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戦国時代の南九州、激動の16世紀(9)菱刈・大口の戦い、薩摩を制圧

島津貴久(しまづたかひさ)は日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)にも進出する。一方で、伊東義祐(いとうよしすけ)も真幸院への勢力拡大をうかがう。島津氏と伊東氏の野望がぶつかり、そこに肥後国の相良義陽(さがらよしひ)も絡んでくる。抗争はいよいよ激しくなっていくのである。今回の記事では、薩摩国・大隅国・肥後国・日向国の国境付近で激戦となる。

なお、日付は旧暦にて記す。

 

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島津と伊東と肝付と相良と

16世紀半ば頃になると、全国的に「戦国大名」が割拠するようになる。「戦国大名」の定義はあいまいであるが、おおむね「実力で領地を広げた地方政権」という感じだろう。南九州では、島津氏・伊東氏・肝付(きもつき)氏・相良氏が戦国大名化。永禄7年(1564年)頃のそれぞれの状況について、ちょっと整理しておく。

 

島津貴久(しまづたかひさ)

島津氏は鎌倉御家人の惟宗忠久(これむねのただひさ)を祖とする。藤原姓を称するが、秦氏の後裔と考えられる。名乗りは南九州の巨大荘園「島津荘(しまづのしょう)」から。

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15世紀より一族どうしが争う状況が続いていた。島津本宗家が力を弱めていく中で、分家が台頭してくる。相州家(そうしゅうけ、分家のひとつ)の島津忠良(ただよし、貴久の父)・島津貴久が一族の抗争を制して覇権を握った。分家からの下剋上であった。

永禄7年時点では、薩摩国中南部(現在の鹿児島県鹿児島市・日置市・いちき串木野市・南さつま市・南九州市・枕崎市・指宿市)と大隅国西部(現在の鹿児島県姶良市・霧島市・湧水町)を支配下に置き、各地の領主たちも家臣化しつつあった。さらに日向国真幸院にも勢力を広げた。日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)・櫛間(くしま、宮崎県串間市)の島津忠親(ただちか、分家の豊州家)や庄内(しょうない、宮崎県都城市)の北郷時久(ほんごうときひさ、島津支族)とは同盟関係。薩摩国出水(いずみ、鹿児島県出水市)の島津義虎(よしとら、分家の薩州家)や大隅国菱刈(ひしかり、鹿児島県伊佐市菱刈)の菱刈重猛(ひしかりしげたけ)も従属させている。

 

 

伊東義祐(いとうよしすけ)

伊東氏は藤原南家工藤氏の支族で、もともとは伊豆国伊東荘(いとうのしょう、静岡県伊東市)を領する豪族である。13世紀初めに一族の伊東祐時(すけとき)が日向国に所領を得て、その子孫が日向の伊東氏となる。南北朝争乱期より島津氏とは敵対することが多く、日向国の南部の領有をめぐって戦いを繰り返している。

天文2年(1533年)に当主の伊東祐充(すけみつ、義祐の兄)が若くして病死すると、家督争いが勃発する。この内訌ののちに伊東祐吉(すけよし、義祐の弟)が当主となるが、こちらも病死。天文5年(1536年)に伊東義祐が還俗して家督をついだ。伊東義祐は家中を掌握し、勢力を広げていく。島津氏豊州家が領する飫肥にも侵攻を続けた。

永禄5年(1562年)には真幸院の北原氏の相続問題に介入して、真幸院三山(みつやま、宮崎県小林市)を支配下に入れる。この頃に伊東氏は最盛期を迎え、その勢力の大きさは「伊東四十八城」と称された。領有していたのは、現在の宮崎県宮崎市・西都市・新富町・木城町・高鍋町・日南市・国富町・綾町・高原町・日向市・門川町・美里町・高千穂町・小林市のあたり。

伊東義祐は嫡男の伊東義益(よします)に家督を譲っている。自身は「三位入道」と名乗り、後見人として実権を握り続けた。

 

 

肝付兼続(きもつきかねつぐ)

