ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

島津義弘の戦歴(1) 岩剣城攻めの初陣から三州統一まで

島津義弘(しまづよしひろ)は「武」のイメージが強い人物だ。その生涯は、戦いに次ぐ戦いであった。初陣は天文23年(1554年)の岩剣城の戦い。最後は慶長5年(1600年)の関ヶ原。戦いの記録は半世紀近くにもわたる。

 

その戦歴をまとめてみた。まずは青年期から壮年期にかけての戦いぶりから。

若い頃は負け戦もけっこう多い。無茶がたたって、命を落としかけたりも。死地をかいくぐり、失敗も経験しながら、武人としての器量ができあがっていく感じなのだ。

 

なお、日付については旧暦で記す。

 

島津義弘の年譜はこちら。

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伊作城に生まれる

島津義弘は天文4年(1535年)7月23日の生まれ。織田信長(天文3年生まれ)とほぼ同年代で、豊臣秀吉(天文6年生まれ)や徳川家康(天文11年生まれ)よりも年上である。

薩摩国の伊作城(いざくじょう、鹿児島県日置市吹上町)が出生の地とされ、城跡には島津義弘の誕生石もある。

木々のあいまに石碑が並ぶ、古城の風景

伊作城跡、本丸の亀丸城

 

父は島津貴久(たかひさ)。母は入来院重聡(いりきいんしげさと)の娘で、「雪窓院(せっそういん)」「雪窓夫人」の名で知られている。祖父は島津忠良(ただよし、島津日新斎、じっしんさい)。

島津義弘は4人兄弟の次男で、兄に島津義久(よしひさ)、弟に島津歳久(としひさ)と島津家久(いえひさ)がいる。下は略系図である。

島津義弘の系図

 

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島津義弘の名前について

一般的には「義弘」の名で知られているが、じつは「忠平(ただひら)」と名乗っていた期間が長い。

幼名は不明。次男だからなのか、記録は見当たらない。元服後は「忠平」を名乗る。ちなみに島津氏の通字(とおりじ)は「忠」と「久」である。初代の島津忠久(ただひさ)に由来するのだろう。

天正14年(1586年)に「義珍(よしまさ)」と改名。これは足利義昭の偏諱を受けてのもの。さらに天正15年に「義弘」と改めた。

通称は「又四郎」といった。ちなみに島津義久は「又三郎」、島津歳久は「又六郎」、島津家久は「又七郎」である。義弘の子の島津久保(ひさやす)は「又一郎」、島津忠恒は「又八郎」と称した。

また、「兵庫頭(ひょうごのかみ)」「武庫(むこ、兵庫頭の唐名)」の通称も使う。出家後は「惟新斎(いしんさい)」と号した。

 

 

分家から覇権を握った父

島津貴久は分家の相州家(そうしゅうけ)の出身である。

島津氏は奥州家(おうしゅうけ)が本家筋だったが、15世紀末頃から領内の統制はままならなくなっていた。そんな中で、分家の薩州家(さっしゅうけ)と相州家が台頭。大永7年(1527年)頃から天文8年(1539年)にかけて、奥州家(本宗家)の島津勝久(かつひさ)、薩州家の島津実久(さねひさ)、そして相州家の島津忠良・島津貴久が争った。

天文4年(1535年)、島津勝久(奥州家)は本拠地の鹿児島を出奔。島津実久(薩州家)が鹿児島に入り、国政を執るようになる(当主についたという説もある)。一方で、島津貴久(相州家)は島津勝久と手を組んで対抗。天文6年(1537年)には鹿児島を奪い、天文8年(1539年)には谷山を攻略。また、島津忠良は薩摩半島南部の薩州家領に侵攻して、こちらも制圧する。薩摩半島の中南部をおさえた。

島津貴久が覇権を握った。これに対して大隅国西部・薩摩国北部・日向国南部の有力者たちが反発。大隅国西部の小浜(おばま、鹿児島県霧島市隼人町小浜)・清水(きよみず、霧島市国分清水)・加治木(かじき、姶良市加治木町)などで激戦が続き、10年ほどかけて平定する。

天文21年(1552年)、島津貴久は正式に守護職に任じられた。一方で、西大隅の火種もまだくすぶっていた。

 

