃がすために尽力したのという。

園田実明の活躍はこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

実窓夫人(広瀬夫人、宰相殿)は身分が高くなく、当初は側室だったと思われる。夫婦仲はとても良かったと伝わり、五男一女を産んでいる。三男の島津忠恒(ただつね)は島津家の当主に。のちに徳川家康から偏諱を賜って「島津家久」と名乗った。加久藤城は初代薩摩藩主が生まれた城でもあるのだ。

 

 

 

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『えびの市の城館跡』
編・発行/宮崎県えびの市教育委員会 2008年

『西諸縣郡誌』
発行/宮崎縣教育會西諸縣郡支會 1933年

ほか