大納言の伴善男の後裔を称する。安和2年(969年)に伴兼行(とものかねゆき)が薩摩国掾に任じられて下向したのがはじまりとされる。さらに、長元9年(1036年)に伴兼貞(とものかねさだ、兼行の孫)が大隅国肝属郡の弁済使(べんざいし、荘園の管理者)に任じられ、それ以降は肝属郡高山(こうやま)に土着。肝付氏を名乗るようになった。

島津氏とは対立したり、協調したりしながら、大隅において勢力を保つ。肝付兼続は島津貴久の姉を正室とし、相州家(島津忠良・島津貴久)とは同盟関係を結ぶ。相州家が一族の争いを制して覇権を握り、さらに勢力を拡大していく。一方で、肝付兼続の大隅国で勢力を広げ、肝付氏の全盛期を築き上げた。肝付氏は日向の豊州家・北郷氏と対立し、伊東氏と手を組む。そして、島津氏との同盟は破れ、永禄4年(1561年)の廻城の戦いから全面戦争へと突入した。

肝付兼続の勢力範囲は、大隅国東部と日向国志布志に広がる。現在の肝付町・鹿屋市・錦江町・南大隅町・大崎町・東串良町・垂水市・曽於市・志布志市にまたがる。大隅国禰寝(ねじめ、南大隅町根占)の禰寝重長(ねじめしげたけ)、下大隅(しもおおすみ、垂水市)の伊地知重興(いじちしげおき)も肝付氏と結ぶ。

なお、天文22年(1553年)に肝付兼続は隠居し、嫡男の肝付良兼(よしかね)が当主となっている。ただ、実権は肝付兼続が死ぬまで持ち続けたようだ。

 

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相良義陽(さがらよしひ)

藤原南家工藤氏の一族で、日向の伊東氏とは同族である。もともとは遠江国相良荘(さがらのしょう、静岡県牧之原市のあたり)を本貫としていた。13世紀初め、相良氏は源頼朝より肥後国多良木荘・人吉荘(たらきのしょう・ひとよしのしょう、熊本県球磨郡・人吉市)の地頭に補任され、一族が任地に下向したのだという(東国からの追放という説も)。

肥後国球磨を拠点に勢力を保ち、薩摩国北辺にもたびたび進出している。島津氏とは敵対することもあれば、同盟策をとったりする場合もあった。16世紀に入って相良氏は肥後国南部に勢力を広げる。その一方で、内訌や家督相続問題が続発する。天文15年(1546年)に当主となった相良晴広(はるひろ)は分家の出身で、父の上村頼興(うえむらよりおき)が補佐した。弘治元年(1555年)に晴広が没すると、嫡男の相良義陽が当主となる。相良義陽は若く、当初は祖父の上村頼興が後見していた。弘治3年(1557年)に上村頼興が亡くなると一族内にまたも内紛があったが、永禄3年(1560年)頃におさまった。

勢力範囲は肥後国球磨・葦北・八代(くま・あしきた・やつしろ、熊本県の人吉市・球磨郡・八代市・水俣市のあたり)のほか、薩摩国大口(おおくち、鹿児島県伊佐市大口)にも進出する。島津貴久とは良好な関係が続いていて、永禄5年(1562年)には島津氏と連携して伊東氏と戦っている。しかし、相良氏は一転して伊東氏と手を組むのである。

 

 

 

 

島津貴久が陸奥守に任官

永禄7年(1564年)3月14日付けで、島津貴久は朝廷より「陸奥守(むつのかみ)」に任じられた。島津本宗家はもともと「奥州家(おうしゅうけ)」と呼ばれている。これは奥州家の祖(島津氏6代当主でもある)となった島津氏久(うじひさ)が陸奥守を称したことにはじまり、歴代当主はその受領名を引き継いでいた。島津貴久は朝廷より正式に陸奥守の官位を得たことで、本宗家の正式な継承者であることを領内に示そうとしたのだろう。

また、同日付けで島津義久も「修理大夫(しゅりのかみ、しゅりのだいぶ)」に任官。こちらも島津氏当主が称する官職で、前任者は島津貴久である。

 

 