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大隅合戦

天文23年(1554年)、蒲生範清(かもうのりきよ)と祁答院良重(けどういんよししげ)が動く。加治木城の肝付兼盛(きもつきかねもり)を攻めた。入来院氏・北原(きたはら)氏・菱刈(ひしかり)氏などもこれに同調する。

この肝付氏は、大隅半島に繁栄した肝付氏の庶流である。本家からはなれて島津氏(奥州家)に従い、兼盛の父の肝付兼演(かねひろ)は島津勝久の国老でもあった。肝付兼演は島津貴久に反抗するが、天文18年(1549年)に和睦している。

肝付兼盛に援軍を求められた島津貴久は大軍を率いて西大隅へ。その中には島津義辰(島津義久)・島津忠平(島津義弘)・島津歳久の姿も。3人は初陣であった。

大隅合戦は約3年にわたって繰り広げられた。戦場は現在の姶良市全域にあたる。

 

 

岩剣城の戦い

天文23年(1554年)9月13日、島津軍は海路で大隅国平松(ひらまつ、姶良市平松)に上陸。そして、平松の岩剣城(いわつるぎじょう)を囲んだ。ここを攻めれば、加治木城の囲みを解くだろうという狙いであった。はたしてそのとおりとなり、蒲生・祁答院勢は岩剣城の救援に動いた。

島津貴久は嫡男の島津義辰(島津義久)を本隊の大将とし、ともに指揮をとった。島津忠平(島津義弘)も一隊を任される。大隅合戦では梅北国兼(うめきたくにかね)と行動をともにすることが多く、こちらが補佐していたと思われる。

白銀坂(しらかねさか)付近の戦闘に参加する。これが島津義弘にとって最初の戦いの記録である。このとき19歳。島津忠平は白銀坂に布陣し、尾根側から岩剣城をうかがう。

9月20日、島津忠平が脇元に撃って出る。祁答院勢を誘い出し、あらかじめ伏せておいた兵で取り囲んで大勝した。9月21日には脇元川(思川)上流にあった敵の船10艘を奪い、城方を動揺させる。。

10月2日、島津軍は総攻撃をかける。その日の夜に城兵は逃亡し、岩剣城は陥落した。戦後、岩剣城の城番は島津忠平(島津義弘)に任される。

山城跡への登山口

岩剣城跡



 

帖佐本城の戦い

大隅合戦は続く。要衝の岩剣城を奪った島津軍はさらに攻勢をかける。

天文24年(1555年)3月2日、島津忠平(島津義弘)は島津忠将(ただまさ、叔父にあたる)とともに帖佐を攻める。帖佐本城(ちょうさほんじょう、別名に「平山城」や「平安城」とも、姶良市鍋倉)の麓を流れる別府川沿いで祁答院良重の軍と戦った。3月27日に島津貴久ら本隊も別府川南岸に到着する。

4月2日に祁答院勢は帖佐本城などを放棄して逃走。島津貴久が帖佐を制圧した。

 

 

松坂城攻め

蒲生範清は本拠地の蒲生城(かもうじょう、姶良市蒲生町上久徳)にたてこもる。ここは堅城で簡単に落とすことはできない。

島津貴久は蒲生攻めを開始する。弘治2年(1556年)3月15日、まずは松坂城(まつざかじょう、姶良市蒲生町米丸)を攻める。大将は島津忠平(島津義弘)。梅北国兼とともに出撃した。城を落とすことはできず、いったん退却する。

10月18日に再び松坂城を攻める。後詰めとして島津貴久が帖佐に布陣し、島津忠平(島津義弘)を本隊に、島津忠将や島津尚久(なおひさ、叔父にあたる)の部隊とともに取り囲んだ。蒲生範清・祁答院良重も救援の兵を出すが、こちらは後詰めの島津貴久が撃退した。松坂城は総攻撃を受けて陥落する。

10月19日、島津忠平は松坂城の北の漆(うるし)に進軍し、祁答院勢を敗走させる。松坂城と漆を制圧したことで、蒲生城への補給路を断った。

 

 

蒲生の戦い

弘治2年(1556年)11月、島津方は蒲生城を包囲する。島津義辰(島津義久)・島津忠平(島津義弘)は蒲生城の西側に陣取った。島津貴久・島津忠将・島津尚久の軍勢は東側から蒲生城をうかがう。

