すごく遠い。行くにはけっこうな覚悟が必要だ。ここは離島を除く日本列島の最南端。
佐多岬は鹿児島県肝属郡南大隅町にある。車を走らせて南下していくうちに、植物の感じが亜熱帯性のものにかわる。陸続きなのに、見える景色は日本じゃないみたいなのだ。
江戸時代末期の地誌『三国名勝図会』の絵図とあわせて、佐多岬を紹介する。
『三国名勝図会』の詳細についてはこちら。
御崎神社、ジャングルの中に鎮座する
岬の突端の展望所までは、片道800mほどの遊歩道を歩いていくことになる。遊歩道入口のトンネルを抜けると、ぱっと視界が開ける。そこには緑に覆われた岬と、そして広大な海が広がっているのだ。
しばらく進むと御崎神社(みさきじんじゃ)。遊歩道に沿って行くといきなり拝殿の前に出るが、参道は海側から伸びている。鳥居もそちらのほうにある。
『三国名勝図会』にいい感じの絵図が掲載されている。社殿は新しく建てられたものだが、境内の様子は江戸時代からあまり変わっていないようだ。
古くは、御崎三所権現社と呼ばれていた。『三国名勝図会』によると、御祭神は底津少童命(ソコツワタツミノミコト)・中津少童命(ナカツワタツミノミコト)・上津少童命(ウワツワタツミノミコト)。「少童三神(綿津見三神、わたつみさんしん)」と呼ばれる海神である。また「六所権現」とも称し、御祭神は六柱であったとも伝わる。
なお、御崎神社に設置されている御由緒書では、御祭神を「伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)・外御子命六神」としている。外御子命六神とは、底津少童命・中津少童命・上津少童命・底筒男命(ソコツツノオノミコト)・中筒男命(ナカツツノオノミコト)・表筒男命(ウワツツノオノミコト)のことで、少童三神と住吉三神(すみよしさんしん)の六柱である。
御崎神社(御崎三所権現社)の創建は和銅元年(708年)とされている。出雲国秋鹿郡(現在の島根県松江市)の佐陀神社(さだじんじゃ、佐太神社)を勧請したと伝わり、「佐多」という地名はここに由来するとも。
もともとは海岸の磐屋に開設された浜宮であったという。慶長14年(1609年)に島津氏が琉球王国に侵攻する。その大将として出陣した樺山久高(かばやまひさたか)は浜宮に戦勝を祈願し、帰国して現在地に遷座したのだという。神社が南向きで参道が海側からのびているのは、琉球国の鎮護のためである。
また、樺山久高は琉球より持ち帰ったソテツを参道のまわりに植え、このソテツが大繁殖したのだという。なお、この地のソテツを持ち出すことは禁じられており、これを破ると祟りがあるそうだ。
2月19日・20日(もともとは旧暦1月19日・20日)には「御崎祭り」もある。御崎神社から近津宮神社(ちかつみやじんじゃ)まで約20㎞の道のりを神輿が巡行する。両社の神は姉妹で、妹神(御崎神社)が姉神(近津宮神社)に新年の挨拶に行くのだという。
御崎祭りの主役は前述の御祭神とはまた違う。もともとはこちらの姉妹神が祭られていたんじゃないだろうか。隼人が崇拝していた海の女神かな?
最果ての灯台守
参道を下りていって海岸のほうへ向かう。すると建物跡の石壁が現れる。これは、明治時代に建てられた灯台守の官舎跡である。
佐多岬沖の大輪島(おおわじま)にある灯台は明治4年(1871年)に点灯開始。もともとはイギリス人技師のリチャード・ブラントンが設計した洋式灯台で、官舎もその頃に建てられたそうだ。なお現在の灯台は2代目になる。太平洋戦争末期に空襲で破壊され、昭和25年(1950年)に再建された。
九州の南端
展望所の方へ。灯台守官舎跡からはジャングルの中を登っていく遊歩道でアクセスできる。
また、御崎神社の社殿から参道口へ下りずに、上のほうをまわっていくルートもある。こちらは眺めよし! 岬を上から見渡せる。下の写真の沖に見えるのは枇榔島(びろうじま)だ。
佐多岬の一帯は「御崎山」と呼ばれていた。また、ソテツが多いことから「蘇鉄山」とも。
展望所へ到着。すごい眺めだ。岬の突端とその先に灯台のある大輪島。天気が良ければ種子島と屋久島も見えるとのこと。この日は空がもやっとしていた。
こちらは『三国名勝図会』より岬から西方向の眺め。写真の左上のあたりに開聞岳の山影がうっすらと見える……かな?
1時間ほど散策して戻る。駐車場の巨大なガジュマルも、なかなかの存在感である。
「遠くへ行こう!」となったとき、佐多岬を目指しがちなのだろうか。「行けるところまで、行ってみたい」って感じで。そういう場面を描いた作品もけっこうあったりする。
コミック版『スーパーカブ』。5巻に佐多岬を目指すエピソードを収録
アニメ版『スーパーカブ』はAmazon Prime Videoで見られる。
こちらもバイクをテーマにした作品
実際に、佐多岬にはバイク乗りの方がけっこういた。
<参考資料>
『三国名勝図会』 巻之四十六
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年