薩州家が長島を攻める

永禄8年3月、薩州家(さっしゅうけ)の島津義虎(しまづよしとら)が長島(ながしま、鹿児島県出水郡長島町)に侵攻する。

薩州家は島津氏の有力分家のひとつで、かつて島津実久(さねひさ、義虎の父)と島津貴久(こちらも分家の相州家の出身)が島津本宗家の覇権をめぐって争った。この抗争は島津貴久が制し、薩摩国中南部にあった薩州家領も奪う。その後、薩州家は本領の薩摩国出水(いずみ、鹿児島県出水市)を保っていた。

島津実久のあとをついだ島津義虎は、島津貴久と和睦。島津義久の長女(於平、おひら)を正室に迎えている。

肥後国の相良氏が島津貴久に敵対するようになると、薩州家はこちらを牽制する役割も担った。以前から薩州家と相良氏は勢力争いを展開している。

長島は天草諸島のうちもっとも南に位置する島である。薩州家領の梶折鼻(かじおればな、鹿児島県阿久根市脇本)とは海峡で隔てられているが、その幅は狭い(いちばん狭いところで350mほど)。現在は黒之瀬戸大橋がかかっている。

天草諸島は天草氏(あまくさ、大蔵氏の一族)諸族が治めていたが、16世紀半ば頃は相良氏の支配下に入っていた。長島領主の長島鎮真(天草氏の一族)は相良氏の圧迫を受けて堂崎城(どうさきじょう、長島町城川内)から逃げ、薩州家に身を寄せた。その後、堂崎城は相良氏の配下となった天草越前守が入った。薩州家はここに出兵する。

山城跡の古い石段

堂崎城跡、石段は当時のもの

 

島津忠兼(ただかね、義虎の叔父)を大将として堂崎城を囲む。船で城近くに上陸したあと、夜襲をかけて落城させた。天草越前守は切腹する。薩州家のものとなった堂崎城には島津忠兼が入った。

これにより長島は薩州家領となる。もともとは肥後国であったが、天草諸島のうち長島だけは薩摩国として扱われるようになる。現在も、長島は鹿児島県に属している。

 

 

祁答院良重、妻に刺殺される

薩摩国北部(現在の鹿児島県薩摩川内市・薩摩郡さつま町の一帯)は、13世紀中頃から渋谷一族が支配していた。16世紀においても一族の祁答院(けどういん)氏・入来院(いりきいん)氏・東郷(とうごう)氏が強勢で、島津貴久にたびたび反抗していた。また、出水の薩州家とも勢力争いを繰り広げている。

祁答院良重(けどういんよししげ)は大隅合戦に敗れて大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)を失うが、本領の薩摩国祁答院(けどういん、薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院)に勢力を保っていた。

【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(7)大隅合戦、島津義久と島津義弘と島津歳久の初陣

 

永禄9年(1566年)1月、祁答院良重は正室の虎姫に殺される。狩りから虎居城(とらいじょう、祁答院氏の本拠地、さつま町虎居)に戻り、酒をすすめられて酔ったところを刺されたのである。虎姫は、小姓に取り押さえられて討たれる。祁答院良重は普段から乱暴な行いが目立ち、日頃から妻に諫められていたのだという。

川の向こうの山城跡

虎居城跡、北薩広域公園から見る

 

虎姫は、島津実久(薩州家)の娘である。薩州家主導の暗殺であった可能性もある。

祁答院良重の死により、祁答院氏は領主の地位を失う。祁答院氏の家臣は入来院重嗣(こちらも渋谷一族)を頼る。祁答院は入来院氏に譲渡された。

なお、祁答院氏はのちに再興される。飫肥に出奔していた祁答院重加(良重の三男)が島津義久の家臣となり、祁答院氏の嫡流と認められた。

 

 

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島津義久が家督をつぐ

永禄9年(1566年)2月、島津貴久は守護職を嫡男の島津義久に譲る。島津貴久は隠居し、落髪して「伯囿(はくゆう)」と号した。このとき島津貴久は53歳、島津義久は33歳。また、次男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)は31歳、三男の島津歳久(としひさ)は29歳、四男の島津家久(いえひさ)は19歳であった。

これ以降は島津義久を当主とし、3人の弟たちが支えていくことになる。島津忠平(島津義弘)は日向国真幸院(まさきいん)の飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市原田)を拠点に伊東氏と対峙する。島津歳久は大隅国吉田の松尾城(まつおじょう、鹿児島市東佐多町)の城主として、北薩摩の渋谷一族に睨みをきかせる。