12月、蒲生氏救援のために菱刈重豊(ひしかりしげとよ)が蒲生北村(蒲生城の北に位置する)に進軍する。島津方は菱刈勢を相手に苦戦するが、弘治3年(1557年)4月に島津忠平・島津忠将・島津尚久らがこれを破る。菱刈重豊は自刃した。

蒲生城は孤立する。ついに蒲生範清は降伏を申し出る。弘治3年(1557年)4月20日、蒲生範清は城を明け渡し、祁答院へ落ちていった。島津貴久は西大隅を平定した。

 

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飫肥へ

永禄3年(1560年)3月、島津忠平(島津義弘)は島津氏分家の豊州家(ほうしゅうけ)に入る。豊州家は日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)・櫛間(くしま、宮崎県串間市)・志布志(しぶし、鹿児島県志布志市)などを領する。当時の当主は島津忠親(ただちか)であった。

もともと島津忠親は、日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市)の北郷氏(ほんごう、島津支族)の当主だった。母方の豊州家に後継者がなかったことから、こちらの家督をつぐことに。北郷氏の家督は北郷時久(忠親の嫡男)がついだ。豊州家と北郷氏は連携をとって勢力を維持していた。一時は、島津貴久と対立していたが、のちに同盟を結ぶ。

 

この頃、日向国では伊東義祐(いとうよしすけが)が勢力を増す。また、大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)を拠点とする肝付兼続(きもつきかねつぐ)も強盛となる。豊州家は伊東氏・肝付氏と抗争を繰り広げていた。

肝付兼続は島津貴久と同盟を結び、良好な関係が続いていた。しかし、同盟は決裂し、伊東氏と手を組んでいた。


島津忠親(豊州家)は島津貴久に支援を求める。これに応じで島津貴久も援軍を送った。そして、島津忠平が豊州家に入って、飫肥の守りを任されることになったのである。

島津忠平は北郷忠孝(島津忠親の弟)の娘を妻にむかえ、島津忠親の養子となる。飫肥城に入って、伊東軍とたびたび戦った。だが、戦況は好転しない。


永禄4年(1561年)、肝付兼続が大隅国の廻城(めぐりじょう、鹿児島県霧島市福山町)を奪う。ここを抑えられたことで、鹿児島と飫肥が分断された。廻城の戦いで島津方は苦戦する。

豊州家は鹿児島から支援が望めなくなり、いよいよ窮する。永禄4年7月に島津忠親は伊東義祐と和睦。飫肥本城などの割譲に応じる。また、肝付氏とも和睦し、志布志を割譲した。

島津忠平の養子縁組も解消される。妻とも離縁。永禄5年に島津忠平は鹿児島に帰る。

 

 

真幸院の動乱

日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市・小林市・西諸県郡高原町)は北原氏が治めていた。また、大隅国栗野院(くりのいん、鹿児島県姶良郡湧水町)や横川(よこがわ、霧島市横川)などもあわせて領する。北原氏は肝付氏の一族だが、本家から離れて独自の発展をとげていた。

16世紀半ばには北原兼守(きたはらかねもり)が大きな勢力を築き上げていた。しかし、永禄元年(1558年)頃に病没。後継となる男子がなかったことから、家督相続でもめる。ここに伊東義祐が介入してくる。北原兼守も妻は伊東義祐の娘だった。伊東義祐は後家となった娘を北原一族の馬関田右衛門佐に嫁がせ、こちらを当主に擁立する。北原家は伊東氏に乗っ取られた形となった。永禄5年(1562年)のことである。

 

北原氏の家臣は島津貴久に援助を求める。島津方では北原兼親(かねちか)を立ててて伊東氏に対抗することとした。北原兼親は肥後国球磨(熊本県人吉市のあたり)の相良義陽(さがらよしひ)のもとにいた。かつて内訌で出奔して相良氏に身を寄せた北原茂兼の孫であった。相良義陽を説得し、こちらの協力も得る。

島津氏・相良氏連合軍は真幸院を攻め、永禄5年5月に飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市原田)を奪還。北原兼親を入城させた。

 

横川の戦い

大隅国の横川城(よこがわじょう)を守る北原伊勢介は、伊東方についていた。島津貴久は降伏を勧告するが応じない。永禄5年6月、島津忠平(島津義弘)・島津歳久・新納忠元(にいろただもと)・伊集院久春(いじゅういんひさはる)らが横川城を攻め、陥落させた。

横川城が落ちると、伊東方についていた栗野院の諸城はつぎつぎと降伏する。旧北原氏領の多くが北原兼親の手に収まった。ただし、真幸院の三山(みつやま、小林市)・高原(たかはる、西諸県郡高原町)は伊東氏の支配下となった。

 

 

島津忠平、飯野城を任される

北原家領内では、戦いが続く。伊東氏は三山からたびたび侵攻してくる。また、相良氏は島津氏と手を切り、伊東氏と結ぶ。真幸院の維持は北原兼親では難しいと判断した島津貴久は、この地を直轄地とする。北原兼親には別の領地が与えられ、かわって島津忠平(島津義弘)に真幸院の守りが任された。

永禄7年(1564年)、島津忠平は飯野城に入った。真幸院では伊東氏との攻防がしばらく続いていくことになる。

城跡の城址碑

飯野城跡

 

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三山城の戦い

永禄9年(1566年)10月、島津氏が三山城(小林城)を攻める。島津義久を大将とし、島津忠平(島津義弘)・島津歳久を副将として大軍を派遣した。兵数は諸説あるが、『明赫記』によると「二万余騎」とも。

なお、これよりすこし前に島津貴久は隠居。島津義久は家督を譲られていた。

 

本隊は飯野城で島津忠平と合流して進軍する。島津義久の本隊は花立口に布陣。島津忠平隊は水ノ手口から、島津歳久隊は大手口から城攻めを開始した。三山城は城主の米良重方(めらしげかた)が守る。

島津忠平は二ノ丸を落とすが、本丸攻めで苦戦を強いられる。被害は大きくなるばかりだった。深い堀が死体で埋まるほどだったという。そして、島津忠平は重傷を負った。城を落とすことはできず、島津勢は撤退する。

シラスの丘の山城跡

三山城(小林城)跡

 

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菱刈・大口の戦い

大隅国菱刈(ひしかり)・薩摩国大口(おおくち)のあたりは、菱刈氏の勢力範囲であった。現在の鹿児島県伊佐市の一帯にあたる。菱刈氏は12世紀末頃よりこの地に土着したとされる。

当初、菱刈氏は島津貴久とは対立関係にあった。大隅合戦では蒲生氏に加担している。その後、当主の菱刈重猛(ひしかりしげたけ)は島津氏に従属し、真幸院での戦いにも従軍。恩賞として横川城も与えられている。

永禄9年(1566年)11月、菱刈重猛が没する。嫡男の鶴千代(のちに菱刈重広)はまだ幼く、菱刈隆秋(たかあき、重猛の弟)が家督代となる。この代替わりのあとに、菱刈氏は方針を変える。島津氏と手を切って、相良義陽と手を組み、反抗するのである。

 

 

馬越城攻め

永禄10年(1567年)11月24日、島津氏は菱刈に侵攻する。島津貴久は7000余(兵数は『島津国史』より)の兵を率いて、島津義久は8000余の兵を率いて大隅国馬越(まごし、伊佐市菱刈前目)に迫った。

島津忠平(島津義弘)は飯野から湯之尾(ゆのお、伊佐市菱刈川北)へ進軍。さらに湯尾から馬越へ兵を動かす。馬越城に夜襲をかけ、一気に陥落させた。

菱刈氏は本城(ほんじょう、太良城、たらじょう、伊佐市菱刈南浦)を本拠地としていた。ここは馬越城からやや南に位置する。菱刈隆秋は馬越城陥落を知ると、本城(太良城)を放棄。菱刈勢は相良氏を頼って大口城に入った。

 

 

羽月堂崎の戦い

菱刈氏・相良氏連合軍と島津方の戦いは続く。島津方は菱刈氏から奪った諸城へ家臣を配置し、大口城をうかがう。菱刈・相良方も島津方に対してたびたび兵を出した。

 

永禄11年(1568年)1月20日、馬越城から島津忠平(島津義弘)が羽月堂崎(はづきどうさき、現在の伊佐市大口堂崎)に撃って出る。率いる兵は数百といったところ。これを大口城守将の赤池長任(あかいけながとう、相良氏家臣)が迎え撃った。相良方の兵力は4000~5000(数字は『島津国史』より)あるいは3000とも(『西藩野史』より)。敵兵が多かったことから島津義久は止めるが、これを聞かずに島津忠平は出撃したのだという(『西藩野史』より)。