島津貴久は第一線から退いたものの、このあともまだまだ活躍する。世代交代後も、大きな影響力を持ち続けたようだ。

 

 

三ツ山城を落とせず

伊東義祐は日向国真幸院のうち三山(みつやま、みつのやま、宮崎県小林市)を掌握。新たに三ツ山城(別名に三山城、三ノ山城、小林城、場所は小林市真方)を築いて島津氏に備えた。

北原氏が築いた三ツ山城が別にあり、こちらは小林市細野にある。三ツ山城(新築)は、もともとあった三ツ山城の3㎞ほど北に位置する。

シラス丘陵に山城が築かれた

三ツ山城(小林城)跡

 

永禄9年(1566年)年10月、島津氏は三ツ山城へ出兵。島津義久を大将とし、島津忠平(島津義弘)と島津歳久を副将として総攻撃をかけた。兵力は2万とも(『明赫記』より)。

三ツ山城は石氷川(いしごおりがわ)が蛇行している位置にある丘陵に築かれている。東側・北側・西側の三方向は川で、これが水堀がわりになっている。島津忠平(島津義弘)は東側の水の手口から、島津歳久は城の西側の大手口から攻めかかる。城は米良筑後守(米良重方か)が固く守る。島津方は二ノ丸を落とすも、本丸はなかなか落ちない。島津忠平(島津義弘)も重傷を負うなど被害も大きくなり、島津方は兵を退いた。

 

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菱刈氏の離反

大隅国菱刈(ひしかり、現在の鹿児島県伊佐市菱刈)の菱刈氏はかつて島津貴久と敵対したが、永禄年間には帰順。永禄5年(1562年)に日向国真幸院で島津・相良連合軍が伊東氏と戦った際にも島津方として参加し、戦後には大隅国横川(よこがわ、鹿児島県霧島市横川)を島津氏より与えられている。

だが、再び菱刈氏は島津氏の敵にまわることになる。

 

菱刈氏は鎌倉時代の初め頃から大隅国菱刈と薩摩国牛屎院(うしくそいん、伊佐市大口)に土着した。薩摩・大隅の北辺に勢力を持ち、肥後国南部の相良氏とも関係が深かった。両氏は長年にわたって共存しており、ときには連合して島津氏と戦ったりもしているのだ。

 

相良義陽が島津氏と手を切り伊東義祐と結ぶと、菱刈氏は選択を迫られる。相良氏と行動をともにするのか? あるいは島津氏に従うのか? 

永禄9年11月には当主の菱刈重猛(ひしかりしげたけ)が35歳の若さで没する。嫡男の鶴千代丸は幼く、菱刈隆秋(たかあき、重猛の弟)が家督代となった。このような不安定な状況もあって、菱刈氏は相良氏側につかざるをえなかったとも考えられる。

また、渋谷一族の東郷重尚(とうごうしげなお)と入来院重嗣も菱刈氏・相良氏に味方する。じつは、東郷重尚は菱刈氏から養子入りしていて、菱刈隆秋の兄にあたる。

一方で、島津氏は菱刈氏を危険視していたことだろう。いつかは潰したいという思惑があって、当主の急死を好機と見て軍事行動に踏み切ったのかも。……と、そんな感じもするのである。

『樺山玄佐自記』『日向纂記』にはつぎのようなことも書かれている。前述の三ツ山城の戦いの際に菱刈氏から伊東氏へ島津氏の動きが伝えられたのだ、と。このことが島津氏の怒りを買い、菱刈攻めのきっかけになったという。

 

菱刈氏や渋谷一族についてはこちらの記事にて。

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【関連記事】南九州に所領を得た鎌倉御家人たち ~鮫島氏・二階堂氏・渋谷氏・比志島氏・種子島氏 ほか~

 

 

馬越城を攻め取る

永禄10年(1567年)11月24日、島津氏は菱刈に侵攻。島津貴久は7000余(兵数は『島津国史』より、以下同)の兵を率いて、島津義久は8000余の兵を率いて馬越(まごし、伊佐市菱刈前目)へ出兵する。また、島津忠平(島津義弘)は新納忠元(にいろただもと)・喜入季久(きいれすえひさ)・比志島義基(ひしじまよしもと)らとともに飯野から湯之尾(ゆのお、伊佐市菱刈川北)へ進軍。また島津方の兵は横川や大口にも押し寄せる。大軍をもって菱刈氏に攻撃を仕掛けたのである。