島津忠平の本隊は200から300ほどだったという。伏兵を使って敵を叩く作戦だった。しかし、大軍に囲まれて窮する。国老の川上久朗(かわかみひさあき)が奮戦し、島津忠平はなんとか戦場を離脱。馬越城から島津歳久・伊集院久治らが援軍を出して敵の追撃を払いのけ、島津忠平は曽木城に撤退することができた。

なお、川上久朗は重傷を負って馬越城に運び込まれるが、2月3日に亡くなっている。

 

 

桶比良の戦い

大口での戦いが続く。相良氏と同盟関係にある伊東義祐は、軍勢を真幸院桶比良(おけひら、宮崎県えびの市原田)へ差し向け、飯野城をうかがう。島津忠平(島津義弘)は飯野城に戻り、桶比良の伊東勢とにらみ合いとなった。永禄11年(1568年)11月には飯野城から兵を出して挑発。桶比良の兵を誘い出し、伏兵で囲んで勝利したとも。だが、戦況は膠着状態が続く。伊東勢はその後も桶比良に駐屯。島津忠平は飯野城の守りに専念することに。大口の戦いには参加できなくなった。

 

大口城の攻防は長引くが、永禄12年(1569年)9月に開城。菱刈氏は島津氏に降る。桶比良の伊東軍も撤退した。

薩摩国北部では渋谷一族の入来院重嗣(いりきいんしげつぐ)・東郷重尚(とうごうしげなお)が島津氏と敵対関係あった。だが、大口が落ちたことで孤立する。入来院重嗣は東郷重尚を説得し、ともに島津氏への帰順を申し入れてきた。これにて、島津氏の薩摩国平定がなった。

 

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木崎原の戦い

元亀2年(1571年)6月23日に島津貴久が没する。その直後、大隅の肝付氏・禰寝(ねじめ)氏・伊地知(いじち)氏が島津氏に対して攻勢をかける。

元亀2年11月、大隅勢が鹿児島湾に水軍を繰り出し、島津氏領内に進攻してきた。大隅国の竜ヶ水(りゅうがみず、鹿児島市竜ヶ水)や向島(むこうじま、桜島)などで戦闘となる。島津歳久・島津家久らの活躍もあり、これらの戦いを制した。

肝付氏に呼応して、日向の伊東義祐も動く。この頃、島津忠平(島津義弘)は真幸院の飯野城を守っていた。ただ、島津氏は大隅勢との攻防に兵力を割いている。北辺の守りは手薄となっていた。伊東方はそこを衝いてくるのである。

一方で、島津忠平も敵の動きを予測していたと思われる。寡兵ながらも、迎撃の作戦を練り込んでいたことだろう。


元亀3年(1572年)5月3日、伊東方は伊東祐安(すけやす、伊東義祐の従兄弟にあたる)・伊東祐信(すけのぶ、義祐の娘婿)・伊東又次郎・伊東祐青(すけはる、義祐の娘婿、伊東マンショの父)らを大将として出兵する。兵力は3000余。

飯野城の兵力はわずかに300ほど。また、飯野城の東にある加久藤城(かくとうじょう、えびの市小田)には島津忠平の妻(継室の広瀬夫人)があり、川上忠智(かわかみただとも、島津忠平の家老)が守る。こちらの兵力は50ほどだった。


5月4日未明に、伊東軍は加久藤城に攻めかかった。

島津忠平は飯野城を発つ。また、遠矢良賢(とおやよしかた)に50余の兵をあずけて加久藤城の救援に向かわせた。同時に狼煙を上げさせて大口・菱刈など近隣の味方に敵の襲来を知らせる。領民にも協力を要請し、擬兵(幟旗の近くで音を出して、兵がいるように見せかける)の策を実行させた。

島津忠平(島津義弘)本隊130余人は二八坂(にはちさか、えびの市大明司)に布陣。
また、五代友喜(ごだいともよし)隊40余人を白鳥山のふもとの野間門(池島川の近くか)に、村尾重侯(むらおしげあり)隊50余人を本地原(もとじばる、えびの市原田のあたり)に伏せさせた。

伊東軍は加久藤城に猛攻をかけるが、城方は堅く守る。飯野城からの援軍も到着して敵の背後をつく。城は落ちず、伊東軍は撤退する。

相良義陽も500の兵を率いて加久藤城を目指していたが、幟旗が立つ様子(擬兵)を見て引き返す。戦闘に参加させなかった。


伊東軍は白鳥山のほうへ退路をとるも、擬兵に惑わされて引き返した。加久藤城のやや南に位置する木崎原(きざきばる、えびの市池島)にひとまず駐屯する。深夜の城攻めと行軍で兵は疲れていた。

島津忠平の本隊はここへ突撃する。三角田(みすみだ)のあたりで乱戦となった。五代友喜が率いる伏兵や、鎌田政年が率いる別動隊も背後を突いた。大口にいた新納忠元など援軍も到着し、攻撃に加わった。伊東軍は包囲され、総崩れとなった。敗走する伊東軍を島津方はさらに追撃。本地原に差しかかると、伏兵の村尾隊が飛び出す。伊東軍は混乱。壊滅した。大将の伊東祐安・伊東祐信・伊東又次郎らも討ち取られた。

田んぼと「三角田」の標柱

木崎原古戦場、激戦地となった「三角田」

 

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日向侵攻

天正2年(1574年)、大隅の戦いも終結。肝付兼亮(きもつきかねすけ)が降った。島津氏は大隅国も平定する。天正4年(1576年)になって、島津氏は日向国の伊東氏領内への本格的な侵攻を開始した。

 

 

高原合戦

天正4年8月、日向国真幸院の高原に島津義久は大軍を送り込む。

軍勢はいったん飯野城に集まり、ここで体制を整えて出陣する。高原城(たかはるじょう、宮崎県西諸県郡高原町西麓)の東側の耳附尾に布陣した。

8月21日、島津軍は島津忠平(島津義弘)を先鋒として総攻めをかける。島津歳久・島津家久・島津忠長らを後軍とし、島津義久の本隊も鎮守尾(高原城の西)に押し出す。四方から高原城を取り囲んだ。高原城を守る伊東勘解由(長倉祐政、ながくらすけまさ)は和を乞う。島津方はこの申し出を受ける。23日に高原城は開城した。

高原城が陥落すると、伊東方の三山城(小林城、小林市真方)・須木城(すきじょう、小林市須木下田)を守る米良氏が寝返る。高崎(たかさき、都城市高崎町)・内木場(うちこば、小林市内木場)・岩牟礼(いわむれ、小林市東方)・須志原(すしはら、小林市須木内山)・奈佐木(なさき、小林市須木奈佐木)の城も降った。

 

 

野尻城攻め

天正5年(1577年)、島津の軍勢はさらに伊東領内の奥へ踏み込む。島津忠平(島津義弘)は野尻(のじり、小林市野尻)を攻めた。

野尻城を守る福永祐友(ふくなすけとも)は伊東義祐に援軍を求めるが、援けは来ない。孤立した福永祐友に島津方は調略をかけた。12月7日、福永祐友はやむなく寝返り、野尻城を明け渡した。また、内山城(うちやまじょう、天ヶ城、あまがじょう、宮崎市高岡町内山)の野村文綱も島津方についた。この重臣ふたりの寝返りは伊東家中を動揺させた。

 

 

伊東崩れ

天正5年12月8日、島津忠平(島津義弘)はさらに北上。戸崎城(とざきじょう、宮崎県小林市野尻町東麓)・紙屋城(かみやじょう、小林市野尻町紙屋)・富田城(とんだじょう、宮崎県児湯郡新富町上富田)も調略に応じた。島津軍は伊東氏の本拠地である都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市)・佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原町)に迫った。

伊東義祐は城を棄てて逃亡。豊後国(現在の大分県)の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)を頼って落ちていった。

日向国北部の土持親成(つちもちちかしげ)も帰順する。島津氏は日向国を制圧した。

 

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島津氏は三州統一をはたした。しかし、このあとすぐに北の大友氏が動き出すのである。

つづく。

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

『島津義弘の軍功記』増補改訂版
著/島津修久 発行/島津顕彰会 2000年
※『惟新公御自記』(島津義弘による自伝)を収録・解説

『鹿児島県史料 旧記雑録 後編 第1巻』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1981年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

ほか