 

島津忠平(島津義弘)らは湯之尾から馬越城(まごしじょう、伊佐市菱刈庁舎近くの山)に夜襲をかけて、守将の井手籠駿河守らを討ち取って陥落させる。また、横川城を守っていた菱刈中務少輔は城を捨てて逃亡した。

馬越城は、菱刈氏の本拠地である本城(ほんじょう、太良城、たらじょう、伊佐市菱刈南浦)に近い。本城(太良城)にあった菱刈隆秋は馬越城の陥落を知ると城を捨てて、相良氏領の大口城(おおくちじょう、伊佐市大口里、大口小学校の裏山)に入った。

山城跡に標柱がある

本城(太良城)跡

水田地帯の向こうに山が見える

馬越城跡、本城(太良城)より見る

 

湯之尾・市山・青木・曽木・山野・羽月・平和泉(ゆのお・いちやま・あおき・そぎ・やまの・はつき・ひらいずみ、大隅国菱刈と薩摩国牛屎院にまたがる、現在の伊佐市一帯)の諸城を守っていた菱刈一族は城を放棄し、相良氏領の大口城へ逃げ込んだ。

島津方は菱刈氏領内を一気に制圧した。

 

 

薩州家は島津貴久・島津義久に協力

菱刈の戦いには薩州家も協力。戦後に山野・羽月・平和泉は島津義虎(薩州家)に任された。

薩州家は各勢力と姻戚関係にあった。菱刈重猛の妻は島津義虎の姉、祁答院良重の妻も島津義虎の姉である。また、島津義虎は島津義久の長女を妻としている。このうち菱刈重猛が亡くなり、祁答院良重は妻に刺殺されており、菱刈氏・渋谷一族とは縁が薄くなった(切れた?)。また、相良氏とは敵対している。このような状況から、島津貴久・島津義久と手を組んだのだと思われる。

 

 

大口攻防戦

島津方は奪った城に諸将を入れ、さらに大口城をうかがう。島津貴久・島津義久らの本隊は馬越城にあり、前述のとおり山野城・羽月城・平和泉城は島津義虎(薩州家)に守らせる。また、市山城には市来家利・伊集院久慶らが入り、曽木城には宮原景種・佐多久政(さたひさまさ)らが入った。

相良氏の軍勢が山野城を襲った。菱刈・相良方の勢いが増したこともあり、島津義虎(薩州家)は守り切れなくなった(在番を辞退したとも)。島津義虎の在番は羽月城のみとなり、平和泉城・山野城には別の武将を入れて守りを固めた。

平和泉城には島津家久・樺山善久(かばやまよしひさ)・樺山忠助(ただすけ、善久の子)を入れて守りを固めた。ちなみに、島津家久は樺山善久の娘を妻としている。

山野城には、国老を務める喜入季久(きいれすえひさ)が入った。

島津義虎(薩州家)が守る羽月城には、寺山直久(てらやま)も入る。この人物は島津貴久に仕えているが、もともとは薩州家の庶流である。

 

永禄10年12月29日(1568年1月)、市山城の市来家利・伊集院久慶・平田加賀守は大口城下に偵察に出る。そうしたところ、城から1000騎もの兵が撃って出て、3将とも討ち取られた。市山城には新たに新納忠元を在番させた。

大口盆地が広がる

大口城より城下を見る

 

永禄11年(1568年)1月20日、馬越城から島津忠平(島津義弘)から撃って出る。率いる兵は200余騎あるは300ほどだったという。菱刈氏・相良氏の軍勢は羽月堂崎(現在の伊佐市大口堂崎)にあり、その数は4000~5000(数字は『島津国史』より)あるいは3000とも(『西藩野史』より)。島津義久がやめさせようとしたが、島津忠平(島津義弘)は聞かずに出撃したのだという(『西藩野史』より)。伏兵を用いて敵を叩こうとするが、兵力差がありすぎた。大軍に囲まれて敗れる。この戦いでは国老の川上久朗(かわかみひさあき)が島津忠平(島津義弘)を逃がすために奮戦。川上久朗は重傷を負い、馬越城へ引き揚げて2月3日に亡くなる。

島津忠平(島津義弘)は撤退する。馬越城から島津歳久・伊集院久治らが援軍を出して追撃する敵を迎え撃った。島津忠平(島津義弘)は曽木城に入った。

 

2月28日、肝付兼盛(きもつきかねもり、国老)・島津忠長(ただなが、ただたけ、貴久の甥にあたる)が市山城の新納忠元のもとを訪れた。島津貴久の命令で大口城攻めの策を伝えるためであった。謀議ののちに新納忠元は馬越城に帰る2人を小苗代原(こなわしろばる)まで見送った。そして、小苗代薬師堂(伊佐市菱刈市山、現在の松原神社)に立ち寄り、壁に詩をしたためていたところで敵軍の襲来を伝えられた。にわかに現れた敵に、新納忠元は左脇を刺されるが、刀を抜いて応戦。新納忠元は負傷しながらもを市山城の兵を指揮し、鎌田政年(かまだまさとし)らとともに敵を撃退した。

 

3月23日、菱刈氏・相良氏・渋谷氏(東郷氏と入来院氏)は曽木城を攻める。宮原景種・佐多久政はよく守り、敵を撤退させる。三氏連合軍は曽木から市山にまわるが、市山城の新納忠元がこれを打ち負かした。

 

戦いが長引き、薩摩国加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)に隠居している島津忠良(しまづただよし、島津日新斎、じっしんさい、貴久の父)は和睦の指示を出す。5月、山野を割譲することを条件として、島津氏は相良義陽と和睦した。

だが、8月になって相良義陽は和睦を破る。相良氏は兵を羽月堂崎に進め、大口城の救援をはかる。また、伊東義祐もこれに呼応して日向国真幸院の桶比良(おけひら、宮崎県えびの市原田)に兵を出し、飯野城をうかがう。相良氏と伊東氏が手薄になっていた飯野城を挟撃しようと狙ったのだ。飯野城主の島津忠平(島津義弘)は城に戻り、桶比良の伊東勢とにらみ合いとなった。11月には飯野城から遠矢良賢(とおやよしかた)・黒木実利(くろきさねとし)が出撃し、桶比良を挑発。兵が出てきたところを伏兵とともに叩いて勝利した。

真幸院ではにらみ合いがつづき、島津忠平(島津義弘)は大口の戦いには参加できない。

 

 

伊東氏が飫肥・櫛間を制圧

島津貴久・島津義久らが大口で交戦中に、日向国櫛間の島津忠親(豊州家)は激しく攻め立てられていた。北からは伊東義祐が侵攻し、南からは肝付良兼が攻撃する。庄内(宮崎県都城市)の北郷時久も豊州家を支援するが、状況はどんどん厳しくなっていく。

ちなみに、島津忠親はもともと北郷氏の当主で、豊州家に後継ぎがなくなったことからこちらの家督をついだ。そして、北郷氏の家督は嫡男の北郷時久につがせた。つまり豊州家と北郷氏はほぼ同族という感じである。

肝付氏においては肝付兼続が永禄9年(1566年)に没したが、その勢いは落ちなかった。後継者の肝付良兼もまた名将であった。

 

永禄11年(1568年)1月、伊東義祐・肝付良兼の連合軍は飫肥城(豊州家の拠点のひとつ、宮崎県日南市飫肥)を囲んだ。北郷時久は酒谷(さけたに、日南市酒谷)に援軍をおくり、豊州家に加勢する。飫肥の籠城戦は数ヶ月におよぶ。伊東方は酒谷を攻めて北郷軍の救援を断ち、飫肥城では糧食が尽きる。6月8日、島津忠親(豊州家)は飫肥を放棄して櫛間城(くしまじょう、宮崎県串間市)に退いた。そして7月9日、島津忠親(豊州家)は櫛間城も棄て、北郷氏を頼って庄内に逃亡した。

豊州家はすべての所領を失った。飫肥を伊東氏が取り、櫛間は肝付氏のものとなった。

【関連記事】建昌城(瓜生野城)跡にいってきた、島津季久が帖佐に築いた豊州家の拠点 <豊州家について>

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島津忠良の死、そして和睦

永禄11年(1568年)12月13日、加世田で島津忠良(島津日新斎)が没する。享年77。墓所は加世田の保泉寺(ほせんじ)の支院である常潤院(じょうじゅんいん)に設けられた。保泉寺は「日新寺(じっしんじ)」と名称を改める。

古寺跡と立派な造りの墓所

常潤院跡、奥に見えるのが島津忠良の墓所

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生前から島津忠良は菱刈氏との和睦を指示している。島津氏ではその遺志を大事にし、和睦交渉を進めていく。永禄12年(1569年)1月、島津義虎(薩州家)の仲介により、島津氏・相良氏・菱刈氏の和睦がまとまる。1月20日に出水の感応寺(かんのうじ、鹿児島県出水市野田)に会して、和睦は成った。

 

 

大口城の陥落

永禄12年(1569年)3月18日、事件が起こる。相良氏家臣の深水頼兼(ふかみよりかね)が、大口城下で島津氏家臣の蒲池越中守と従者17人を殺害した。これにより、またも和睦は破れた。

菱刈氏は羽月城を攻めて外郭を破る。守将の島津義虎(薩州家)は城を出て、代わりに肝付兼盛・新納忠元が羽月城を守ることになった。また、新納忠元が守っていた市山城には島津家久が入った。

 

5月、肝付兼盛・新納忠元・島津家久は大口城の攻略に動く。島津家久は荷駄隊に扮して大口城下へ。大口城からは輸送隊に攻撃しようと兵が出てきた。うまく釣り出したのである。島津家久は敗走を装って伏兵を置いた場所まで誘導。羽月戸神尾(とがみお)で伏兵が敵軍を取り囲み、一気に殲滅した。「釣り野伏せ(つりのぶせ)」が決まり、相良氏・菱刈氏に大打撃を与えた。

8月18日、島津貴久・島津義久は大口城を囲み、総攻撃を仕掛ける。そして、相良氏・菱刈氏は降伏を申し出る。島津方はこれを受け入れ、9月2日に大口城は開城した。

山城の絵図

『三国名勝図会』より「大口城」(国立国会図書館デジタルコレクション)

山城跡の遊歩道

大口城跡

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また、飯野城と対峙していた桶比良の伊東勢も兵を退いた。

菱刈鶴千代(のちの菱刈重広)は本城(太良)と曽木が安堵された。また、菱刈隆秋は相良氏を頼って人吉に落ち、その後は相良氏の家臣として活動する。

大口地頭には新納忠元が任じられ、大口城に在番することとなった。

 

 

渋谷一族も降伏、薩摩国を平定

大口城が落ち、渋谷一族は孤立する。永禄13年(1570年)1月、入来院重嗣は東郷重尚を説得し、ともに島津氏に降伏を申し入れた。

入来院氏は薩摩郡の広範囲を支配していた。隈城(くまのじょう)・百次(ももつぎ)・平佐(ひらさ)・碇山(いかりやま)・高江(たかえ)を差し出し、本領である入来院清敷(いりきいんきよしき、薩摩川内市入来)と山田・天辰・田崎・寄田(やまだ・あまたつ・たさき・よりた、すべて薩摩川内市)が安堵された。

東郷氏は高城郡の高城(たき)・水引(みずひき)・湯田(ゆだ)、薩摩郡の中郷(ちゅうごう)・西方(にしかた)・宮里(みやざと)・京泊(きょうどまり)を献じた。本領の東郷(とうごう、薩摩川内市東郷)のみが安堵される。

水引・西方・中郷・湯田・京泊は島津義虎(薩州家)に、宮里は平田宗応(国老の平田氏の庶流)に与えられた。隈城の地頭には島津家久が任じられた。


菱刈氏・渋谷一族が降伏したことで、島津義久は薩摩国をすべて制圧したのである。

……つづく。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

鹿児島県史料集35『樺山玄佐自記並雑 樺山紹剣自記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1995年

『貴久記』
著/島津久通 国立公文書館デジタルアーカイブより

『北伊佐史』
編/有川国千賀 1926年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか